第4話:東西の為替差
天文二年(1533)12月25日:京:俺視点
「若君の慧眼には恐れ入りました!」
俺の後見人として越後からついて来てくれている、三条長尾家の家老、山村若狭守国信が心から驚き感心してくれている。
「思っていた通りに売れただろう?」
「某もこのような方法があるとは思ってもいませんでした!」
山村若狭守国信だけでなく、越後守護上杉家で京都雑掌をしてくれている、神余隼人佑実綱も賞賛の気持ちを隠さずにほめてくれる。
前世で戦国仮想戦記を書いた時に知ったのだが、戦国時代には東西で好まれる銭が全く違っていたのだ。
京から西にある国では宋銭が好まれていた。
ただ、宋銭なら何でもいいと言う訳ではない。
宋銭一枚で買える物でも、傷や汚れのある宋銭なら二枚必要だった。
永楽銭を含めた明銭、私鋳銭だと三枚以上も必要になる。
俺の感覚では、宋銭一枚で永楽銭四枚の価値だと思う。
一方京から東、特に関東では永楽銭がとても好まれていた。
永楽銭を一枚手に入れるために、宋銭を三枚四枚払う者が普通にいる。
慶長十四年1609年に徳川家康が定めた金銀銭の交換比率も、金一両、銀五十匁、永楽銭千枚、鐚銭四千枚だったから間違いないだろう。
だから俺は、京で大麦を売って永楽銭を手に入れ、信濃で永楽銭を宋銭に替えて、莫大な為替益を手に入れる心算だった。
越後は海で京とつながっているので、宋銭と永楽銭の為替差はまだ少ない。
越後上布の取引が頻繁なのと、越後守護上杉家と守護代長尾家が京を重視しているので、関東武士の気持ちが分かっていなかった。
「だがこれが通用するのは最初だけだ。
やればやるほど、西国と東国の宋銭と永楽銭の数が同じになる。
早いうちに利を得て他の領主と差をつけなければならない。
隼人佑の働きには期待しているぞ」
前世では、1609年になっても永楽銭と鐚銭は一対四だったから、俺が少々銭為替で儲けても影響はないともうが、頼り切るのは危険だからな。
「御任せ下さい、必ず御期待に応えてみせます。
若君の献上された麦で即位の礼ができると分かったのです。
誰が相手でも強気で押す事ができます」
昨日、山村若狭守と神余隼人佑に後見されて、内裏で帝に拝謁した。
普通なら、無位無官の俺など、とても直接帝には会えない。
だが千石もの麦を即位費用の足しにと献上したので、庭先で声をかけてもらえた。
同時に声をかけられた後見役の二人は、陪臣であるだけに、震え上がるほど光栄に思ったようだ。
「ならば明日の園城寺との交渉も強気で頼むぞ」
「御任せ下さい」
近江の大津にある園城寺は、俺が前世で三井寺と呼んでいた寺だ。
この寺、天台寺門宗の総本山なのだが、比叡山延暦寺と激しく敵対している。
山門寺門の争いで、何度も延暦寺の僧兵に焼き討ちされているのだ。
俺が読んだ資料では、中世までに五十回以上も焼き討ちされているとあった。
これからの方針を考えれば、どうしても味方に引き入れたい寺院だ。
「本当は高野山金剛峰寺にも直接行きたいのだが、雪解けまでに兵を越後に戻さないと、万が一の事があっては困る」
長尾為景ともあろう者が、千の兵士が減ったくらいで、上条定憲程度に負けるとは思えないが、戦力はできるだけ集中して使うのが定石だ。
八千石の麦を売って手に入れた永楽銭二万四千貫文も、越後に持ち帰ってから信濃や上野で換金しなければ、西国ではただの鐚銭になってしまう。
関東武士は、非常用の貯金を永楽銭で蓄える習性があると前世で読んだ。
本当かどうか、北信濃に拠点を持つ大叔父の高梨澄頼に確かめたのだが、好都合な事に本当だった。
越後では中途半端な永楽銭だが、心から信頼できる高梨家にまで運びさえできれば、三倍の宋銭に替える事ができる!
