Side→S 8話

――……ちゃん……。

――ぃ、ちゃん……。


 誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。

 両手も、シャツについた返り血も真っ赤だ。

 そんな自分は、声に、期待に応えてあげられない。


「…………!!」

 柊はがばっと身を起こした。

 目を開ければほっと安堵して息が漏れ出た。

 分かっている。これは悪夢なのだと。

 目を開ければ愛おしい平穏が出迎えてくれる。

 でも何故だろう。こんな夢を見たくないと思っているのに見てしまうのは。

 早く目が覚めてくれと願うのに、なかなか覚めてくれないのは何故だろう。


「…………また、この夢だ……」


 夢の中では俺はいつだって血に濡れている。

 狂気的な笑みを浮かべる俺はさながら殺人鬼だ。

 誰かが自分を呼んでいる。

 それでも俺はその人に声を掛けてあげられない。

 傷つけてしまっているのは分かるのに――。


 その人は誰なのだろう。

 どこの誰で、今は何をしているのだろう?

 気になるけど、何も思い出せない。

――思い出せないのは、俺のせいなんだろうな。

 きっと脆弱な心が拒んでいる。

 真実を知るのが怖いのだ。

 分かっている。逃げているだけで、本当はろくでもない真実が隠されていることくらいは。

 認める事は、安らぎを捨てる事だ。

 今の暮らしが愛おしいからこそ、絶対に出来ない。

 たとえ、信頼を寄せる誰かを裏切る事になったとしても。

「………はは」

 情けなくて、自分勝手で自嘲気味に笑い声が零れた。

 こんな弱い俺を、誰が愛してくれると言うのだろう。


 涙を拭った後、柊はベッドから抜け出した。

 喉がからからだ。

 今すぐ何もかも潤したかった。


 リビングに行って、お湯を沸騰させる。

 前にグレイが淹れてくれた紅茶が美味しかった。

 飲んでいると安らぎを感じたのだ。

 カモミールの紅茶を選び、ティーパックをポットの中に入れる。


 その時、外から何かの音が聞こえた。

 何だろう?さくさく、と何かを踏みしめるような音だ。

 足音は近づいたり遠のいたりしているがずっと鳴っている。

――泥棒……?

 取られるようなものは何かあるだろうか。

 薬草の類は量が多いし、現金が沢山ある訳でもないのだが。

 カーテンの一部を引いて、そっと覗いてみた。


――ロゼッタ?

 見れば、灯りひとつついていない、月明りもない闇の中、庭でロゼッタがうろうろとしている。

 まるで縋るように白い薔薇を愛でて撫でる。

 酔いしれるように桃色の薔薇の香りを嗅いだ。

 弾かれるように立って、そのまま花壇の周りを何周も何周も歩く。

 嗚呼、見れば裸足だ。

 脚が汚れるのも、足の裏に傷がつくのも構わず、庭の中を行ったり来たりを繰り返す。

 表情は朦朧としているような気がした。

 しかし、目だけは輝いている。


 ゾクリ、と背筋が怖気立った。

「……ロゼッタ……」

 でもまるで自傷しているような光景だと思った。

 なんだろう、リストカットしている女子が生を確かめるのに似ているような何かを感じる。

 柊はカーテンを閉めると、玄関から回った。

 これ以上白い素足を傷つけるのを止めよう。


 靴をしっかり履いて、庭に回ると、もう一人の姿を認めた。

 グレイだ。

 彼はロゼッタの背を優しく撫でて、何かの錠剤を取り出した。

 差し出された水と共に飲み干したロゼッタは、はあはあと荒く息をしている。

 やがて落ち着いたのか深呼吸をした。


「柊」

「……シュウ、……さん?」

 とうに気づいていたグレイが穏やかに話しかけてきた。

 反対にロゼッタは弾かれるように顔を上げた。

 何かに怯えるような表情に、柊は優しく微笑んで、

「大丈夫。俺は何も見てないから」

「…………うん」

 最適解はこの言葉だと思った。

 何故そう思ったか自分でも分からない。


 ただ、自分が彼女の立場なら、おかしな自分は知られたくないだろうと思ったから。

 俺もそうだから。


 優しく彼女の頭を撫でて、そっと抱っこする。

 グレイが何かを飲ませていたが、精神安定剤だろうと察した。

 それなら眠気は来るのだろう。

 長い髪を撫でながら運んでいると、ロゼッタは眠りについたようだ。


「グレイさん。ロゼッタ、は……」

「うん。たまに発作を起こして、夜に起きてくるよ。

屋敷の外には行かないし、ご近所さんもいないから別に大丈夫なんだけど。

彼女自身がしんどいだろうから、折を見て安定剤を飲ませてる」

「そっか……」

 明るく笑ってくれる彼女も、人には言えない悩みを沢山抱えているのだろう。

 PTSD持ちである事は知っている。

 過去が彼女を苦しめているんだろうな。

「部屋に運んで寝かせてくるよ」

「よろしくね。ありがとう、柊」

 優しい声を背中に聞きながら、ロゼッタの部屋に入った。

 ベッドに下して、眠る彼女の横顔を見つめる。

 優しく頭を撫でると、そっと手を握り返してきた。


「…………」

 眠り姫の小さな唇は誰の名前も紡がない。

 やがて柊は立ち上がると、部屋を後にした。


 その後で、ロゼッタは誰かの名前を呟いたが、その声は小さすぎて誰にも届かなかった。

柊の淹れたカモミールティーはとても濃かったが、その日はあまり眠れなかった。

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