第64話:閑話4・大水害
天文十三年(1544)8月8日:京実相院:長尾晴景視点
「殿、室町殿から使者が参っております」
胎田久三郎秀忠が眉間に皺を寄せながら報告してくる。
卑怯下劣な将軍と幕臣共を嫌っているのが、私以上に顔に現れている。
気をつけないと、私も同じようなの表情をしてしまう。
「捨て置け、どうせ支援を求める使者だ。
将軍ともあろう者が、御所に一兵も助けを送らない。
それどころか此方に支援を求めるとは、恥知らずにも程がある」
とはいえ、私が私情を顔に出してしまうのは、久三郎の前だけだ。
久三郎以外の家臣には、主君として相応しい態度と表情を見せている。
「はい、殿の申される通りでございます。
ですが、正面から面罵する訳にも参りません。
いかがいたしましょうか?」
「大雲寺にいる隼人佑に頼みに行くように、案内の者をつけてやれ。
越中守の御情けで生かされている私には、何の実権もないと言ってやれ。
御目付け役の隼人佑の許可がなければ、何もできないと言ってやれ。
ここへの使者に選ばれる奴だ、私の立場と現状は知っているはずだ」
「はっ、そのように申し上げて大雲寺に行っていただきます」
久三郎が満面の笑みを浮かべて出て行った。
私が将軍の命に従わなかったのがうれしいのだろう。
少しは久三郎に相応しい主君に成れただろうか?
越後に居た頃と比べると、随分と汚さを身に着けられたと思う。
「殿、奥方様が御相談に参られました」
老臣の福王寺掃部助孝重が部屋の外から声をかけて来た。
私の側に残っている、福王寺兵部少輔重綱が身を固くしたのが伝わってくる。
父親を恐れている気持ちがありありと伝わってきた。
家督を譲られた後でも、百戦錬磨の父親に頭が上がらない気持ちは良く分かる。
そして今なら、不出来な息子を心配する父親の気持ちも少しは分かる。
「殿、三ノ丸に多くの民を救い入れたと御聞きしました。
わたくしが世話いたしますので、女子供を二ノ丸に入れてくださって構いません」
「そなたの気持ちはうれしいが、それはできぬ。
二ノ丸まで入れてしまうと、九条丸と鷹司丸に近づき過ぎる。
何かあっては越中の禅定太閤殿下や前の関白殿下に合わせる顔が無くなる」
「あっ、愚かな事を申しました」
「いや、構わぬ、そなたの慈愛の気持ちは良く分かっている。
だが、そなたが心配しなくても、大雲寺の隼人佑が行き場のない民を迎え入れる」
「神余隼人佑殿がですか?」
「我らの弟は、どのような機会も逃さず人を集める。
このような前代未聞の大水害を見逃すわけがない。
先年の大雨を超えるような水害だからな、必ず奴隷を買い足軽を集める」
「三ノ丸から伝わってくる話には、四条大橋と五条大橋が流されただけでなく、叡山諸坊が僧兵稚児若衆と共に流されたとありましたが……」
「強大な力を誇る叡山の僧坊が僧兵共々流されたなど、信じられないだろう。
だが嘘偽りのない本当の事だ。
この三日の間に、方々に人をやって調べさせたが、大変な被害だ。
恐れ多くも禁中西方の築地が流れてしまっている。
四足などの御門は、私の配下が武家奉公衆と共に何とか流出を防いだ。
しかし、町々の釘抜門戸はことごとく流出してしまっている。
今日もまだ水が引かず、賀茂川と桂川の間が水浸しだ。
賀茂川からも桂川からも、東寺にまで船で行けるほどだ」
「まさかとはおもいましたが、先の大雨よりも多くの人が流されたと言うのも本当なのですね」
「そうだ、先の大雨よりも酷い事になるかもしれない」
「また多くの民が飢えに苦しむのでしょうか?」
「心配するな、越中守が何とかする。
先年の大雨の時よりも兵糧を蓄えていると聞いている」
「そうですね、越中守殿が何とかしてくださいますね。
