第3話 夏…

 …次の日…

 弱音は許さじと激しく照りつける陽射しの中。私はグランドから少し外れた実習棟の横にそびえる大きなクスの木の影でベンチに座って本を読んでいた。真夏なのに木陰は意外に涼しい。読み進むうち夢中になって、ジリジリと蒸し暑いのも、うるさいセミの音も耳に入らなくなり、知らぬ間にお昼を過ぎ、そろそろ気温も上がって徐々に耐えられない午後になろうとしていた。

 読んでいた本は図書館で借りた、ルネッサンス時代を詳しく解説したかなり専門的な本。私の興味のあるレオナルドダビンチやミケランジェロの記事がふんだんに載っている言わばバイブルのような全の美術世界を凌駕する魔法の本。ページが進む毎に、目は文字を追うことにのみ専念して、周りの音や気配をすっかり遮断していた。

 コトリ、『は!』音が気配とともに蘇る。

「私、本に夢中になってて。いつ来たの」

 私は、慌てて鞄を開けた。

「もうずっと前。あんまり熱心だから黙って待ってた」

「声かけてくれたら止めたのに」

「行くか?」

「うん、」

 私はそそくさと支度をして歩き始めた。

「試合どうだったの」

「楽勝、楽勝、俺のチームは三年多かったからな。久しぶりにみんな集まっておもしろかった」

「そう……」

 あの日以来、意識すること過敏で、疲れ果てていた日々を超えて。観念して付き合うことにしてからは何だか力が抜けて、一方的に斎木君のペースで日々が過ぎていった。

 私はやりたいことばっかりしてて男の子と話すのも面倒みたいな所があって、こんなことに成るはずじゃなかったって言う気分が捨てきれない。でも斉木君は穏やかで自分の中にあった男子のイメージと違った。私はかなり臆病だ。触らぬ神に祟りなしと自分の中に呪文を刻んで生きている。

 だけど…不可解なことはたくさんある。全くどうしてこんなことになったんだか、図書室とクラブの部室って近いから、たまたま出会って、それでこうなったって感じなのか。知らないって無敵だけど、こんな私は最も頼りない。

 高三の、夏休みちょっと前、滑り込みセーフって時期に、慌ただしく付き合う事になった私達はこの先どうなるんだろう……。

 斎木君から交際を申し込まれたあの日は、少し涼しくて、穏やかな日で、不思議な風が流れていた。

 駅までバスで行くと二十分、二人で歩くとあっち、こっち、いろんな道を通って一時間くらい。私達は車道をそれて歩いた。本ばっかり読んでいた頭の硬い私にとっては何もかも初めての事ばかりで、お好み焼き屋に入るだけでも要領を得なくてドキドキした。

「腹へったな、何か食べて行こうか」

「うん、」

「この先、ちょっと曲がるとお好み屋があるんだ、夏もやってるとこ、この辺じゃ珍しいんだぜ。そこへ行こうか」

「うん」

 ガラッと戸を開けると、入り口にサッカー部の下級生の子達が陣取っている。私達を見上げて当然ながらザワッとした。

 私も身構えて顔が強張った。相手がどう思おうが知っちゃいないことまで引き受けてダメージに感じたりする。嫌な性分だ。

 むこうはもう食べ終わるところで、遅く来た私達に、どうして遅くなったんですか。とか何とか言って下級生らしく遠慮気味に冷やかしてきた。彼は冗談を言いながら適当にあしらって、少し離れた奥のテーブルに座った。

「なに食べる?」

「あ、何にしよう?」

 こんな時も、聞かれてもとっさに答えられない。経験値零すぎる私なんて防御の方法も無いんだ。

「そうだな、肉玉といか玉、二人で半ぶっこしようぜ」

「うん」

「すいませーん、肉玉といか玉、一個づつ下さい」

「はーい!」

 忙しそうにお店のおばちゃんが、こっちを見ずに返事をした。

「注文すんだら、ありつけるって気がするよな」

「……」

「お前ってあんまりしゃべらないな」

「そ、そりゃあ……」

 何話したらいいか解らない。

「女同士でも話ししないのか?」

「そんなこと」

 誰とだって平気でしゃべるよ。と甘い自己分析。

「サッカー部の佳男知ってる、村野佳男」

「う、うん、確か同じクラスかな」

「あいつが言うには、お前は教室でも静かだってさ」

「そ、そう。そんなにうるさい方じゃないとは思うけど」

「真面目なお前と、俺が付き合ってるって、みんな不思議な顔をするよな。話が合うのかとか言ってサ」

「……」

 付き合ってるって言ったんだ。不思議な顔するって、じゃあ私達、似合わ無いってことなのかなあ。

「俺さ、図書室なんて行った事なくて、お前が図書室で待ってるとか言うと、どうやって入ろうかってドキドキするんだ」

「え、それじゃあ別の場所にする。私は構わないから」

「さっきもさ、お前がじっと本を読んでいただろう。気付かれないようにソーと座って、長い間お前のことを見てたなぁ……。奇麗な横顔だった」

「え……、止めてよ。嘘だよ」

「ほんとう」

 私はうつむいて真っ赤になった。不器用な私がうちの学校じゃ人気のあるサッカー部の男子と付き合うのはやはり骨が折れる。当人は気にもしないだろうけど相当な勇気がいるんだ。みんなからやっかまれるし、ファンの多い子だったりすると、どっかに呼び出されたり、嫌がらせされたりするらしい。幸い私達の事はみんな知らないのか、これと言った事もなく過ぎているけど、だいたい何でこうなったかもよく解らないで付き合ってる感じで、いきなり斎木君にこんなこと言われると、免疫無くて、赤くなるしか無い。

