第7話:長尾水軍
天文三年(1534)7月7日:越後春日山城:俺視点
「今年も例年の四倍の収穫があった、見事だ。
約束通り増えた三倍分は好きに使え」
長尾為景がまた恩着せがましく言う。
「有り難き幸せでございます」
今年は念願の立毛間播種に成功した。
六月の下旬になってから、たわわに実る大麦を刈り取った。
少なくも秋に蒔いた大麦は、例年の三倍から五倍の収穫量があった。
収穫の少ない畠は、春と秋に連続して大麦を育てた畠だ。
秋から初めて大麦を作り始めた畠は、麦翁・権田愛三の方法を実践する事で、例年の五倍の収穫ができた。
もちろん、まだ秋蒔き大麦を育てている間に、畝と畝の間に大豆の種を蒔いた。
その前に、大麦と大豆の両方の肥料になるように、人糞堆肥をまいている。
大麦と大豆が密集した状態になるので、農作業はとても大変になるのだが、二毛作が成功したら例年の七倍の収穫が得られるので、少々の手間を嫌がる者などいない。
大豆はそのまま煮て食べても美味しいが、味噌の原料にもなれば豆腐の原料にもなるので、百姓も地侍も一生懸命作っている。
大豆は銭にする場合は米と同じ値段で売買できる。
通常の二倍しか収穫できなくても、売る時の値段は、大麦が三倍収穫できるのと少ししか変わらない。
一反の畠で得られる利益が永楽銭四百文の違い。
それを大きいと思うか小さいと思うかだが。
うん、連作障害の事をちゃんと説明しよう。
奴隷が二十文や三十文なのだ、五百文はとんでもない大金だ
欲に目が眩んで連続して麦を育てる奴が必ず現れる。
春と秋、続けて麦を作るのは危険だと丁寧に説明しよう。
水害の多い河川の近くの田んぼを放棄して、水害のない高台の畠に力を入れる百姓と地侍の気持ちが、痛いほど分かるようになった。
前世の父親が葡萄百姓を止めて商売を始めたのは、1959年の伊勢湾台風で葡萄棚が倒れて全滅してしまったからだけではない。
全く収入がない中で棚を造りなおして、新たな葡萄の苗を植えて、もう一度葡萄作りを始めたのに、二年後の1961年に第二室戸台風に襲われたのだ。
三年間ほとんど収入がない状態だった。
もう一度葡萄棚を造りなおして苗を植えても、実りが得られるのは更に三年後だ。
五年も六年も無収入の百姓など、やっていられるか!
親父が百姓を止めた気持ちも分かる。
それから八十年、一度も台風の被害がなかったのは皮肉すぎる。
親父が商売に失敗したのに、都市近郊の葡萄作りが観光化に成功して、棚になっている葡萄がお札に見えると言った親戚の兄貴達に比べて……
台風で棚が倒れた葡萄百姓の多くは、若い者が大阪市内に働きに出て、父親が棚を修理して百姓を続けた。
だが親父は、第二次大戦で父親を失っている。
自分が働きに出るなら、畠を手放すか貸すかしかなかった。
商売を始めるなら、元手を作るのに畠を売るしかなかった。
親父に商売の才能はなかった。
戦争未亡人の祖母は、親父が商売を失敗した事で更に辛い思いをした。
俺が日本の歴史を変えたい大きな理由の一つだ。
気持ちを切り替えよう、何かに妄執していると、思わぬところで失敗する。
俺自身は親戚の葡萄畑でジベレリン処理を手伝ったくらいだが、地侍と百姓が天災を恐れる気持ちは分かる。
そんな地侍と百姓が、水害の心配のない畠の収穫が、水田で稲を作るのに比べて四倍もの実りがあるのを、心から喜ぶ理由は理解できる。
昨年の収穫量に歓喜し、秋に蒔いた大麦がすくすくと成長するのを見て、俺の言葉を神の啓示の如く聞いてしまう気持ちも分かる
元々に二万石だった畠に平均四倍の収穫が有った。
八万石の大麦が取り入れられ、四万石の大麦が年貢として納められた。
その内の三万石が俺の取り分となった。
この春から俺の指導下に入った二万石の畠には春麦を植えた。
