第71話:閑話・復讐
天文十五年(1546)3月22日:三河本證寺:某足軽組頭視点
昨年の内に、甲斐で果樹栽培と屯田、鉱山開発と堤防造りを行っている我らに、本願寺の狂信者共に謀叛の恐れありとの使者がきた。
駿河から逃げ出した今川義元が、本願寺の証如と蓮淳に会ったと言う。
あの連中の極悪非道さは、他宗派の門徒だった俺が誰よりも良く知っている。
俺も以前は三河で浄土真宗の教えを信じていた。
専修寺を本山とする、高田派の教えを信じていた。
本願寺派に宗旨替えする者が多かったが、俺は高田派に残った。
他人を傷つけ奪うような連中の教えなど信じられなかったからだ。
俺は甘かった、同じ浄土真宗を信ずる者は流石に襲わないと思っていた。
だが、連中にあるのは獣と変わらない欲望で、浄土真宗の教えではなかった。
本證寺に集まった、浄土真宗の教えを乱暴狼藉の言い訳に使う連中が、真実の教えを信じる俺達を襲った。
その先頭は、親鸞の教えを伝え広めるべき本證寺八世の源正だった。
抵抗を諦めた俺と家族は殺されなかったが、妻と娘は誰が父親か分からない子供を産む事になってしまった。
毎日妻と娘が乱暴される姿を見せつけられた。
その中には、源正の腐れ外道もいた。
あの時の怒りと恨みは今も忘れない、死んでも忘れないだろう。
俺と家族は奴隷に落とされた。
同じ浄土真宗の教えを信じる者達に、人間扱いされなかったのだ。
連日連夜、親鸞に救いを求めたが、誰も助けてくれなかった。
そんな俺達家族を救ってくれたのは、親鸞でも同じ浄土真宗の教えを信じる者達でもなく、御伊勢様の教えを広める御師様だった。
「同じ親鸞聖人の教えを信じる者を奴隷にして毎夜乱暴狼藉を重ねるとは!
恥を知れ、恥を、御前らが死んでも浄土には行けぬ、地獄に落ちると知れ!」
数百の本願寺派狂人を前にして、恐れる事なく叱責してくださった。
「おのれらのような、親鸞聖人の教えを乱暴狼藉の大義名分にする者なら、銭さえ積めば奴隷達を売るのだろう?
さっさと欲しいだけの銭を言え、値切る事無く払ってやる!」
「おのれ、親鸞聖人の教えを唯一正しく伝えている我らを愚弄するとは、許せん!
殺せ、伊勢御師であろうと関係ない、殺して埋めてしまえば誰にも分からん」
「私が本證寺を訪れ御前に会う事は、慶光院の宝山上人、内宮と外宮の宮司方、京の公家衆にも伝えてある。
私が無事に戻らないと、本願寺の証如と蓮淳は帝から厳しい叱責を受ける。
先年のように、法華衆と幕府軍が畿内の狂信者を根切りにする。
伊勢の北畠、尾張の織田が長島を攻め滅ぼす。
源正、御前の色欲と物欲が証如と蓮淳を殺し、本願寺を滅ぼすのだ!」
御師様に言い負かされた源正は、怒りに身を震わせていたが何もできなかった。
阿諛追従して私利私欲を貪っていた連中も、同じだった。
愚かさから襲っていたとしても、御師様の影供の殺されていた、今なら分かる。
俺と家族は御師様に買われ能登に送られた。
何も知らないかった俺は、御師様も所詮は私利私欲の輩だと思ってしまった。
そこで初めて本当の主人が殿様だと教えられた。
「御前達は殿様に買われた奴隷だ、だから死ぬまで、朝から晩まで働いてもらう。
ただし、直ぐに死なすような無理はさせん。
大金を払って買った奴隷を、元も取らずに死なせたりはしない。
だから病になったと思う者は直ぐに知らせろ、休みと薬を与える」
最初何を言われているのか分からなかった。
奴隷を休ませるのも、薬を与えるのも、ありえない話だった。
最初は何か裏があるのかと思っていた……不遜極まりない考えだった。
「一日三食、腹一杯に麦雑炊を与える、何杯御代わりしても構わん。
だが、喰い過ぎて動けなくなったら、次の飯は少なくなる!」
これも信じられない事だった。
奴隷が麦雑炊を食べさせてもらえるなど、三河では考えられない事だった。
普通は水のように薄い粟や稗の粥を腹六分目に与えられる程度だ。
だから麦雑炊とは言っても、水のように薄い粥だと思っていた。
だが、本当に水よりも麦の方が多い雑炊だった。
しかも雑炊以外に、たっぷりと塩を使った漬け物まで食べ放題だった。
俺達家族は手を抜く事なく働いた。
三河にいた頃よりも豊かに暮らせる奴隷で居続けたかったから。
朝から晩まで田畑で這いつくばって働いても、領主や上人に根こそぎ奪われる。
決まった年貢以外にも、何だかんだと賦役や奉仕がある。
だからと言って必ず助けてくれる訳でなく、頻繁に隣村の連中に襲われる。
そんな状態だから、腹一杯喰える日は年に数えるほどしかない。
盆と正月、親鸞の誕生日と入滅日くらいのものだった。
普段は雑穀雑炊を腹八分目食べられたら良い方だった。
奴隷なのに領主や寺に無理矢理戦わされる事がない。
一日二度八分目の食事だったのが、一日三度満腹になるまで食べられる。
転売されたくないと思うのは当然だった。
そのまま何事もなければ、能登で屯田を続けていただろう。
だが、親鸞の糞な教えは俺たち家族を地獄に突き落とした。
妻と娘の御腹が大きくなってきたのだ!
