第65話:大水害

天文十三年(1544)10月2日:越後春日山城:俺視点


 またも俺の知らない大水害が起きた。

 京と東海筋で前代未聞の大水害が起きた。

 特に酷かったのが洛中と三河だった。


 京の事は神余隼人佑が全て上手くやってくれた。

 晴景兄上の手綱を取り、暴走しないように上手く操ってくれた。

 兄上が暴走しない限り、史実に近い歴史になるはずだ。


 問題は東海筋、それも三河をどうするかだ。

 不幸中の幸いなのは、天文の飢饉を引き起こした水害よりは、河川の氾濫が起きた国が限定されていた。


 蝗害も発生しておらず、大規模な飢饉になる恐れはない。

 だが、東海筋は先年の水害から立ち直っていない。

 既に多くの民が、奴隷に売られるか田畑を捨てて足軽や野伏になっている。


 今回の水害で、更に奴隷に売られる者や田畑を捨てる者が出る。

 餓死を避けるために、領主を突き上げて隣村を襲う村人が頻発する。


 民家の多くが洪水に流され、人畜の多くが溺死した三河では、何が起こるか分からないと報告を受けている。


「殿、蔵田五郎左衛門殿が参られました」


 近習の一人が部屋の外から声をかけて来た。

 五月五日に嫡男の景太郎が無事に生まれたが。

 目に入れても痛くない愛しい我が子だ。


 周産期死亡率の高さを考えれば、まだまだ安心などでない。

 少しでも奥から離れるのは嫌だった。

 とても嫌だったが、大水害の話を聞かされたら、毎日最低限は政務するしかない。


 昼食の前後は政所に詰めて集中的に政務を片付ける。

 出来るだけ効率よく役目を片付けるために、これまでは抱えていた事も家臣に任せるようになったが、どうしても俺が決めなければならない事も多い。


 だから家臣達は俺が政所にいる時間を選んでやって来る。

 僅かな時間も無駄にしないように、控えの部屋で順番を待っている。


「通せ」


 最低限の挨拶だけは省く事ができない。

 そんな短い時間も惜しいが、やり過ぎると忠誠心と威厳を失ってしまう。

 

「殿、御呼びに従い参上させていただきました」


「よく来てくれた、今日呼んだのは他でもない、東海筋の水害の件だ」


「東海筋の奴隷購入と足軽の募集でしたら、順調に進んでおります。

 先年のように百万もの数は無理ですが、二万ほどは集められます」


「東海筋は、先年も数多くの奴隷と足軽が現れた。

 まだ二万もの奴隷と足軽が集まるとは、よほど大きな水害だったのだな」


「先年の水害を免れた家も、今年の水害で働き手を失い、力ある村人に田畑を奪われ、身を売るしかない女子供が多数現れたのです」


 そうか、男手を失った一家が同じ村の男に田畑を奪われるのか。

 隣村の襲撃だけしか思い浮かべていなかった、俺もまだまだ甘いな。


「力のない女子供であろうと、俺なら使いこなして利を手に入れられる。

 先年の時と同じように、銭金に糸目をつけずに奴隷と足軽を集めろ」


「はい、承っていた通り、買い集めております。

 こちらが使った銭と買った奴隷、集めた足軽の名簿でございます」


「うむ、良くやってくれた。

 商人としての話はここまでだ。

 次は伊勢御師としての話を聞きたい、東海筋の民は神仏に頼っているのか?」


「東海筋でも国によって神仏に頼る度合いが違っております。

 特に水害の大きかったは尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵でございますが、その中でも守護が愚かで力の弱い国が神仏に頼っております」


