Side→S 6話
嗤い声が聞こえる。
愉しくて仕方ないという聲が聞こえる。
これは誰のもの――……?
嗚呼、俺だ。
下を見れば、両の手は真っ赤に染まっていた。
どろぅりと緋に染まり、抱えきれず指先から雫が滴り落ちた。
それらは大きくなり、赤黒い吹き溜まりになる。
怒号が聞こえる。
たまらず止まらず、俺は角材を振りかぶり――
「…………っ!!」
次に視界に入ったものは、いつもの光景だった。
安らぎの屋敷の、俺の部屋の中だ。
いつの間にか起き上がっていたので慌てて両手を確認すれば、血の赤は全くなかった。
頭ごと視界を動かせば、薄暗い灯りの下、部屋にあるものが伺えた。
机、テーブル、洋服箪笥、そして使い込まれた日常品。
「はぁ……はぁ……はぁ。あぁ……」
夢。悪夢。
なんだろう、さっきの光景は。
やけにリアルで生々しかった。
あの光景に俺は見覚えがあった。
――あれは……。
――過去の、俺……?
ずきずきと頭の左が痛む。
血管が脈打つたびに痛みが響いた。
「思い、出したくない……」
声にならない声が唇からこぼれた。
ああ、こんなに弱弱しかったのか俺は。
背もたれに凭れてずるずると崩れ落ちる。
これ以上何も思い出したくなかった。
ただの悪夢であるはずなのに、それを夢と笑い飛ばせないのは、あれが事実だと解ってしまっているからなのだろう。
「俺、は……」
瞳から熱い涙がぼろぼろと落ちて止まらない。
※
涙がようやく止まった頃、今度覚えたのは強烈な渇きだ。
――ああ、生きてるんだな、俺……。
口の中に水分がなかった。これに気づかないほど泣いていたというのか。
部屋の中の時計を確認すれば、午前3時を指していた。
自室の戸を開けて廊下に出て、夜の屋敷の中を歩く。
リビングに辿り着き、冷蔵庫の中から水の入ったペットボトルを取り出した。
自分のコップに中身を移して、そのまま一気に中身を煽った。
口の端から零れた水を右手で拭い、息をすれば楽になった気がした。
――さっきのは何だったんだろうか。
考えなくても分かる。閉じ込めていた記憶だ。
これ以上思い出したくない。考えていたくない。
けれど、いつか直視しなければならない日はきっと来る――。
――皆に知られたくないな……。
ロゼッタにもカスミにもグレイにも知られたくない。
あんなのが俺の本当の姿なんて認めたくないし知られたくもない。
言わなければいい。隠して閉じ込めて、言わなければきっと知る由もないはずだ。
「柊?」
背後から声を掛けられて、肩をびくつかせて振り返ったら、後ろにグレイが立っていた。
「グレイ、さん……」
「ごめんね、驚かせたかな」
「いえ、大丈夫です……」
「柊、汗ぐっしょり搔いているけど、大丈夫かい?」
「あ……。ちょっと嫌な夢見ちゃって……」
――あ。
隠すと決めたばかりなのに、ついつい話してしまった。
悪夢を見たってだけなら大丈夫か?
「そっか。それはしんどいね。
ちょっと眠りにくいだろうけど、気分が落ち着いたら眠るといいよ。
ハーブティー淹れようか?」
「そう……ですね。お願いします」
真夜中でもあるにも関わらず、手ずから紅茶を淹れてくれる。
本当に有難い話だ。
お湯を沸騰させた後、用意してあったティーパックにお湯を注ぐ。
コポコポとお湯の音を聞いて、今の生活の象徴のグレイの姿を見ていると少し落ち着いた。
――もう前の生活に戻りたくない。
前の生活が何かは思い出せないけど。
それが悪夢の血だまりに関係があるなら、思い出したくもないし戻りたくもなかった。
少し癖のあるハーブの味。同時に甘い。
「カモミール?」
「正解。大分詳しくなったね」
カモミールの匂いを嗅いで、口に含むと呼吸が落ち着いてくる。
ああ、俺は肩で息をしていたんだな。
「しんどい時はいつでもおいで。いつでもお話し聞けるから」
「ありがとうございます……」
眼鏡の奥の瞳は優しくて、心から言ってくれているのが分かる。
だからこそ、この優しい時間を失くしたくないと強く思った。
俺の過去は隠し通さなければ。
「眠れない日が続く時は、言ってくれたらお薬処方するからね。
軽い睡眠薬とか、自律神経を整える系で」
「そうですね……。その時はお願いしますね」
素直に頷いた。
グレイは、何も言わずに用意してくれる気がした。
紅茶を貰ってベッドに横になると、その日は朝まで眠れた。
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