第34話
「どこ行ってたの」
病院へ行くと、千佳はすでに退院した後だった。彼女はアパートに戻ってきていた。戻って来たのは彼女だけでは無かった。
「久しぶり」
元妻は素っ気なく言った。
「めぐみ……何しに来た」
元妻——めぐみはふてくされたような顔をする。もう何年も会っていなかったが、当時よりもずっと痩せていた。それでも、肌の露出が多い服を着て、夜の蝶のような髪型だった。
「あんなに愛し合った仲なのに、随分な物言いね」
良く、いけしゃあしゃあと言えた物だ。
「何しに来たって聞いてるんだ」
「千佳に呼ばれたのよ。あんたには恥掻かされたわよ。あんなキャバ嬢に治療費を立て替えさせるなんてね。私がちゃんと返しておきましたけど」
キャバ嬢というのは美紀のことだろう。
めぐみが領収書を俺に差し出す。
「金か」
「そうよ、それ以外に、あんたに会う理由なんてないわよ」
俺は財布に残っていた金を抜き出して、めぐみに叩き付けた。めぐみは飛び散った金を慌ててかき集めて数えた。千佳がそれを哀しい目で眺めていた。
「これで十分だろ」
俺は彼女の手から札を一枚抜き、千佳に差し出した。
「ちょっとジュースでも飲んでこい」
千佳は少しの間、金と俺の顔を交互に見ていたが、金を受け取り出て行った。
「あの子は俺の子なんだろう?」
「わかんないって」
「母親なのにか」
「あーもう。あんたって、本当に嫌な奴。調べてないからわからないけど、あの時、研二と結婚したかったから、あの子は研二の子ってことにしたけど、本当のところはわかんないわよ」
「研二ってのが、あの時の男の名前か」
「そう。まあ、上手くいかなかったけどね。すぐ別れちゃったわよ。上手くいかないもんね」
めぐみが髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回す。
「千佳は俺の子だ。今後は俺と一緒に暮らす」
「はあ? 何言ってんのよ。あんたロリコンだったっけ?」
めぐみは馬鹿にしたように笑う。
「本気だ。お前は母親には向いてない」
「今まで、さんざん放っておいて、今更? 無責任なんじゃないの」
「何と言われようと結構だ」
「絶対に、千佳は渡しませんからね」
俺は彼女を見下ろす。
「裁判になってでも、必ず千佳は俺が引き取る。絶対に諦めないからな」
俺の気迫に怖じ気付いたのか、めぐみは目をそらした。
「あ、あんたなんかに……」
言いかけたとき、玄関のドアが開いた。千佳が涙を浮かべて立っていた。
「私、お父さんと暮らす」
千佳が駆け寄ってきた。抱きしめると、エンジェルと同じ匂いがした。
「勝手にしなさい!」
めぐみがヒステリックに声を上げて、玄関に向かう。ドアを開けたとき、彼女は立ち止まって振り返らずに言った。
「ねえ、あたしともう一度……」
俺は答えなかった。彼女はそのまま出て行った。
あの老人は再び病院から姿を消したらしい。また、どこかで酒を飲みながら将棋でも打っているのかも知れない。
「俺は海外で羽根でも伸ばしてくるわ」
ボロアパートに戻ると、丁度豚が出て行くところだった。隣に見知らぬ女が立っていた。
「この子、ふうかちゃん」
豚が入れあげていた風俗嬢だ。ふうかちゃんはおっとりした顔で、信じられないくらい胸が大きかった。
「エンジェルの葬式はどうする?」
高梨が尋ねる。豚は少し淋しそうな顔をした。
「ばっかやろう。そんなもんに出たら、組の奴らに殺されちまうだろうが」
「それもそうだな」
高梨と豚は笑い合う。
「またな」
俺が言うと、豚は笑って言った。
「また、はねえよ。もしあるとしたら、次会うときは俺の葬式だな」
「おいおい」
豚が大きく手を振った。
「じゃあな」
丁度タクシーが来たので、豚は門の外を窺いながら出て行った。彼女の肩を抱く豚の顔は幸せそうだった。
「さて、準備しますか」
高梨は喪服を着ていた。
アパートのリビングに、簡素な祭壇が設えられていた。美々が花を飾っている。
「あっ」
俺は遺影を見上げて声を上げた。エンジェルの笑顔の写真だった。
「レアだぜ。しっかり見とけよ」
美々が言った。
「エンジェルは写真に撮られるのを嫌がりましたからね」
「あんなに死にたがっていたエンジェルは、これで幸せなのかな」
写真を見上げて、手を合わせる。
「さあ。僕たちには、そう願うことしか出来ませんが」
高梨も手を合わせた。
「エンジェルちゃん」
不意に後ろで声がした。松本だった。
「じじい。何しに来たんだよ」
美々が松本にくってかかる。
「エンジェルちゃんに会いに来たんだ。悪いか」
美々が松本を締め上げる。彼の後ろに控えていた付き人が、美々を引きはがそうとしたが、松本がそれを制した。
「てめえが……てめえがエンジェルを探すのを手伝ってたらなあ……こんなことには……」
美々の手が緩んだ。彼女はその場に崩れ落ち、泣き出した。松本はそれを見下ろし一言「すまなかった」と言った。
「香典だ」
松本が懐から、分厚い香典袋を取り出した。
「そんなもんいらねえよ」
美々が叩き落とした。松本は拾わず、そのまま出口に向かった。
「松本さん」
高梨が呼び止める。
「良いんだ。それは二人分だ」
松本は振り返らずに言った。
「二人分?」
「もう、お前たちと会うことも無いだろう」
外で、松本の車が発進する音が聞こえた。
翌日の新聞で、男性と女性が事故死したことが、小さく報じられた。空港の近くでタクシーが事故に遭ったらしい。だが、俺は豚の本名を知らないし、ふうかちゃんの本名も知らない。調べるつもりも無かった。豚の最後の言葉が頭を過ぎった。
エンジェルはアパートの庭に埋めることにした。彼女がいつも水をあげていた樹の下に穴を掘り、彼女を埋めた。いつか、樹が種から生長するように、彼女がまた生まれ変わることを願った。
神がいるならどうか、今彼女が幸せになっていますように。願わくは、彼女の次の人生が、少しでも幸せでありますように。
「じゃあ、僕は行きます」
「あんたはどこへ行くんだい?」
「僕は警察に自首してきます」
「マジかよ」
「ええ。僕には、償わなければならない罪が沢山あります。すべてお話してこようと思って」
高梨は門の所までやってきた。あと一歩踏み出せば、向こうは外の世界だ。彼も元の世界へ帰るのだ。
「あの……」
「何ですか」
「エンジェルの本当の名前って、何だったのか知ってる?」
「エンジェルはエンジェルだろ」
美々が俺を小突く。高梨は首を振った。
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