第2話 這《ハ》の章


「……どこだここは……?」


 薄暗い部屋の中、古めかしいベッドの上で倫正みちまさが目を覚まし、呟く。そのままギシギシとベッドを軋ませながら上体を起こし、ぼやける視界で辺りを見渡す。


 見覚えのない古めかしい木目の天井。


 見覚えのない押し入れの襖紙ふすまがみ


 趣味ではない苔色こけいろのカーテンに、これまた趣味ではない手触りの白地に花柄の掛け布団。


 おそらく寝室であろう室内に充満する香りにも、覚えがない。


(だめだ……まったく思い出せない……)


 自分は何故この見知らぬ部屋で眠っていたのかを思い出そうとするが、頭の中にかすみがかかったように何も思い出すことが出来ない。ただ一つだけ、まったく自分の好みではない苔色こけいろのカーテンには見覚えがある気がする。


 ふらふらとベッドから重い体を引きずり降ろして窓辺に向かい、苔色こけいろのカーテンを開けた。どうやら時刻は夕刻。太陽が沈みゆき、昼と夜の境が曖昧となって混じり合う逢魔時おうまがとき


 倫正みちまさは迷信などのたぐいを信じてはいないのだが……


 窓から見るその景色はどこか現実味を伴わず、まるでそこかしこから人ならざるものが溢れ出し、これから逃れようのない災禍をこうむるのではないかという思いに駆られる。


(見覚えがあると感じたわけだ……ここは……)


 窓から見やる景色を見て、倫正みちまさが一人納得する。


(なぜ私がここに……? 勝手に侵入……したのか……?)


 ヌチャリ──


 思案途中、自身の両の手に違和感を覚えてハッとする。そこには──


 毒々しいほどの赤がヌラヌラと──


 禍々しくも血にまみれた──


 自身の両の手──


「……うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 倫正みちまさが両の手を戦慄わななかせ、絶叫する。これはどういうことなのだろうか。確かにここはあの女性の家だ。。となれば、とでもいうのだろうか。


(……違う違う違う……私は何もやっていない……一昨日だって殺したと決まった訳じゃない……落ち着け……落ち着くんだ……確か今日は……そう……そうだ!)


 朧気おぼろげにだがここまでの経緯を思い出す。前日の四月二日は訳も分からず何とか仕事をこなしたが……今日、四月三日は急遽仕事を休んだはず。やはり自分は人を殺してしまったのかもしれないと怯え、仕事などしている気分ではなかった。


 昨日の夜は不安に苛まれ、部屋の隅でガタガタと震えていた。そうしていつの間にか眠っていて……昼前には起きて……


 気付けばこの家の前に立ち、殺してしまったかもしれない女性が佇んでいた二階の窓を凝視していた。


(その後だその後……この家の前まで来て……確か……そう……若い男に声をかけられたんだ!)


 家の前に辿り着いた倫正みちまさは、女性を殺してしまったかもしれない日──四月一日の記憶を必死に掘り起こそうとしていた。そんな倫正みちまさに向かい、唐突に若い男が話しかけてきたのだ。


 さっきからそんな怖い顔をしてどうしたんですか──


 と。


(……それで私はなんと答えたんだったか……)


 倫正みちまさが考え込み、男とのやり取りを思い出す──



-----



「さっきからそんな怖い顔をしてどうしたんですか?」

「な、なんだ君は突然……」

「ああ、申し訳ありません。あなたがあまりにも思い詰めた表情をしていたので。に何か思い入れでも?」

「お、思い入れなんてない! た、たまたま! たまたま通りかかっただけだ!」

「たまたま? たまたまに来て、を凝視していたんですか?」


 男がそう言いながら二階の窓辺を指差す。見られていた。おそらく少し前から見られていた。たまたまで通るはずがない。なぜならこの男は「」と言ったのだ。つまりしばらく見られていたことになる。


「本当に……たまた……ま……」

「たまたまであれほど凝視します? もしかして……あるんですか?」

「う、うるさい! 君には関係ないだろう!? 放っておいてくれ!」

「いやいや、このまま放っておく訳にはいきません。よくない……ですよ?」


 。その言葉が倫正みちまさに突き刺さる。もしや目の前の男は──


 と。


 だがよくよく考えてみればおかしい話だ。まだ女性が死んだかもしれないことは誰も知らない。そうなるとこの男は何を疑っているのだろうか……


「わ! 私じゃない! 私じゃないんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」



-----



(そうだ……そう言って私はその場から逃げて……)


 それから一時間ほど他所よそで時間を潰した倫正みちまさは、再びこの家の前まで戻ってきた。


(そう……だ……気付けばまたこの家の前にいて……うなじ……が……)