「具体的にはどこだ?」


「三河と伊勢長島でございます」


「駿河遠江の今川、伊豆相模武蔵の後北条は、守護の力で立て直したのか?」


「はい、特に後北条は、年貢の減免を行い民を減らさないようにしております。

 殿の三年五作を盗み出して急速に力を伸ばしております。

 油断ならない相手だと、改めて思いました」


「後北条には新たに密偵を送り込んでいるが、風魔の目を掻い潜るのが難しい。

 密かに送り込むよりも、表の者を堂々と送り込んだ方が良い。

 五郎左衛門は商人と伊勢御師を送り込んでくれ」


「承りました」


「同じように、表の者として善光寺の聖も送り込む。

 入れ替わりに清海入道を連れて来てくれ」


「承りました」


 俺との話を終えた蔵田五郎左衛門が部屋を出て行った。

 少し待っていると、三好清海入道がやってきた。


 普段は上杉謙信を見張らせているが、今も善光寺を差配している。

 特に尼寺である大本願との連絡は三好入道兄弟に任せてある。

 歩き巫女や白拍子は戸隠神社が行っているが、女人救済は善光寺の管轄だ。


「御呼びにより参上いたしました」


「よく来てくれた、景虎兄上はどうしている?」


「毎日自分を鍛え、兵の調練を行われています」


「それでは屯田させている意味がないのだが?」


「諫言させていただいたのですが、聞いていただけません。

 その事は伝令を使って御知らせしているはずですが?」


「伝令から報告は受けていたが、屯田を兼ねた調練もある。

 屯田とかけ離れた調練ばかりやっているのか?」


「はい」


「景虎兄上に叱責状を書く、それを見せて無理矢理にでも屯田させろ。

 それでも逆らうようなら、善光寺に座敷牢を造って閉じ込めろ」


「承りました」


「善光寺聖からの報告は受けている、伊勢長島と三河の一向衆を取り込めるか?」


「殿の評判を使わせて頂けるのでしたら、三河衆の半数は切り崩せると思います。

 ですが交易で栄えている長島の方は難しいです」


「なるほど、長島衆は、毎年のように暴れる木曽三川の中州に暮らしているのだ。

 少々酷く暴れようと、素早く立ち直ると言う事か?」


「絶対に水害の被害を受けない場所に、財を隠しております。

 普段は中州を利用した交易で利を得、安全な場所に分家を置いております。


「桑名、松坂、山田三方あたりか?」


「はい、公界を上手く使って守護や国人からの年貢を免れております。

 同じ教えを信じる雑賀と石山本願寺、英賀との交易で利を得ています。

 教えは利と結びついておりますので、少々の事では切り崩せません」


 実利のために信仰しているような連中を、説法だけで切り崩すのは無理だな。


「ならば三河だけで良い、善光寺に取り込めるのは何割何人だ?」


「善光寺だけですと、四割二万人くらいだと思われます。

 ただし、生まれたばかりの赤子から死にかけの老人まで合わせた数でございます。

 残りの六割は、殿が遣わされた小黒派や出雲派の一向宗に従うでしょう」


「三河に残る本願寺の一向衆は何人くらいになる?」


「老若男女合わせて五万人位かと思われます。

 先年と今年の大水害を生き残り、隣人を襲い奪った強き者が、三河に残り本願寺の教えに従います。

 襲われ奪われた弱き者を助け、奪った物を返せと説法する私達の教えは、彼らから見れば利を奪う邪教ですから」


「そうか、良く分かった、無理に説得する必要はない。

 奪われた弱き者達を救って北陸に連れて来てくれればよい、配下の聖達に伝えよ」


「承りました」


 己の利に執着し、その為なら隣人を襲い奪い殺す事も平気な連中。

 そんな連中が本願寺の一向宗を信じた振りをして利を得続ける。

 特に海岸線に田畑を持つ連中は、伊勢長島との交易でも利が得られる。


 そんな連中を相手に、戦国大名として一圓支配を強行しようとしたら、とんでもなく激しい抵抗を受けるのは目に見えている。


 この状況が史実通りなら、激しい抵抗を受けて苦戦するだろうが、徳川家康は三河一向一揆を鎮圧できるだろう。


 だが、今の状況が史実よりも三河一向衆を強くしているなら、徳川家康は三河一向一揆に首を取られる事になる。


 徳川家康と三河一向一揆、どちらを勝たせた方が良い?

 足利将軍家を滅ぼす役目は、三好家と織田家のどちらにやらせる?


 状況次第では、俺が徳川家康の首を獲る事になるかもしれない。

 寝首を掻けるような密偵を送り込んでおくか?

 だが、寝首を掻けるような女だと、情に流されて裏切る可能性もある。


 由利鎌之助配下の、武芸が突出した密偵を送り込んでおこう。

 こちらに残す家族には、家康から与えられる扶持の倍与えれば裏切らないだろう。


 「長尾晴龍配下の一部密偵」

 元奴隷に名を与えて忠誠心を高めている。

 趣味に走っている部分が多々ある。


猿飛佐助  :武闘派外諜部隊

霧隠才蔵  :武闘派外諜部隊

由利鎌之助 :武闘派外諜部隊

三好清海入道:僧兵兼務の武闘派内諜部隊

三好伊左入道:僧兵兼務の武闘派内諜部隊

穴山小助  :晴龍の影武者、内諜部隊

根津甚八  :晴龍の影武者、武闘派内諜部隊

筧十蔵   :火薬作り、鉄砲暗殺部隊

海野六郎  :火薬作り、鉄砲暗殺部隊

望月六郎  :火薬作り、鉄砲暗殺部隊

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