ケモノバケモノ
曇戸晴維
牧野
いつからだったか。
きっかけは……
ああ、あれは小学校の頃か。
幼い頃の僕はそれはもう純粋で素直で、明るい子だった。
世界は僕が見ているものが全てだと思っていたし、みんなも同じ景色を見ているものだと思っていた。
友達は多いし、子供ながらにモテたりもした。
我ながら聡い子だった。
かといって、人の気持ちがわからない子でもないし、それどころか人の痛みに敏感だったと思う。
誰かが泣いていれば、悲しくなった。
誰かが笑っていれば、嬉しくなった。
両親の教育が良かったのかもしれない。
良いことは良いこと、悪いことは悪いこと。
倫理道徳も、意識したことはないけど、たぶん思想が強かったんだろう。
それは、些細なことだった。
前の晩、テレビでお笑い番組がやってたんだ。
当時は、ネットなんか普及してなくて、みんながみんな同じ番組を見ていた。
クラスに行くと、お笑い番組の真似をしたりして、みんなで笑っていた。
「ふーん、で???」
なんて言葉と、どうぞ、と手のひらを差し出す仕草をやる芸人が居て、子どもながらにみんなそれをおもしろがってたんだ。
「牧野、昨日のやつ、見た?」
「ふーん、で???」
「で、じゃねーよ! 見てるじゃねーか!」
「ふーん、で???」
「牧野はすぐ真似するからなあ」
「ふーん、で???」
「まっちゃんからもなんか言ってやってよ」
まっちゃん、と呼ばれて僕も会話に加わる。
ふざけてやってるのがわかるし、牧野がお調子者なのはいつものことだから、みんな笑ってた。
僕たちは普通の級友として、仲がいい。
そのうち、先生が来て、朝会が始まったんだ。
挨拶が済んで、先生が話し始める。
この先生はいつも、世間話から始めるんだ。
「昨日、先生、テレビ見たまま寝ちゃって寝坊したから髪ぼさぼさでなあ」
「ふーん、で???」
牧野が言う。
一瞬、緊張したけど、先生の見てた番組も、僕たちと同じお笑い番組だったんだろう。
先生も声を出して笑って、みんなも釣られて笑いだした。
「みんなも見てたんじゃないか。それにしても牧野、もうちょっと似せて言ってくれよ」
「ふーん! で???」
「そうそう」
調子に乗って牧野が、ちょっと鼻声っぽく言うのを先生も面白がっていた。
そんなやり取りを繰り返し、朝会が終わると、先生は牧野に向かって言った。
「牧野、授業中はそれやめろよ。じゃ、先生、準備してくるから。」
そういって出ていく先生に、牧野は「はい」と答えていた。
すぐ後ろの席だった僕は、言ったんだ。
「牧野、先生はちょっといらいらしたみたいだから、本当にもうやめとけよ」
「そうかなあ。楽しそうだったけど」
まあ、翔ちゃんが言うならやめとくよ、と返事をもらって僕は安心した。
周りの子たちは、やっぱり牧野っておもしろいな、と牧野をちやほやしていた。
授業開始のチャイムがなる。
みんな、席に着き、先生が来る。
「この間の続きから、復習していくぞ。」
挨拶をして、教科書を開く。
「牧野、24ページから読んでくれ」
「ふーん、で??? あっ」
ちょっと、癖がついてたんだろう。
授業前にもみんなに、せがまれていたから。
自分でもわからないうちに言ったんだろう。
でないと、後ろの席から、ちらっと見えた、牧野のやってしまった、という顔の説明がつかない。
「牧野おぉっっっ!!!」
バンッ、と大きな音と共に、先生が怒鳴る。
「俺はもう知らん!! ふざけるな!!」
そう言って、教室の扉を乱暴に開けて出ていく。
廊下側の一番前の席にいた女の子が、小さく、ひっ、と悲鳴をあげていた。
牧野は震えて泣いていた。
「牧野、怖かったな。失敗したな。」
「うん。俺、言うつもりなかったんだ。君に注意してもらったから。でも…」
