第9話 お姉さん風

 どうしようもない出来事に、私の心は固まって考えるのも嫌で身動きがとれずにいた。あれは事故だ。衝突だ。と考えようとしてみても気持ちは晴れない。学校をサボって何日も家に籠もって癒えない痛みから目をそらして無になって暮らした。その間、自分を癒やしたくて母さんの絵を描いた。母さんを眺めて落ち着こう。そう思って下の仕事場に張り付いていた。

「お姉ちゃん、毎日何描いてるの」

「母さん。よく考えたら母さんの絵、描いたことなくて」

「そんなことないよ。幼稚園のころ描いてくれたよ。母の日にって赤いリボンつけてさ」

 懐かしそうな顔をして母さんが言う。なんなら取ってあると二階の押し入れを指さした。

「それ、私も描いた。描いたけど…子供の絵って誰が描いても一緒じゃない。目があって口があって髪の毛がボサボサって…わぁ、お姉ちゃんやっぱうまいよ。さすがあ遊びもしないで長いことやってるよね」

 キッと睨む。妹の言葉はいつも遠慮なく刺さる。

「長いことやってるって、適当なお世辞ばっかり言って」

「そんなことないって、母さんの感じ出てるよ。ねえ母さん見て見て」

「雪乃ったら、たまにお姉ちゃんがいると嬉しそうじゃない」

「この家にお姉ちゃんがいる〜って半分は違和感だよ。でも、この頃お姉ちゃん前みたいにうるさくないから居ても良い」

 女3人寄れば母娘でもかしましい。

「あんた受験生でしょ……」

 生意気な妹に姉としては容赦はしない。

「来た来た。そうでした。退散しますよ。勉強してこよっと」

 生意気な顔をしていてもこのところの妹は素直で可愛いかった。

「母さん、今日は何を作るの?」

「かぼちゃと小豆の煮物、それから厚揚げとひじきの煮物、それから鰯の南蛮漬」「母さんの南蛮漬美味しいよね。子供の頃からあの美味しさはわかったよ」

 芋の煮っころがし、ブリ照り、ごぼうの好き煮、時間を追って、母さんのお惣菜が次々に出来上がっていく。味見をしながらそんな料理を一つ一つ確認して親不幸な自分を戒めていた。

「美咲、友達から電話だぞ!」

 まさか…斉木君は家の電話番号なんて知らないはず…ブレーンはいるから聞けばわかりそうだけど…父さんの様子からして男子じゃない気がする。

「はーい!」

「もしもし……あ、おはよう」

 電話は暢子だった。私より落ち込んだ声をしていた。

「え?なによ…案外普通じゃない。美咲、どうしたのよ」

「暢子……しばらく家にいる」

 私も堂々と電話に答えられない。

「龍哉と何かあったの?」

「うん、ちょっと……」

「何か寂しそうよ。毎日一人で帰ってるし。あんた本当に罰当たりだよ……」

 バチはもう当たってるんだ。それを毎日噛み締めている。

「解ってる。絵は、当分家で描くから。先生にそう言っておいて」

「まったく、早く仲直りしなくちゃ。元気になって出ておいでよ」

「うん、ありがとう」

 暢子はいつも何かと心配してくれている。入学以来の親友だから…今までも冷やかされたり、陰口たたかれたりしても、嫌だと思ったことは一度もなかった。優しさの塊。

 だけど、今は一歩も動けなくて殻に閉じこもっている。疎ましく思っていた家なのに、安らぎを感じて助けられていた。自分で勝手に嫌って勝手に逃げ場所にして、例えようもない愚か者だ。

 家庭がそのまま仕事場だった我が家は、誰もが忙しく動いていてそれを目で追うのはしんどかった。家に帰ってもゆっくり出来なくてお客とのやり取りにも疲れて疎ましく思っていた。でもその暮らしに救われる時もあった。

 母さんも父さんも商売柄社交的に振る舞ってにぎやかしくしていても、本当はそうでも無い人たちだった。無口な父さんがお客相手に話をするんだ、気を使ってるんだろう。それでもみんなあったかだし、妹も可愛いし、お店も有り難いことに目まぐるしく忙しい。これに不服を言う私が馬鹿なんだ。

 夕食時父さんがしみじみ店の写真を見ながら、

「母さん、少し店に手を入れようか?」

 と言った。写真屋の康さんが商店街の今と昔をカメラに収めようとあちこちの店に寫眞を撮らせてほしいと訪問しているらしい。その写真をもらったって机の上に広げた。

「え?これ出来た頃のうち?」

「そうだよ。背負われてる雪乃が可愛いよね。窮屈そうだけど我が家のお姫様だ」

 父さんが目を細めた。雪乃に甘いのはこの頃からだったらしい。

「この頃の厨房はきれいだったよ。出来たばっかりだからね。たしかに汚れてきたけど、珍しいね。そんな話父さんから聞くなんて」

「ここんとこお客さんも安定してるし、大げさなもんじゃなくてな。新しいフライヤー入れたりタイルはったりしてよ、少しきれいにしてやるか」

「まあ!嬉しい。あんまり放っておくとみすぼらしく汚くなっちゃうからね。美咲、父さんにビール持ってきて」

「うん」

「忙しくて、店かまう暇も無かったからな」

「ほんと、美咲も大きくなったし。なんか余裕が出てきたね」

「ご苦労さん」

 父さんも母さんも元気で頑張っていた。働いてる姿が嫌いなんて言ったら罰が当たるよね。でも、今までの私はそう思うこともあった。汗まみれの油まみれなのが嫌だと言ったり。日頃無口なのに時々お酒を飲んで、大声で話す父さんが嫌だって言ったり。

 私は、もう少しこの家でやっかいになって出来るだけ手伝いもして、ここから通える美大に行こうと思った。受験勉強とか、デッサンとかやりたいことはいっぱいあったけど、当分は母さんの手伝いをしたかった。おいもを洗ったり、牛蒡をきさんだりしながら、ゆっくりとこれからの事を考えていきたい。

「やあやあ、こんばんわ」

「あら、おじさん。いらっしゃい」

 正太のおじさんだ。笑ってるけど心境は良くない。

「みーちゃん、店手伝ってるのかい」

「うん、気晴らしよ」

「ありがとよ、正太も見違えるくらいシャキッとして、みーちゃんのお陰だってよ」

「へえ、正太さんどうかしたの」

「それが、髪も切ってよ、スキッとしたっていうか、ちょっと変わったな」

「なー、だから言ったんだよ!まかせとけってよ」

「まったく解らないもんだな」

「とにかく、良かったじゃない」

「ちわー、おお、みーちゃんか、久し振りだなあ」

「こんばんわ」

「いいなあ、看板娘がいると店が繁盛するだろう」

「はん、あんまり繁盛すると店が狭くていけないな」

「また、あんなこと言って」

 そんなこと言って笑ってる父さん達がほのぼのとして見えた。甘やかされただけの我が侭娘も少しは大人になったのかなあ。

「美咲、もういいから上で勉強しな。後はもう常連ばっかりだから」

「うん、そうする」

 階段を上がって雪乃の部屋を覗くと、難しそうな顔をして机に向かっていた。

「勉強してるの?」

「うん」

「がんばりな!」

「え?今日はお姉ちゃん優しいじゃん。いったいどうなってるのかね」

「あの時の正太はもういないのか……」

 突然現れて、突然いなくなった正太の顔を思い出した。

「明日、斎木君と話をしてみよう……」

 そう思って勉強を始めた。



 

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