Side→S 10話

「大丈夫ですか?」

「えっ」

 夕方、グレイに頼まれた仕事を終わらせて返ってきた柊をリビングで迎えたカスミは、そっと声を掛けてきた。

 対する柊は驚きに目を丸くしている。

 今までカスミから話しかけてきたことなどなかった。

 もしかして内向的な性格なのだろうか。本当は気にしてくれていたのだろうか。

――嬉しいな……。

 じわりと心に温かいものが滲んで広がった。

「ありがとうございます。大丈夫です」

「なら良いんですけど……。最近しんどそうに見えるんです。

どうか無理をしないでくださいね」

「ありがとうございます。最近は比較的休めているので大丈夫ですよ」

「比較的……?」

「ちょっと不眠症で……」

 まだカスミには言えない。毎晩過去のものと思しき自分が暴れているだなんて。

 とりあえず眠れていない事を言うのは差し支えない。

「えっ、大丈夫ですか……」

「……カスミさん、夜中には会いませんものね」

「寧ろ他の人には夜中に会ってたんですか;」

「見かける事はありましたよ」

 嘘はついてないぞ、嘘は。

「私は23時になったらぐっすりと眠ってしまうので……」

「その方が健康的でいいですよ」

「貴方がゆっくり眠れるように願っていますよ」

「ありがとうございます」

 お礼を伝えると、嬉しそうにカスミは微笑んで、台所に引っ込んでいった。

 これから夕飯の支度なのだろう。

――心配してくれてたの嬉しいな。

――これからもっと仲良くなっていきたいな。

 ソファーに凭れて目を閉じる。

 やっぱりカスミと話していると落ち着く気がする。

 グレイの言う通り、カスミは優しい性格なのだろう。

――まあグレイさんの妻だし……。

―ーそういえばあまりいちゃつくところ見ないけど、まあ歳を考えると当然かな……。

 やがて微睡に落ちていった。


 真夜中に汗をびっしょりと掻いた状態で、リビングに立つ。

 最近毎日のように飲む精神安定作用入り紅茶のお陰で少しマシになった気はする。

 けれど自分の心を戒めるように悪夢は止まらない。


 グレイの言う通り、記憶が戻るのは時間の問題なのだろう。

 その時までに、自分が受け入れられる準備をした方が良い気がする。

――頓服でも貰おうかな……。

――一気に使わないように少量ずつにして……。

 下手すると薬漬けだ。まあ悪夢のように狂って周りの人を血で染めるよりよっぽどマシなのだが。

――ここの人達は皆優しくて、大好きだから……。

――あいつらのような真似はしたくない。

 心に浮かべてから立ち止まる。

――あいつらって……?

 自然に思った心の声に震えた。

 嗚呼、自分が恐ろしい。

 でも、俺はこの環境を、ここの人達を愛している。


 沸騰したヤカンを見て、慌てて火を止めた。

 縋るようにティーパックにお湯を入れて少し待つ。

 ズルズルと座り込み、頭を抱えた。


「……柊さん、大丈夫?」

「………ロゼッタ!?」

 弾かれたように見上げてロゼッタの顔を見る。

 今は真夜中だ。

 リビングで声を掛けられたという事実に驚いて彼女を見る。

 真夜中に彼女を見る事はあったが、庭でうろうろしている事が殆どだった。

 けれど、今は意識はしっかりしているようだった。

 ロゼッタはしゃがみ込んで、柊の顔を覗き込んでいる。

「顔色が良くないよ、大丈夫……?」

「大丈夫だ」

 心底心配そうな顔で尋ねてくる彼女に心配をかけすぎたくない。

 紅茶のセッティングが終わった。口に含みながら、さてなんと説明しようかと考える。

「俺、不眠症が酷くて」

「大丈夫……?」

「ちょっとしんどいかな」

「顔色悪いもんね」

「お父さんに相談できてる……?」

「うん、グレイさんに相談してるよ。お陰で少し良くなってきたんだ」

「良かった……」

 ほっとしたように笑う。

 その笑顔に惹き込まれた。笑うと可憐な花のようだ。

「あまり無理しないでね。わたしも良ければお話聞かせてほしいな。

柊さんの力になりたいよ……」

「ロゼッタ……」

 きゅっと胸が締め付けられた。

 迷いながらも、柊は自分の悩みを口にしていく。

 ほぼ毎日悪夢を見る事。

 記憶喪失だけど、その記憶が戻りそうなこと。

 あまり良くない過去で、記憶を取り戻すのは怖いけど避けられないから落ち着けるように準備をしていること。

「…………」

 すると、俯いて黙り込んでしまった。

 髪が垂れて表情が見えないので焦ってしまう。

――やば、引かれたか……?

 手を伸ばしてそっと髪を掻き上げると表情が見えた。

 彼女が心配そうな顔だったのでほっと安堵する。良かった、嫌われてない。

「悪い記憶が戻りそうなの……?苦しくない……?」

「苦しいと思う……。出来れば思い出したくないって思うよ」

「苦しい想いをしてまで思い出す必要はないよ」

「ありがとう。やっぱりグレイさんの娘だな。同じ事言ってるよ」

「えへへ……」

 嬉しそうに笑う。父が大好きだから。


「ロゼッタは大丈夫か……?」

「え?」

「たまに苦しそうにしてるなって気になる時があって……」

「うん……」

 夜中に庭をうろついている事を知ってる事は伏せた。

 見かけたときはうっかり遠くに行かないように隠れて見守るようにしている。

「そうだね、しんどい時はあるよ……」

 グレイから事情を聞いていたので、それだけで理解できてしまう。

「ロゼッタこそ無理するなよ」

「実はちょっとしんどくて、水を取りに来たの」

「えっ、大変じゃないか」

 ロゼッタは冷蔵庫から水を取ると、踵を返す。

 返そう――として、ロゼッタが膝から崩れ落ちた。


「ロゼッタ!?」

「だ、いじょうぶ……」

 曖昧に笑って、伸ばされた手を受け入れる。

 柊の肩を両手で掴んで、支えと共に立ち上がろうとする。


「しんどいだろ。部屋まで送ってく」

「ありがとう……」

 どこか誤魔化すような笑い方が、苦しみを悟られまいとする笑い方に既視感があった気がした。

 放っておけなくて柊は肩を貸す。

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