「ちょっとだけ癖みたいになってたんだよな。先生も、あんな怒り方しなくったっていいだろうに。俺も一緒に行くから、先生に謝りに行こう」
「うん、うん。ごめんね。」
「いいんだよ。俺だってもっと強く注意したり、すぐ先生を追いかけて誤解を解けばよかったんだ。」
「ううん、君は悪くないよ…でも、怖かった。怖くて、すぐにごめんなさいって言えなかった。」
「そうだよね。僕も怖かった。先生も人間だから、怒ることはあると思うけど、あれはちょっとなあ。」
そう言うと、牧野は、目をまんまるくして僕を見ていた。
まるで、見たことないものを見るように。
「君は大人だなあ。俺、ちゃんと謝りに行くよ。だから、一緒についてきてくれないかな。君が一緒なら怖くない」
「もちろんだ。じゃ、鼻をかんだら一緒に行こうか。」
その間、ずっと周りは周りで話し合いをしているようだった。
教壇のところに集まって、黒板になにやら書き込む音がする。
「じゃあ、みんなで謝りに行こう!! 牧野たちもそれでいいよね!!」
大きな声で宣言したのは、女子グループで一番発言力のある女の子だった。
僕は、頭の中がハテナでいっぱいだった。
牧野を見ると、彼もまたハテナでいっぱいで不安そうな顔で、僕とその女の子を交互に見ていた。
僕がどうしてそうなったのか聞くと、他の子が答えた。
あなたが牧野をなだめていてくれている間に、みんなでどうすればいいか話をした。
牧野が一人で謝りに行くか、それともみんなで謝り行くか。
多数決をとって、みんなで謝りに行くことに決まった。
なぜだか、僕には理解できなかった。
なぜ、僕たちを置いてけぼりに話を進めたのか。
なぜ、当事者である牧野の気持ちは置いてきぼりなのか。
なぜ、僕たちの二票はないものとして扱われているのか。
僕は納得がいかなかったんだ。
答えは、「決まったから」の一点張りだった。
それに牧野がこう言った。
「でも俺は、ちゃんと二人で話し合って、怖いけど、まっちゃんに付き合ってもらって、謝りにいこうと」
「ダメよ!! みんなで謝らないと!!!」
さっき、先生に怒鳴られたことがよほど応えたのか、牧野は女の子の大声に、ぎゅっ、と口を結んでしまった。
「牧野くんを止めなかったのは、みんななんだから、みんな謝らないと」
そういう女の子の瞳には、使命感に焦がされたギラギラと光る強い意志が見えた。
「で、でも、まっちゃんは注意してくれた。まっちゃんは止めてくれてた。でも俺がやっちゃったから」
「じゃあ、なに? まっちゃんは一緒に何しに行くつもりだったの? 謝らないつもりだったの?」
「まっちゃんは悪くないよ。でも一緒だと心強いから、一緒に来て欲しいってお願いしたんだ」
そう、牧野が告げると、女の子は、きっ、とこちらを睨みつける。
そして、こう言った。
「あんた、ほんとに友達なの? 最低ね」
あの瞬間を、はっきりと覚えている。
血の気が引いて、手先は痺れ、震える口からは何も出ない。
呼吸が浅くなって、苦しい。
周りを見ると、困ったような顔をしていたり、心配してくれてるような顔をしていたり、心底、汚いものを見るような顔をしていたり。
「私たち、みんな仲間なんだから、みんなで行ってみんなで謝るのが当然でしょ」
取り巻きの子たちが、そうよね、と口々に言うのを、男子たちが、何かを諦めたような顔で見ている。
それでも、僕は、納得がいかない。
悪いことはなんだったのか。
牧野がふざけたことは悪い。
教師があんな怒り方をして、こんな状況になったまま放置しているのも、教師としてどうなのか。
牧野に注意しなかった自分たちも悪い。
かといって、注意しても聞き届けられなかったのだから、悪い。
だから、どうすべきなのか。
牧野がふざけなければよかったのか。
ーー人間、誰にでもミスはある。
先生が怒るのが悪いのか。
ーー人間誰しも感情がある。しかし教師というからにはもう少し考えてほしい。
