Side→S 6話

 嗤い声が聞こえる。

 愉しくて仕方ないという聲が聞こえる。

 これは誰のもの――……?


 嗚呼、俺だ。


 下を見れば、両の手は真っ赤に染まっていた。

 どろぅりと緋に染まり、抱えきれず指先から雫が滴り落ちた。

 それらは大きくなり、赤黒い吹き溜まりになる。


 怒号が聞こえる。

 たまらず止まらず、俺は角材を振りかぶり――


「…………っ!!」


 次に視界に入ったものは、いつもの光景だった。

 安らぎの屋敷の、俺の部屋の中だ。

 いつの間にか起き上がっていたので慌てて両手を確認すれば、血の赤は全くなかった。

 頭ごと視界を動かせば、薄暗い灯りの下、部屋にあるものが伺えた。

 机、テーブル、洋服箪笥、そして使い込まれた日常品。


「はぁ……はぁ……はぁ。あぁ……」

 夢。悪夢。

 なんだろう、さっきの光景は。

 やけにリアルで生々しかった。


 あの光景に俺は見覚えがあった。

――あれは……。

――過去の、俺……?


 ずきずきと頭の左が痛む。

 血管が脈打つたびに痛みが響いた。

「思い、出したくない……」

 声にならない声が唇からこぼれた。

 ああ、こんなに弱弱しかったのか俺は。


 背もたれに凭れてずるずると崩れ落ちる。

 これ以上何も思い出したくなかった。

 

 ただの悪夢であるはずなのに、それを夢と笑い飛ばせないのは、あれが事実だと解ってしまっているからなのだろう。


「俺、は……」


 瞳から熱い涙がぼろぼろと落ちて止まらない。


 涙がようやく止まった頃、今度覚えたのは強烈な渇きだ。

――ああ、生きてるんだな、俺……。

 口の中に水分がなかった。これに気づかないほど泣いていたというのか。


 部屋の中の時計を確認すれば、午前3時を指していた。

 自室の戸を開けて廊下に出て、夜の屋敷の中を歩く。

 リビングに辿り着き、冷蔵庫の中から水の入ったペットボトルを取り出した。

 自分のコップに中身を移して、そのまま一気に中身を煽った。

 口の端から零れた水を右手で拭い、息をすれば楽になった気がした。


――さっきのは何だったんだろうか。

 考えなくても分かる。閉じ込めていた記憶だ。

 これ以上思い出したくない。考えていたくない。

 けれど、いつか直視しなければならない日はきっと来る――。


――皆に知られたくないな……。

 ロゼッタにもカスミにもグレイにも知られたくない。

 あんなのが俺の本当の姿なんて認めたくないし知られたくもない。

 言わなければいい。隠して閉じ込めて、言わなければきっと知る由もないはずだ。


「柊?」

 背後から声を掛けられて、肩をびくつかせて振り返ったら、後ろにグレイが立っていた。

「グレイ、さん……」

「ごめんね、驚かせたかな」

「いえ、大丈夫です……」

「柊、汗ぐっしょり搔いているけど、大丈夫かい?」

「あ……。ちょっと嫌な夢見ちゃって……」

――あ。

 隠すと決めたばかりなのに、ついつい話してしまった。

 悪夢を見たってだけなら大丈夫か?

「そっか。それはしんどいね。

 ちょっと眠りにくいだろうけど、気分が落ち着いたら眠るといいよ。

 ハーブティー淹れようか?」

「そう……ですね。お願いします」

 真夜中でもあるにも関わらず、手ずから紅茶を淹れてくれる。

 本当に有難い話だ。

 お湯を沸騰させた後、用意してあったティーパックにお湯を注ぐ。

 コポコポとお湯の音を聞いて、今の生活の象徴のグレイの姿を見ていると少し落ち着いた。

――もう前の生活に戻りたくない。

 前の生活が何かは思い出せないけど。

 それが悪夢の血だまりに関係があるなら、思い出したくもないし戻りたくもなかった。


 少し癖のあるハーブの味。同時に甘い。

「カモミール?」

「正解。大分詳しくなったね」

 カモミールの匂いを嗅いで、口に含むと呼吸が落ち着いてくる。

 ああ、俺は肩で息をしていたんだな。


「しんどい時はいつでもおいで。いつでもお話し聞けるから」

「ありがとうございます……」

 眼鏡の奥の瞳は優しくて、心から言ってくれているのが分かる。

 だからこそ、この優しい時間を失くしたくないと強く思った。

 俺の過去は隠し通さなければ。

「眠れない日が続く時は、言ってくれたらお薬処方するからね。

 軽い睡眠薬とか、自律神経を整える系で」

「そうですね……。その時はお願いしますね」

 素直に頷いた。

 グレイは、何も言わずに用意してくれる気がした。


 紅茶を貰ってベッドに横になると、その日は朝まで眠れた。

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