昨年から時間をかけて土づくりをしてきたから、春と秋に麦を作っても、今年の秋の収穫は四倍、来年初夏の収穫で二倍はあるだろう。
越後と京の交易もとても順調にいっている。
もう俺が直接京に行かなくても、御用商人の蔵田五郎左衛門と、京都雑掌の神余隼人佑が上手く永楽銭と交換してくれる。
問題は一度に大量の銭や大麦を運ぶだけの船がない事だ。
海賊から銭や大麦を守るだけの備えがある、関船や小早船の数が限られれている。
今後の事も考えて、菱垣廻船と唐船を建造させる事にした。
安宅船や関船、菱垣廻船やジャンク船の事も戦国仮想戦記を書いた時に調べた。
割と熱中する性格だったので、図面や構造もかなり覚えている。
穀物を千石以上積める船でも、永楽銭千貫文もあれば一隻建造できる。
ただ、今はまだ俺の手元に二万四千枚の永楽銭はない。
少しずつ大叔父の高梨政盛に送って宋銭と両替してもらっている。
だが、収穫した大麦は順次献上品と言い張って京に送ってある。
戦乱の激しい京を始めとした西国では、大麦でも高値で売れる。
関東で大麦を買う者がいるのなら、宋銭三貫二百文で売ってやる。
その銭を関船の支払いに当てればいい。
これから越中加賀を攻め取る事を考えれば、大量の戦船が必要になる。
蝦夷や明と交易するにも、村上水軍に匹敵する水軍が必要だ。
だから俺は、越後中の船大工に大型船の建造を依頼した。
前金を踏み倒されるのは嫌だったので、他領の船大工には、完成した船と代金の引換での建造を依頼した。
残念ながら新潟三ヵ津と呼ばれた新潟津、蒲原津、沼垂湊は敵対している揚北衆の拠点に近いので、安心して利用できない。
だが、直江津は支配地内にあるので安心して使う事ができる。
昨冬に京に向かったのも直江津からだった。
室町時代に作られた日本最古の海洋法規集、廻船式目でも日本の十大港湾の一つに直江津が入れられている。
三津七湊と呼ばれ港湾なのだが、伊勢国安濃郡の安濃津、筑前国那珂郡の博多津、薩摩国川辺郡の坊津が三津だ。
七湊は越前国坂井郡の三国湊、加賀国石川郡の本吉湊(美川港)、能登国鳳至郡の輪島湊 、越中国新川郡の岩瀬湊、越後国頸城郡の今町湊(直江津)、出羽国秋田郡の土崎湊(秋田湊)、陸奥国津軽郡の十三湊 だ。
こうして考えると、長尾為景が分郡守護代職を持っている越中国新川郡の支配を強化するべきだな。
越中加賀を攻め取ると決めているなら、岩瀬湊を完全に支配下に置いて、湊を守るための城を築き水軍を常駐させるべきだ。
簡単なのは、既にある水軍を味方につけて直江津と岩瀬湊を拠点にさせる事だが、何時裏切るか分からない者を誘うよりは、古くからの漁民を鍛えた方が良い。
蔵田五郎左衛門と荒浜屋宗九郎が使っている商船の船頭を引き抜いて、海と航海の知識を地侍や足軽に教えさせる方が安全だ。
船頭や船員を確保できたら、後は戦闘力の有る兵士と漕ぎ手を集めればいい。
合戦の捕虜なら最低限の戦闘経験がある。
大人の奴隷が二千人以上いるのだ。
戦える奴隷は足軽に取立てて水兵にする。
戦えない奴隷は水主にして櫓を漕がせれば良い。
「父上、船を造るだけでなく長尾水軍を作りましょう」
「水軍だと?
……面白い、協力してやる、何でも言え」
やってはみるが、一から水軍を作るのは無理かもしれない。
その場合は、支配力は低くなるが、既存の水軍を味方につけるしかない。
近くに拠点を持っているのは、出羽国秋田郡の出羽湊を拠点にする安東水軍、隠岐の島を拠点にする丹後水軍くらいしか覚えていない。
改めて蔵田五郎左衛門と荒浜屋宗九郎に確認しておこう。
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