注意しなかったのが悪いのか。
ーー注意をできるかできないかは関係性や都合による。一概に悪いとはいえない。
言うことを聞くような注意ができないのが悪いのか。
ーーもっともだが、人に責められるいわれはない。もちろん後悔している。
だから、みんなで謝るにしても、それぞれ何が悪かったのか考えなければならない。
考えなし、ただ謝ったところで、それは何の意味もない。
そして、先生の怒り方は僕たちにとって恐怖だから、先生にも考えてもらわなければならない。
そう、ゆっくりと、丁寧に、説明した。
女の子は泣いていた。
ヒステリックな声をあげて、私が悪いっていうの、と。
周りのみんなは、異常なものを見る目をしていた。
まるで、僕を化け物のように。
ああ、きっと僕の言葉が足りなかったのだ。
みんなに理解してもらうには、僕の能力が足りなかったのだ。
本当にそうだろうか。
彼女らは、考えたくなかったんじゃないのか。
くだらない正義感に駆られて、先走って結論つけて、面倒から避けただけなんじゃないのか。
ああ、牧野、そんな顔するなよ。
僕は、君に笑っていてほしかっただけなんだ。
いつものお調子者の君に、戻ってほしかっただけなんだ。
結局、みんなで謝りに行く、となって、僕だけは、来なくていい、と教室に一人、取り残された。
少ししてから、先生が、僕を呼びに来た。
みんなと入れ違いで別の教室に入ると、そこには牧野だけがいた。
「なんで、お前は謝りにこないんだ」
ああ、こいつもか。
こんな大人でも、そうなのか。
「お前はみんなの仲間じゃないのか」
こいつのせいなのか。
こいつのせいなのかもしれない。
「牧野はお前の友達だろう」
ふざけるな。
「友達だから、注意したんです。
友達だから、心細いだろうと、一緒に謝りに行こうとしたんです。
友達だから、止められなかった自分に後悔しているんです。」
「だったら、なんでこなかった!!」
机を、バンッ、と大きく叩く先生。
手のひら、痛くないのかな。
「僕とみんなで、理解が違ったからです。
ただただ、言葉だけで謝るようなことに僕は参加したくない。
先生は、口だけで謝られて満足ですか。」
「言い訳をするんじゃない!!」
ああ、そうか。
やっぱりな。
牧野、そんなに怯えて。かわいそうに。
大丈夫、こんなやつ、僕は怖くないよ。
「そうやって怒鳴り散らして、なんになるんですか!! 怯えると思ったら大間違いだ!!! あなたは教師でしょう!?なぜ自分を省みることもせずにそうやって自分の価値観で物事を決めつけるんですか!! あんたは軍隊でも作るつもりか!! 」
「ふざけるなあ!! 俺がお前らにどれだけしてやっていると」
「気持ちはなくていいから集団行動を重視して善悪を考えず、上官の機嫌を取れ!!! これが軍隊でなくてなんなんだ!!! 言ってみろ!!!」
バチン、と左の耳元で大きな弾けるような音がした。
続いて右の耳元で、ゴッ、と鈍い音がした。
火花が散るように明滅する視界。
水の中のようにくぐもった、周囲の音。
ドタドタと、人がなだれこんできて、誰か、僕を支えて呼んでる。
ああ、失敗したなあ。
牧野、ごめんよ。
だから、そんなに泣かないでくれ。
ごめん。
僕が悪かったんだ。
人に成りきれなかったんだろう。
そうだ、と言ってくれ。
君は、化け物だから、仕方ない、と。
でも、違うんだ。
覚えておいてほしい。
僕にとっては、君たちみんなが、化け物なんだよ。
同じ皮を被っているだけの、自分のことしか考えない、醜悪な化け物なんだ。
だから、覚えておいてほしい。
化け物は、すぐ隣にいるんだから。
ケモノバケモノ 曇戸晴維 @donot_harry
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