ごり

第1話

僕は何もない真夜中に溺れる、星を見ながらパイプでもふかしながら、少し湿った石畳を踏みしめ、まだ開いている果物屋を探し歩いていた。不意に桃が食べたくなったから。どんな桃でもよかった。このむしゃくしゃした気持ちを吐き出させてくれるなら、桃じゃなしになんでもよかった。


僕には婚約者がいた。だけど、だけども子供もできず遂には出て行ってしまった。家にいても、頭痛で何もできず。ついあても無く飛び出してきて、今こうやって生臭い往来を歩いている。歩けども歩けども、果物屋なんて開いてはいない。開いているのは色欲を売る店ばかりだ。桃は桃でも僕が求めているのは果物だ。人になんて会いたくはない。神社に行こう、仏でも拝んでスッキリしよう。汽車も動いてないので歩くことにはなるけれどそれもまた、きっと慰めになる。歩こう。


線路脇の電灯の並木を辿りながらとぼとぼと重い片足を引きずり神社へ向かっていると、しゃがみこんでいるいきずりの女を見つけた、妻を思い出した。着物がはだけている、伝統的な寺町通りに似つかわしくない派手だけど静かそうな見た目の女。妻も派手好きだった、つまらない僕に愛想をつかして出て行った。女が涙の溜まった目を僕に向ける。今にも泣き声を上げてしまいそうな子供みたいな目、実際背丈も顔立ちも子供そうと変わらないように見えた。それなのに格好はやけに大人びていて僕はドキリとして心臓の音が耳の奥に響いているような気がした。人生二度目の一目惚れだった。彼女もそうなら嬉しい。ついに泣きだした少女はなんと、他でもない僕に向かって飛び込んできた。鼻を垂らしながら、綺麗な顔をぐちゃぐちゃに濡らし少し癖のある声で愚痴のような失恋話を投げつけてくる。まるで心臓が体の中を跳ねまわっているようだった。


「兄ちゃん、きいてくれよ~。おれ、振られたんだよ~。何回目よ、もう。忘れたわ。そんなのそんなにあかんか俺。」

見た目と口調のギャップ。

「初恋のあの子に似てるだの、君とは対等に愛し合えない。キザ男どもがよ。」

これは別に僕に言っている感じではない。独り言の様だった。庇護欲を掻き立てられる見た目に反して、野郎言葉。僕はこの子の独特の危うさに魅力を感じた。妻と似ているのに正反対な性格。

「あ、あの果物屋知りませんか?桃が食べたくて。」

「はぁ?知るかそんなもん、第一今の時期売ってないしやってへんやろ。」

「そりゃそうですよね。じゃ、もう行きますね」

「なんじゃそりゃ。俺のお願いも聞いてや。兄ちゃん。」

「なんですか?お金ですか?」

「え、違うよ。俺と恋人になってほしいんや。兄ちゃん付き合えや。」

いきなりの男らしい告白に一瞬目の前がちかちかとした。

「なんで」

「あんたと同じ一目惚れだよ。」

ぱあっと笑った顔が夜にだけ咲く向日葵の様に美しかった。風鈴と鈴虫の合唱も相まって終わりかけの夏の儚さと少女の儚さを同時に見た。


新聞屋の自転車がチリンチリンと小気味のいい音を鳴らして僕らの隣を通り過ぎていく。空には明けの明星が滲んでいる。

「星、綺麗ですね。」

「まあな俺には負けるけどな。まあ、綺麗なんちゃうか。酔ってたら泣いてまうくらいには綺麗やね」

「よく泣いて、赤ちゃんみたいですね。あなた。」

「いてこましたろか、お前。まあ俺は、それはそれはよお泣くよ、感情豊かやからな。こないだなんて人魚姫でボロ泣きよ。案外とかわいいとこあるやろ」

とあれこれ話している後ろからさっきの自転車がこちらに向かってくる。にやりとした少女の顔が一瞬で強張る。

「やい、イタリア娘やないかい。やっとお客とれたんか、よかったな。お前みたいなチビ好きな奴もおんねんな。おい兄ちゃんきいつけいや。こいつすぐ泣くど。めんどいさかいな。」

「知ってますよ。ところでイタリア娘というのは?」

「こいつイギリス人形みたいな面してるからそうよんどるんよ。」

「じゃあイギリス娘では?」

「ほんまやん。気づかんかったわ。兄ちゃん賢いなぁ。じゃワイ配達あるでもういくわ。よおしたってなぁほんま。おおきに。」

嵐の後の静けさの様に青年はチェーンを響かせカラカラと走り去っていった。2人はその背中を明け方の憂鬱さの霧、その奥に消えるまで眺めていた。


「今の人とはどういう関係なんですか?」

「俺を振った男や。それも今日。」

柄にもなくしょんぼりしているまだ名前も知らない女。上りかけの朝の陽ざしが少しずつ山肌を青く染める。僕はあの山の向こうに何があるのか知らないようにこの子の事を何にも知らない。知りたいと思った。

「そ、そういえばお互い名前を知らないですよね。」

今まで聞かなかったのはお互い、あとから糸が引くのが怖かったからだ。

「俺はモモエや。自分は?」

「僕はタカシです。24歳。」

「14や。」

「十歳も違うんですね。僕ら。」

「お前をここで殺したら10年後には同い年やな。」

「死んだときに時が止まるんですね。人って。」

「ん?止まらんよ何を変な事言ってるん。あほなんか。」

生意気で情緒不安定なガキ。そんなガキと目を覚まし始めた商店街の小道を神社めがけて突き進む。鐘の音が響き渡り、シャッターの上がる音がする。僕は急いだ、町がこの夜のベールを脱ぎ棄てる前に仏にお礼をしたかったから。この夜に感謝をしたかった。僕の心を埋めてくれる、小さい竜のような強さを持ったモモエに合わせてくれたことの感謝を、僕は肩に乗せて走った。モモエは驚いて、騒いで、大笑いして目に涙をためていた。誰もいない町に足音が響いた。この街、この世界で一番しあわせなのは僕らではないかとすら、思った。実際最高に幸せだ。神社につき門の前でキスをしてから入った、ブッダも地獄で嫉妬してそうなくらいのキスを。


カランコロンと鈴をならし、パンパンと手を鳴らし適当に礼をして、開け放たれた町へ帰る。俺は神や、と言い参道の真ん中を歩き門を跨ごうとしてこけたモモエに思わず噴き出しながら、おぶってやり歩き出した。


パステルカラーの果物たちが並ぶ店が目に入る。八百屋、店先には檸檬と桃が並んでいた。桃を手に取り声をかける。かけられた相手は僕の妻になるはずの女だった。だけどもう愛なんてぶつけ合わない他人同士、僕は本当の愛を見つけたのだから、朝早く来たものだから物珍しさに奥からもう一人、新聞屋の青年だった。あの時の歯切れの悪さはそういうことだったのか、と理解した。桃は嫌に生温く僕は彼女の事が愛しくてたまらなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ごり @konitiiha0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