 ごくり──と、生唾を飲み込む。


 家の前まで戻ってきた倫正みちまさの目に映る、の仄白いうなじ


 そこまで思い出した倫正みちまさの頭の中──情欲と理性の境を失った、己の凶行の記憶が再生される。


 浮かんだ記憶の中──


 ゆっくりと家の玄関へと向かい──


 運良く──


 いや、運悪く鍵の掛かっていなかった玄関の扉を開け──


 獲物を狙う蛇のごとく二階へと向かい──


 女性のいるであろう部屋の扉を開け──


 窓辺で佇む女性と目が合い──


 叫ばれた。


 暴れられた──黙れと言って殴りつけた──服を破いた──下着も剥ぎ取った──逃げられた──追った──階段を駆け下りた──台所へと逃げ込まれた──包丁を握りしめた女性──震えていた──泣いていた──包丁を奪った──尚も女性は叫んだ──黙れと言って殴った──殴って──殴って殴って殴って──血と涙でぐしゃぐしゃの女性を──


 ああ──


 なんて──


 気持ちいい──


「……うぅ……うえぇ……げほっ……げほ……」


 脳裏に浮かんだ凄惨な光景に眩暈がし、胃の内容物を吐き出した。そんなわけはない。彼女に惹かれていたのは確かだ。だが自分がこんなことをするわけがない。何かの間違いだ。これは夢──夢なんだと呟く倫正みちまさの目に映る、血塗ちまみれの両の手。


「確かめ……なければ……」


 蘇った記憶が確かならば、あの女性は台所で死んでいるはずだ。もし本当に死んでいたとしたら──


 自分は殺した女性の家に再び訪れ──


 ということになる。


 そんな──


 そんなこと──


 とにかく確かめなければと部屋を出ようとしたところで、ドチャリ──と、階下から物音が聞こえた。


「なん……だ……?」


 倫正みちまさが階下から聞こえる音に集中する。


 ウ……ウウ……


「女性の……声……? え……? まだ……生きて……るのか……?」


 「くそっ!」と叫びながら部屋の扉を開け放って廊下へと転がり出る。階下から聞こえた女性の呻き声。もうここまで来たら確定だ。。今ならまだ助けられるかもしれない。せめて記憶確かな今だけは正しい行動をしようと一階へ向かおうとして──


 異変に気付く。


 暗いのだ。廊下にも明り取りの窓はあるのだが……


 夕方にしては暗すぎる。


 ドチャ──


 湿った何かを床に叩きつけるような音が先程よりも近く、階段下から聞こえる。


 ドチャ──


 ギシギシ──


 ドチャ──


 ギシギシ──


 ウ……ウウ……ア……


「なん……だ……? 助けを求めてのぼっ──」


 倫正みちまさの口から「ひっ……」と短い悲鳴が漏れ、その場にへたり込んだ。視線の先──階段からはぬぅっと血塗ちまみれの腕が伸び、ドチャリと廊下の床へ叩きつけられる。階下から登って来ているのは助けを求める女性のはずだが──


 


 本能がと叫んでいる。


 階下から迫るは血塗ちまみれの禍々しき──


 床にドチャリと叩きつけられた血塗ちまみれの腕がぐぐぐっとうごめき、次いでゆっくりとの顔が覗くように階下から浮上する。ぬらぬらと湿った髪が顔に張り付いて表情は見えないが……


 


 ドチャ──


 が残る腕も床に叩きつけ、ズルリと体を持ち上げる。二階の廊下へとうようにのぼってきたは立ち上がることが出来ないのか、ドチャリ、ドチャリと血塗ちまみれの腕を床に叩きつけるようにしながら倫正みちまさに向かって進む。


「あ……ああ……あ……」


 倫正みちまさの声にならない声が漏れる。あまりの恐怖にその場から動くことが出来ない。その間も眼前のはドチャリドチャリと迫り──


 ウフ……オイシ……ソ……


 しゅる──


 しゅるり──

 

 眼前に迫った血塗ちまみれのが、まるで蛇の如くしゅるしゅると倫正みちまさの体に絡みつく。もはやその姿は人頭蛇身じんとうじゃしんおぞましいへと変わり果て──


 ウフフ……ヒサ……シ……ブリノ……ゴチ……ソ……


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! やめ! やめてくれ!! 私が! 私が何をしたって言うんだ!!」


 フフ……ミタ……デショ……


「見た!? 何を! 何をだ!!」


 イタ……ダキマ……


 がぱり──と、の口が開く。まるでその姿は獲物を丸呑みにする大蛇のようで──


「ご! ごめんなさいごめんなさいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ! やめ! やめてください!! たべ! 食べないでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」


 ヌチャリ──


 と、倫正みちまさの懇願も虚しく頭に生暖かい感触。喰われている。頭の先からねぶるようにゆっくりと、じっくりと


 獣が牙を突き刺し、獲物を瞬時に絶命させる喰い方ではない。ゆっくりと、じっくりと、生きたまま丸呑まれていく恐怖に震えることしか出来ない倫正みちまさの耳に……


 ヌチャリヌチャリと自身が呑み込まれていく、湿った音だけが響いていた──


 


 

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