第74話:閑話・矢作川の攻防

天文十五年(1546)7月12日:三河青野城:柿崎和泉守景家視点


 殿様の侵攻を、領地を掠め取る好機と考えたのか、織田弾正忠が攻めて来た。

 先年松平次郎三郎から奪った安祥城を拠点に、矢作川の東側にまで攻め込もうと、尾張から一万の軍勢を引き連れて来た。


 織田弾正忠は尾張一国を完全に支配している訳ではない。

 形だけとはいえ、守護がいて両守護代がいる。

 特に上四郡守護代の織田伊勢守は、常に織田弾正忠の隙を伺っている。


 言い成りに見える守護の斯波治部大輔様と下四郡守護代の織田大和守だが、実際には機会があれば織田弾正忠を殺そうと狙っている。

 

 敵は尾張国内の守護や国人だけでなく、伊勢長島の一向一揆は勿論、美濃の斎藤道三も油断できない。


 特に美濃の斎藤道三とは何度も激しく干戈を交えている。

 道三によって美濃を追放された土岐美濃守様を支援したからだ。

 織田弾正忠は、自分の傀儡にできる者を美濃守護に据えようとしたのだ。


 そんな状態で、一万の援軍を三河に連れてくるのよほどの覚悟だ。

 この好機を見逃さず、できるだけ三河の領地を切り取る覚悟が見える。

 だが、俺も殿様から三河を任された身だ、必ず撃退してみせる。


「和泉守様、敵が川を渡ろうとしています」


 川沿いに布陣する足軽大将が大声で伝えて来る。


「織田勢が川を渡りきるまで待て、渡り切ったら弓矢をくれてやれ」


「「「「「はっ!」」」」」


 配下の足軽大将は、百戦錬磨の勇将達だ、特に指示をださなくても大丈夫。

 盾隊と槍隊で敵を防ぎつつ、渡河で疲れた織田勢を確実に倒してくれる。


 そもそも、織田弾正忠の攻撃が成功するはずがない。

 大洪水でも決壊しない堤防を、人間の攻撃ごときで越えられるはずがない。

 誰も護り手がいなかれば罰だが、我らが鉄壁の陣を布いている。


 殿様は最初から三河にも尾張にも興味がない。

 あまりにも一向一揆が悪逆非道なので、しかたなく手を出されただけだ。


 だから、尾張がどれほど弱くても、此方から攻め込む事はない。

 だからこそ、矢作川の東に長大な堤防を築けと命じられたのだ。

 

 矢作川の東には堅固な防塁、万里の長城のような堤防が延々と続いている。

 本流の東側には、堤防造りのためにできた深くて広い水濠がある。


 川を渡り、水濠を越え、更に高い堤防を突破しなければ対岸に渡れない。

 それも、圧倒的大軍が放つ弓矢や礫を掻い潜らなければ、土塁にも辿り着けない。


「「「「「ぎゃあああああ!」」」」」


 私の前を渡河している敵兵だけでなく、川上と川下からも悲鳴が聞こえてくる。

 どちらも織田軍があげている悲鳴に違いない。


 私が殿様から預かっている足軽部隊は四万余兵でしかない。

 それでも織田弾正忠勢の四倍だが、兵力差はもっとある。


 矢作川の河口から信濃の国境まで、一万兵を預かる侍大将が率いる屯田部隊が十個部隊、総勢十万余が布陣している。


 殿様が作り上げられた屯田部隊だが、本当に頼もしい。

 単に戦うだけでなく、自ら兵糧まで作ってくれるのだ。

 足軽等よりも上手に壕や土塁を築いてくれるから、常に敵よりも堅い陣で戦える。


 彼らが矢作川東岸で拠点にしているのは、赤羽根城、寺津城、巨海城、徳永城、西尾城、戸ケ崎城、荒川城、浅井西城、伊賀城、井田城など百を超える城砦だ。


 夜討ち朝駆けを警戒して、常に誰かが矢作川東岸の堤防を守る。

 疲れがたまらないように三交代で守っている。

 働く時と休む時をきっちり守っている。


 敵に戦う気配がない時は、野菜の種を蒔いたり開墾したりしている。

 役目中は常に何かしており、長期間対陣する事になっても何の不安もない。

 戦う事だけなら足軽に劣るが、他の面を考えれば遥かに役に立つ。


「殿、一手を分けて対岸に渡らせれば、敵を崩れさせられます」


 私の事を殿と呼ぶのは、殿様がつけてくださった侍大将や足軽大将ではない。

 代々柿崎家に仕える譜代衆だが、残念な事に愚かな者が多い。


 勇猛果敢で、目先の勝利を得る為の駆け引きはできるが、天下の大計を理解できる者など一人もいない。


「ここから攻め込まないのが御大将の軍略だ。

 目先の勝利に目を晦ませて、天下の大計を狂わしてはならぬ」


「はっ、申し訳ございません、ですが、むざむざ負けるのは嫌でございます」


「負けるとは申していない、対岸に渡ってはならぬと言っているだけだ。

 ここで織田弾正忠勢を迎え討ち、散々叩いで追い払う、我らの大勝利だ」


「ここで勝つのは良くて、対岸で勝つのが許されぬ理由が分かりません」


 譜代の若武者が真剣に聞いてくるが、祐家と晴家も気になるようだ。

 まだ幼い息子達では、御大将の深謀遠慮など分かるまい。

 今直ぐは分からなくても、何れは分かるようになってくれなければ困る。


「良く聞け、ここは越後でもなければ越中でもないのだ。

 何があっても味方してくれる水軍衆がいないのだ。

 敵が御大将と同じ策を使って我らの背後に上陸したらどうする?」


「「「「「あっ!」」」」」


「織田弾正忠勢には佐治水軍がいる。

 佐治水軍に海岸線を襲われたら、負けはしないが屯田が失敗する。

 兵糧と軍資金の大切さは、何度も言って聞かせたな?」


「はっ、申し訳ございません」

「自分が愚かでございました」

「目先の勝利に目が眩み、罠に嵌る所でした」


「私は御大将の信頼を勝ち取り、四万もの足軽を預かっている。

 だが、十万もの屯田兵を預かっている者達がいる。

 ここで愚かな事をすれば、一国十万を預かるなど夢のまた夢じゃ」


「「「「「はっ」」」」」


「それどころか、我らに成り代わろうとする者達は山のように居る。

 屯田兵から叩き上げで一万兵を預かる侍大将に成った者達は、次に四万の足軽を預かれるようになろうと、功名をあげる機会を狙っておる。

 私が失敗したら、その好機を生かして功名を稼ぐぞ」


「申し訳ございません、殿の足を引っ張る所でした」

「父上の足を引っ張らないように、気をつけます」

「では父上、ただひたすら守ればいいのですか?」


「そうだ、我らはここを死守するのだ。

 もし御大将が別の軍略を立てられたら、その時は改めて別の指示が来る。

 我らはそれまで一兵も川を渡らせないようにするのだ」


「「「「「はっ!」」」」」


「敵が引いて行きます」


「そのまま逃がしてやれ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る