第6話 木炭の匂い

 私の通う学校は、市立の工業高校で校庭の中央に正門からのエントランスがあり、職員室、校長室のある事務棟に向かって桜並木が伸びる。並木を挟んで左側がテニスコート 、ハンドボールコート。右側がグランド。そのグランドの右端にクラブハウスが建ち並び、小道を隔てて実習棟が建てられている。

 実習棟は手前から、機械科、建築科、土木科、デザイン科、インテリア科、印刷科と軒を連ねた工場のように並んでいる。実習棟の他に、一階に陶芸用の窯の有る彫塑室、二階に他の科も使う美術室、視聴覚室。三階に図書室の有る学習棟が、クラブハウスとL型になる空間に立てられている。

 私はいつも二階の美術室か、三階の図書室で調べ物をしたりデッサンをしたりしていた。私が大抵此処に居ること、二年の時から斎木君は知ってたって言ってた。知らないのは私だけだったんだな……。

 出会うはずのない広い校舎の中で奇跡的な出会いがある学校という空間。殆どが知らないまま終わる3年間。考えるとこの時この場所で起こる奇跡。…奇跡と呼ぶより斉木君の努力という必然によるところが大きいけれど、不思議な場所だここは…と思わずにはいられない。

 時計を見るとそろそろお昼になる。今日はデッサンもはかどらず私は焦っていた。

美術室にズラッと並んだ石膏像。どれも名のある偉人だ、それを全部描き上げようと思うとかなりの時間がいる。これを全部仕上げる。それを目標にして今年の春から木炭紙に向かっていた。

 暢子はもともと美術が好きで木炭を持つ手も柔らかくて、楽しそうに描いている。私は、そこまで器用に描けない、数多くこなせば上達するものでもないけど、一枚でも多く仕上げないとその先がないと自分に課していた。

「よ!」

「あら、もう終わったの?」

「ああ、今日は暑くてサ、もうバテバテ、早めに止めたんだ」

「私、もう少しかかる」

「いいよ、ここで見てるよ」

「そう」

「ああ」

 暢子も帰った後で美術室は二人だけだった。時折斎木君の様子を見て、また、描き続けた。斎木君はマンガを読んだり、ボールをついたりしながら持て余した時間をつぶしていた。

 ふと外の蝉の鳴き声が聞こえた……。はっと気づいて辺りを見回しても斎木君がいない。荷物だけが棚の隅に残っていた。午後の日差し音のない美術室。

「何処に行ってたの?」

「そこのパン屋。今どきあそこにあるべきなのはコンビニだろう。だったら便利なのに、まあお握りあるから良いけどな。腹減ったから、多めに買ってきた」

「まあ、こんなに沢山」

「お前も食べろ」

「うん」

「俺、こぶ好きなんだ。お前は?」

「私?私はぁ……、焦っているのかなあ?」

 私はたらこのおにぎりに手を伸ばして考えこんだ。

「何で?」

「何か必死になって勉強して、絵だってすごく上手いって訳じゃないし、全然自信無いんだ」

「3年間相当頑張ってたよ。今更そんな事言うなよ」

 私の頑張りをずっと見守っていてくれたような言葉。

「ほんと…もっと早く、斎木君に会えたら良かったってさっき思ってたの。頑張らないで、頼ってるのが居心地よくて、今まで無理してたのかなあって……」

「でも俺がずっと見てた事、お前、丸っきり気づかなかったんだぜ。それって今までは、問題無くやってこれたって事だろ。今になってようやく誰か必要になったから、俺の視線に気がついたんだよ」

「今になって……告白したくせに」

「はは、もうね。今言わないとこのまま終わりそうで焦ってね。そう、ようやくね、何かしら俺の出番がやって来たってことさ」

「頼りないね。私……」

「焦らないでやれ。やるしか無いよ。だけど……お前の絵ってかたいよな。美術室の中って無機質だ。なんかあったかみがない。もう少し遊んだ方がいいんじゃない」

「無機質……遊?」

「ああ、たまには人間ゆとりが必要だ。俺には時間が必要」

「そうね、たまにはそうしようか」

「本当か、ヤッホー。俺は嬉しいー」

 斎木君と居るとホっとした。家の事や、学校のことじゃ無く、自分の事がとても大切に出来た。一番やりたいこと、一番なりたい自分の事を考えられる気がした。

 私達は、ゆっくりとおにぎりを食べて、いろんな話をして、途中だったけどカルトンバッグを棚に戻して帰った。

 学校の前の通りを横切って、バス通りを過ぎると、斎木君が、

「手、つないでいいか?」

 と、私に聞いた。

 恥ずかしいとか言ってる場合じゃないか。何事もやってみないと。

「うん」

 とそっと、差し出した指先に木炭がついていた。

「汚い手だな」

 と、斎木君が笑った。

 手をつないで歩くと、世界が広がった様に思えた。この町を出ないと広がらない。と思っていた私の世界は、右も左も見知った世界で小さく狭い。自分の心の中の冷たい硬い部分が、少しだけ柔らかくなっていくような気がした。


「美咲、お前、付き合ってる奴がいるんだってな」

「え?」

 くそ、正太のやつ親に話した?

「工業のやつだそうじゃないか。自分で大事な時だなんていってながら、何だよ隠れてこそこそと」

「こそこそって、なにもしてないわよ」

「正太の親父に嫌味いわれたよ。安請け合いするなってよ」

『安請け合いしたのは父さんでしょ』

「私、正太と付きあうって言った覚え無いわよ」

「なにー!」

「あの時だってはっきり嫌だって言ったはずよ!」

「そうよ、お父さん。それはおかしいよ。美咲に責任なんて無い!」

「お父さん、一度正太に会ってみなさいよ。絶対付き合うなって言うわよ!よれよれの不良みたいなんだから」

「なんだよ、父親の親友の息子をそんなふうに言うな!」

「そんなこといったって、私は絶対嫌なんだから。もう正太の話はしないでよ!」

「お、おい、待て。美咲、それより付き合ってる奴の事はどうなってるんだよう」

 私は一気に二階へ駆け上がった。何でそう何でもかんでも筒抜けになるのよ!正太の奴、だいたい親にそんなこと頼んで平気でいるなんて最低よ!情けない。思い出したくもない正太の顔が浮かんできて悔しくて涙が出た。

「お姉ちゃんの、うそつき!」

「うるさい!」

「なによ、学校の中で付き合ってる人はいないなんて言っておいて、自分はちゃっかり付き合ってるんじゃない」

「うるさいわよ!あんたまでそんなこといちいち知ってなくてもいいのよ!」

 妹に八つ当たりして、部屋に飛び込んだ。

「美咲!美咲!……」

「母さん……」

「あんな言い方ないよね。自分が勝手に引き受けてさ、正太さんも正太さんだよ。親に言い付ける事かい。情けないったらありゃしない。気にしなくていいからね。父さんには私からよく言っとくからね」

「うん……、あ、母さん、私……今度の日曜初めてデイトするの。内緒にしようなんて思ってなかったから」

「そんなふうに思ってないよ。気にしないで楽しんどいで」

「うん、ありがとう」

母さんのやさしい言葉に、窮地の私は助けられた。

    

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