「事情は御前達を破戒僧から買い取った御師の方から聞いている。
腹の子を水に流したいと思っているのは痛いほど分かっている。
だが無理に水に流そうとすると、女房と娘が死ぬかもしれない。
それに、奴隷の子は奴隷、殿様の財産だ。
勝手に水に流す事も間引きする事も許されない。
育てる気になれないと言うのなら、乳離れまでだけ育てろ。
それ以降は、善光寺と顕光寺の方々が僧に成れるように育ててくださる」
「奴隷の子供なのに、奴隷ではなく僧として育てていただけるのですか?」
「御前達にも読み書き算盤を教えているではないか。
奴隷として買われた事は覆せないが、武功を挙げて奴隷から抜け出す事はできる。
御前も屯田兵として戦うと言えば、敵を捕らえる事で武功を挙げられる」
「殺さなくても良いのですか?」
「よく覚えておけ、殺した敵は働かせられない。
だが捕らえた敵は、奴隷として屯田させられる。
殿様は敵を殺した者よりも捕らえた者を認められるのだ」
この乱世に、他人を殺さず捕らえて腹一杯食べさせてくださる。
口だけの浄土真宗の教え、同じ門徒を襲う連中とは天地の差がある。
俺はその場で戦う事を誓った、できれば三河で戦いたいと言った。
俺は男ばかりの屯田部隊に移動させられたが、場所は能登のままだった。
厳冬期は毎年のように、陸奥から会津、但馬から信濃甲斐と移動して戦った。
本気で戦う気でいたのだが、実際には具足をつけ武器を持ち歩いただけだ。
何所でも敵が進んでも降伏してくるので、戦う必要がなかった。
俺が奴隷に成ってから三年の月日が経っていた。
その間に、ただの奴隷から伍長、什長、廿長と成り配下をつけられた。
配下をつけられたからと言って、実際に指揮できるわけではない。
いつの間にか百人足軽組頭にはなったが、足軽大将様の言う通りにするだけだ。
奴隷となって二年目に妻と娘が子供を生んだ。
二人とも男だった……育てるか育てないか、心底迷った。
だが、俺に遠慮しながら陰で子供を可愛がる妻の姿を見てしまった。
絶対に俺の子ではないと言い切れない、僅かだが俺の子の可能性もある。
娘の子は誰が父親か分からないが、俺の孫である事は間違いない。
「自分の子で間違いない娘とこの子を、同じように育てられるか分かりませんが、神仏の如き慈愛を広められる殿様に恥ずかしくないように、手元で育てます」
五十人足軽組頭に抜擢された時に、奴隷から武士に取立てられた。
家族も奴隷から解放され、能登七尾城の郭に屋敷を賜り、足軽長屋を預けられた。
そして、思いもよらなかった、三河への侵攻を命じられた。
三河は本願寺の破戒僧の命で一斉蜂起した。
松平広忠は本願寺の命令に従わなかったが、十四松平の内九松平が蜂起した。
松平広忠の家臣だけでなく、広忠に敵対している国人地侍も一向一揆を起こした。
九松平以外の主だった国人は、足利の名門である吉良家。
松平広忠を支える東西の旗頭、石川家と酒井家が主君よりも邪教を優先した。
実に百十五にも上る国人地侍が殿様に謀叛した。
本證寺、上宮寺、勝鬘寺には城を持たない国人地侍が集まった。
城を持つ国人地侍は、邪教を信じる家臣領民を城に入れて抵抗した。
愚かとしか言いようがない、自ら死を選ぶような行為だった。
駿河遠江三河には、総数七十万余の三条長尾軍が侵攻している。
三河中の戦える人間を集めても、十万人も集まらない。
このままでは滅ぼされると理解して、親鸞の教えを信じる者を全員集めようと思っても、もう手遅れだ。
同じように親鸞の教えを信じている者を、私利私欲で襲って奴隷にしたのだ。
俺達を襲って奴隷にして売ったのだ、他の宗門が味方する訳がない。
一番信徒が多いと言っても、本願寺だけだと二万も集められたら多い方だろう。
俺達は今回もろくに戦う事なく勝利し続けた。
実際に戦ったのは、歴戦の国人地侍と僧兵達だけだ。
俺達足軽隊も奴隷隊もその後をついて歩いただけだ。
やった事と言えば、堅固な甲冑と盾に守られて、城砦の壕を埋めただけ。
本證寺の外濠と内濠を埋めるのは、本当の心躍る事だった。
殿様が攻城兵に貸し与えてくださる甲冑と盾は、敵の弓矢を完全に防いでくれる。
破城武器も同じで、一撃で敵の城門を破壊できる。
だから、本證寺に籠っていた者達全員を簡単に捕らえる事ができた。
目の前に引き据えられている、本證寺八世の源正の顔を忘れた事はない。
「普段は降伏した者を殺したりしない。
だが、親鸞聖人の教えを乱暴狼藉の言い訳に使っている者だけは許さない。
本願寺一向一揆の処罰は、御前達が奴隷に落として売り払った者達が決める」
本願寺の狂信者達を、赤子の手を捻るように、簡単に負かした侍大将様が言う。
俺の方を見る侍大将様の視線を追った源正の目が驚愕に歪む。
ようやく俺の顔を思い出したのだろう。
「狂信者共は楽に殺さない、俺達が味わった地獄の苦しみを思い知れ!
まずは妻子が目の前で何百と言う奴隷に犯される姿を見よ!
御前達が行った事がそれほどの悪行か、思い知ってから地獄に落ちろ!」
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