第2話 這《ハ》の章
「……どこだここは……?」
薄暗い部屋の中、古めかしいベッドの上で
見覚えのない古めかしい木目の天井。
見覚えのない押し入れの
趣味ではない
おそらく寝室であろう室内に充満する香りにも、覚えがない。
(だめだ……、まったく思い出せない……)
自分は何故この見知らぬ部屋で眠っていたのかを思い出そうとするが、頭の中に
ふらふらとベッドから重い体を引きずり降ろして窓辺に向かい、
(見覚えがあると感じたわけだ……ここは……)
窓から見やる景色を見て、
(なぜ私がここに……? 勝手に侵入……したのか……?)
ヌチャリ。
思案途中、自身の両の手に違和感を覚えてハッとする。そこには毒々しいほどの赤がヌラヌラと、禍々しくも血に
自身の両の手。
「……うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
(……違う違う違う……私は何もやっていない……一昨日だって殺したと決まった訳じゃない……落ち着け……落ち着くんだ……確か今日は……そう……そうだ!)
昨日の夜は不安に苛まれ、部屋の隅でガタガタと震えていた。そうして朝に仕事を休む連絡を入れた後、いつの間にか眠っていて──
昼過ぎに一度起き、ふらふらと外に出た記憶は朧気にある。そうして気付けばこの家の前に立ち、殺してしまったかもしれない女性が佇んでいた二階の窓を凝視していた。
(その後だその後……この家の前まで来て……確か……そう……若い男に声をかけられたんだ!)
家の前に辿り着いた
さっきからそんな怖い顔をしてどうしたんですか──
と。
(それで私はなんと答えたんだったか……)
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「さっきからそんな怖い顔をしてどうしたんですか?」
「な、なんだ君は突然……」
「ああ、申し訳ありません。あなたがあまりにも思い詰めた表情をしていたので。
「お、思い入れなんてない! た、たまたま! たまたま通りかかっただけだ!」
「たまたま? たまたま
男がそう言いながら二階の窓辺を指差す。見られていた。おそらく少し前から見られていた。たまたまで通るはずがない。なぜならこの男は「
「本当にたまた……ま……」
「たまたまであれほど凝視します? もしかして……
「う、うるさい! 君には関係ないだろう!? 放っておいてくれ!」
「いやいや、このまま放っておく訳にはいきません。
と。
だがよくよく考えてみればおかしい話だ。まだ女性が死んだかもしれないことは誰も知らない。そうなるとこの男は何を疑っているのだろうか。
「わ! 私じゃない! 私じゃないんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
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(そうだ……、そう言って私はその場から逃げて……)
それから一時間ほど
(そう……だ……気付けばまたこの家の前にいて……
ごくり、と、生唾を飲み込む。
家の前まで戻ってきた
そこまで思い出した
浮かんだ記憶の中──
ゆっくりと家の玄関へと向かい──
運良く──
いや、運悪く鍵の掛かっていなかった玄関の扉を開け──
獲物を狙う蛇の
女性のいるであろう部屋の扉を開け──
窓辺で佇む女性と目が合い──
叫ばれた。
暴れられた──黙れと言って殴りつけた──服を破いた──下着も剥ぎ取った──逃げられた──追った──階段を駆け下りた──台所へと逃げ込まれた──包丁を握りしめた女性──震えていた──泣いていた──包丁を奪った──尚も女性は叫んだ──黙れと言って殴った──殴って──殴って殴って殴って──血と涙でぐしゃぐしゃの女性を──
ああ──
なんて──
気持ちいい──
「……うぅ……うえぇ……げほっ……げほ……」
脳裏に浮かんだ凄惨な光景に眩暈がし、胃の内容物を吐き出した。そんなわけはない。彼女に惹かれていたのは確かだ。だが自分がこんなことをするわけがない。何かの間違いだ。これは夢、夢なんだと呟く
「確かめ……なければ……」
蘇った記憶が確かならば、あの女性は台所で死んでいるはずだ。もし本当に死んでいたとしたら──
自分は殺した女性の家に再び訪れ、
そんな──
そんなこと──
とにかく確かめなければと部屋を出ようとしたところで、ドチャリ、と、階下から物音が聞こえた。
「なん……だ……?」
ウ……ウウ……
「女性の……声……? え……? まだ生きて……るのか……?」
「くそっ!」と叫びながら部屋の扉を開け放って廊下へと転がり出る。階下から聞こえた女性の呻き声。もうここまで来たら確定だ。
異変に気付く。
暗いのだ。廊下にも明り取りの窓はあるのだが、夕方にしては暗すぎる。
ドチャ──
湿った何かを床に叩きつけるような音が先程よりも近く、階段下から聞こえる。
ドチャ──
ギシギシ──
ドチャ──
ギシギシ──
ウ……ウウ……ア……
「なん……だ……? 助けを求めて
本能が
階下から迫るは
床にドチャリと叩きつけられた
ドチャ──
「あ……ああ……あ……」
ウフ……オイシ……ソ……
眼前に迫った
ウフフ……ヒサ……シ……ブリノ……ゴチ……ソ……
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! やめ! やめてくれ!! 私が! 私が何をしたって言うんだ!!」
ミタ……デショ……
「見た!? 何を! 何をだ!!」
イタ……ダキマ……
がぱり──と、
「ご! ごめんなさいごめんなさいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ! やめ! やめてください!! たべ! 食べないでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
ヌチャリ──
と、
獣が牙を突き刺し、獲物を瞬時に絶命させる喰い方ではない。ゆっくりと、じっくりと、生きたまま丸呑まれていく恐怖に震えることしか出来ない
ヌチャリヌチャリと自身が呑み込まれていく、湿った音だけが響いていた。
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