「さあ、焼けたぞ」

 斎木君は、私にそんな衝撃を与えた事なんてまるで関係無いって顔で、手際よくきれいにソースを塗って、半円に切ると、私の前のを持っていって自分の前のをくれて、またきれいな円に戻して、

「さあ、どうぞ」

 と、マジシャンみたいにすすめてくれた。

 半分肉玉で、半分いか玉。なんか、ちょっと嬉しい気持ち。

「おいしーい」

「だろ、ここのは美味しいよな〜」

「よく来るの」

「女と来たのは今日が初めて。たいていはうるさいサッカー部の連中とだな」

「あの、……帰り私と帰ったりして、クラブのみんなに付き合い悪いって言われたりしないの」

「しない、しない。三年はもう引退してて、来てない奴も多いんだ。本当に好きな奴が来てるって感じだからな、それに元々お前のストーカーしてたから付き合い悪かったし」

 言葉をなくす…

「斎木君、三年でしょ。クラブはいつまで続けるの?」

「この夏休みまでかなあ。あんまり居座ると嫌がられるからな」

「そう」

「それがおわったら就職活動だ。お前勉強ばっかしてるけど就職しないのか?」

「短大とか行きたいって思ってる」

「そっか……進学か」

 しばらく二人で黙り込んでお好み焼きを食べた。

「俺、お前の事ずっと好きだったんだ」

「え?」

「前から、ずっと好きだったんだ」

 また、突然、ひつこく一方的に愛の告白。

 お好み焼きが喉に詰まりそう。

「二年の学級連絡委員の時、俺達、一緒だっただろう。あれからずっと片思いっつうの。お前のこと好きだったんだ」

『学級連絡委員…あれって……二年の前期?一緒だったの。…そんなの知らなかった…』

「思いが通じてやっと付き合えたのに、あと半年でまた別れ別れか……」

「そんなことないよ」

 思わず、心に有るんだか、無いんだか、自分でも解らない事を口走った。

「本当?」

「う、うん」

「感激だなあ。お前、いつから俺の事、意識してた」

「いつからって、この前、こ、告白された時から」

「え、本当かよ~情けないな。それより前でも、事ある毎に、俺、お前の前に出没してたのになー」

「そ、そうなの?」

「去年の学園祭の時だって、一緒にフォークダンスするのに、誤魔化して代わってもらったり、一人二人抜かしたりして、随分苦労したんだぜ」

「うそ!」

「うそじゃないって」

「それで、私達、踊ったの?」

「踊ったよ、一瞬だけど」

「冬休みだって、クラブ終わってから、お前の居そうな美術室とか図書室の前とかをフラフラしてたし」

「そう言うのウロウロって言わない?」

 おかしくって、つい笑った。

「あと、お前の靴箱にメモ入れたりしたこともあったな」

「あ!」

 そう言うことあった。

「だけど、男から告白する日って、無いだろう嫌になるよな」

 『男から告白する日…』そういうシュチュエーション?確かに無いな〜

 ずっと好きだったって、そんなあからさまに言える程、本当に私の事ずっと好きだったんだって言われても、

『本当?』

 って疑いたくなるのが今までの私の領域なんだけど、どうもこの斎木君て人は、私の常識の範疇にいない。

 だから、そんなに前から好きだったって初めて知って、私の事ずっと見てたんだって知って、照れ臭いけどやっぱり嬉しかった。私はずっと知らなかったし、毎日何も考えないでボーっとしてた……。

 じゃあ、あの時初めて出会ったって思ったのは私だけなんだ。そうだよね。初めて出会ってその場で告白する馬鹿いないよね。考えてみれば……

「ねえ、斎木君は、何で私のことを好きに…なったの」

「なんでって、お前さ、なにしてても可愛いもんな。見かけるとドキっとして、何でって言われたって解らん」

 まただ、何してても可愛いって、そんなふうに言われたら普通なら、

『うそ!』

 って思う筈なんだけど。斎木マジックには逆らえないし、いじけられないし、素直になるしかないじゃない。私、自分のこと今までそんなに好きじゃなかったし、自己顕示欲も皆無で自己肯定力もかなり低い…と思う。この年になって、こんなに素直な気持ちになれるのってあんまりないなと思った。

「お前、それ食べないの?」

「え、これ?うん、もうお腹いっぱい」

「俺、食べていいか?」

「うん、どうぞ」

「いいな、お前と来ると。沢山たべられるしな」

「ぷっ」

 何だかおもしろい奴。

「ああ、喰った喰った」

 斎木君のこと見ていて飽きない。いつも何かが意外でびっくりする。パクパク食べた後、お水をグイグイ飲んで、男の子って動きに減り張りがあっておもしろい。斎木君を知るまで、男と言えば、乱暴でいやな奴、汚いことしか言わない、位にしか感じたことなかったのに。 

 その彼がずっと私のこと思っててくれて、事あるごとにサインを送ってたなんて、これは…おとぎ話なのか…信じられない。そのうち消えてなくなる魔法…

 ポケットに手を入れて、前をドンドン歩いていく斎木君は、いかにもサッカー部のエースって感じで、埃っぽい様な、男臭い様な所がこの頃ようやく、私は良いなって思ってるんだ。けど、私の事になるといっきにメロメロになっちゃってゼンマイ外れて調子狂いっぱなしなのが、何か解らなくて複雑……。

 私達は、駅前で別れて、それぞれの電車に乗って家に帰った。

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