ですが殿、目の前の者に手を差し伸べられるのは殿だけではありませんか?」
「分かっておる、内裏に兵を送っただけではない。
困っている街の者を救うための兵も送っている」
「わたくしが炊き出しを指揮させていただいても良いでしょうか?」
「二ノ丸奥で煮炊きをするのは構わないが、直接三ノ丸に運ぶ事は禁じる。
煮炊きした物は、私の手の者に渡せ。
爺、任せて良いか?」
三条長尾家譜代の重臣なのに、越中守ではなく私を選んでくれた。
息子の福王寺兵部少輔重綱、胎田久三郎秀忠以上に信じられる老臣。
愛する妻と息子を任せられるのは爺しかいない。
五年ほど前に寝込んだ時には、もう会えなくなるのかと思ったが、何とか死の淵から帰ってきてくれた。
「安心して御任せ下さい。
爺がこの目で選んだ奥女中達がおります。
その者達に煮炊きをさせて、倅の手の者に渡します。
胡乱な者は、猫の子一匹奥に入り込ませません」
「殿、神余隼人佑殿が参られました」
「そうか、直ぐに会う、ここに通してくれ。
奥の事は爺に一任する、頼んだぞ」
爺、福王寺掃部助が黙って頭を下げて部屋を出て行った。
入れ替わるように神余隼人佑が入ってきた。
三条長尾家の京における軍事と政治、交易の全てを任されている重臣中の重臣だ。
「先触れも送らず、急に会いたいと申し上げました事、御詫びさせていただきます」
「よい、普段の隼人佑が禁中に準じた礼儀作法を行っているのはよく知っている。
その隼人佑が急ぎの用事と申すのだ、公家のような愚図愚図した事は言わぬ。
何があった、挨拶など省いて直ぐに申せ」
「この大水害でございますが、急ぎ全国の被害を調べなければなりません。
被害を受けた国の守護と国人が力を失います。
ですが、被害を受けなかった国の守護と国人には好機でございます。
摂津国守護の細川右京大夫殿が、二人の御舎弟と細川玄蕃頭殿と語らい、将軍家と管領殿を襲撃するかもしれません」
「細川右京大夫殿が京に攻め上って来ると言うのか?」
「某が右京大夫殿でしたら、この好機を見逃しません。
先年の蜂起が失敗し、何時将軍と管領が討伐軍を差し向けるか分かりません。
座して死を待つよりは、好機に下剋上するのが武家でございます。
どうか急いで方々を調べてください。
私も調べさせておりますが、左衛門尉様にしか調べられない方もおられます」
「私に、越中守と敵対するふりをして将軍家と管領殿に近づけと申すのか?
それで、調べてどうすると言うのだ?
私に将軍家や管領殿の味方をしろと申すのか?」
どういう事だ、越中守の指示を受けて謀叛させようとしているのか?
私を誅殺するために、謀叛するように唆しているのか?
「とんでもございません、主筋の左衛門尉様に差し出口はできません。
ただ、左衛門尉様に御教えいただきたい事があるのです」
「私が隼人佑に教えられるような事があるのか?」
「ございます、三条長尾家の命運を決めかねない大切な事でございます」
「なんだ、勿体ぶらずに申せ」
「帝、将軍家、管領殿、右京大夫殿のどなたに味方されるのですか?
それとも、誰にも味方されず、天下を目指されますか?」
「一度大きな失敗をして、譜代衆や味方の大半に見放された。
だがそれは、武人の誇りを大切にしたからで、愚かだからではない。
軍資金や兵糧を弟に頼った状態で、天下を狙えるとは思っていない。
命の恩人や味方を簡単に裏切る、将軍家や管領と手を結ぶ気もない。
私はここに居て帝と内裏を守る!」
「承りました、その前提で動きますので、宜しく御願い致します」
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