永楽銭一枚を宋銭四枚に替えるのも不可能ではないが、大叔父とはいえ高梨澄頼にも十分な利益を与えておかないと、妬みから裏切られる可能性がある。
男の嫉妬ほど汚いものはないと、前世で嫌というほど味わっている。
七万二千枚になった宋銭を京に運べれば、二十一万六千枚の永楽銭にできる。
為替差が解消してしまうと使えなくなる方法だが、今なら両替するだけで莫大な利益を手に入れられる!
天文二年(1533)12月26日:近江大津園城寺:俺視点
「ふむ、分かりました、延暦寺の横暴には目に余る物があります。
遠く離れているとはいえ、信濃の善光寺を延暦寺に奪われたのは許し難い。
取り返して頂けるのなら、長吏の地位は若君に差し上げます」
園城寺との交渉は大成功だった。
それでなくとも延暦寺に恨みを持つ園城寺が、園城寺系寺門派だった信濃善光寺を、延暦寺系山門派顕光寺の別当職を世襲する、信濃栗田氏に奪われているのだ。
その所為で、信濃善光寺は園城寺系寺門派から延暦寺系山門派に宗旨替えした。
園城寺からすれば、絶対に許せない悪行だ。
取り返すためなら、ある程度の資金援助と僧兵派遣に喜んで応じてくれた。
現地の長吏職程度なら、よろこんで渡してくれた。
だが、ここで終わる訳にはいかないのだ。
栗田氏を再起できないほど叩くには、園城寺だけの協力では心許ない。
何故なら、栗田氏は信濃村上氏の分家なのだ。
何度も武田信玄を撃退した、あの村上義清の一門なのだ。
最後には村上義清を裏切る栗田氏だが、今はまだ裏切る素振りもない。
襲えば必ず宗家の村上義清に救援を求める。
それを防ぐには、大義名分と大兵力が必要なのだ。
大義名分は、後奈良天皇から綸旨を下賜してもらえればすむ。
今回の献上ではかなりの手応えがあった。
来年には必ず綸旨を手に入れられるだろう。
兵力の方は、畿内の牢人や足軽を集めるのに加えて、高野山金剛峰寺の僧兵を味方につける予定だ。
栗田氏が別当職を手に入れた最初の寺は、一般的には戸隠神社と呼ばれている顕光寺なのだが、顕光寺は内部で延暦寺と金剛峰寺が権力を争っていた。
それが、天台と真言の法論闘争になり、1468年に天台派の宣澄法師が真言派に暗殺される事件につながった。
だが、最終的に勝ち残ったのは、宣澄法師を殺された方の天台派で、真言派の者たちは戸隠神社から追放されてしまった。
戸隠神社は、天台密教と真言密教と神道が習合した神仏混淆の寺院として、戦国時代でも全国に名が知られており、比叡山と高野山に並ぶ「三千坊三山」と呼ばれ、多くの修験者や参詣者を集めている。
三千坊とは、寺院内に僧の起居する建物が沢山あると言う表現だが、それを維持できるだけの寺領と信徒がいるという意味でもある。
戸隠神社を取り返せるのなら、高野山はかなりの資金と僧兵を出してくれる。
俺はそう確信しているのだが、直接交渉に行くには身体が幼過ぎた。
雪深い高野山に行って風邪でもひいたら、医療技術が未熟なこの時代だと、簡単に死んでしまうかもしれない。
夏に高野山に行ければいいのだが、戦える夏は越後にいなければいけない。
少なくとも上条定憲勢を完全に無力化するまでは、雪深い季節にしか京に長時間居る事はできない。
「隼人佑、高野山金剛峰寺との交渉は一任する、任せたぞ」
「御安心下さい、この命に替えましても成功させてみせます」
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