第32話



「おい、何だ」


 緊張が走る。


「エンジェルの声じゃないな」


 高梨が冷静に言う。


 電話の向こうでは、大丈夫ですかという声が聞こえた。何か話しているようだが、良く聞こえない。救急車、という単語を辛うじて拾う。老人は怪我をしているようだ。女性が、救急に電話している。音量を最大まで引き上げ、神経を集中すると辛うじて住所を拾えた。


「ここならわかる」


 豚がアパートのドアを蹴り破るようにして出て行った。俺も跡を追う。


「鈴村さん」


 高梨が俺を呼び止める。


「すみません……こんなときなのに、俺はここから出られません。エンジェルをお願いします」


「任せろ」


 彼は俺が出て行くまで、高梨は頭を下げ続けた。




 タクシーを捕まえ、住所を伝えるとすぐに走り出した。


 空は完全に日が昇っていた。道中は天気も良く、これから血生臭い場所に行くとは思えなかった。


 青い空は雲も少なく、鳥が飛んでいた。あの鳥は何という種類だろうか。考えていると、タクシーが急ブレーキを踏んだ。急に人が飛び出してきたのだ。少し先に人だかりが見える。


「おいおい、安全運転で頼むぜ」


 隠れるように座っている豚が言った。運転手は慌てて謝る。


「エンジェル……大丈夫かな」


 美々が心配そうな顔をする。


「大丈夫だろ。あのエンジェルに限って死にゃしねえよ」


 豚が手をヒラヒラさせた。


 確かに、エンジェルは何度死んでも生き返る。俺には、この才能を持った人間を殺すすべが思いつかない。


 救急車が後ろから近付いてきた。すぐ前に停まる。人だかりの中心は電話ボックスだった。


「おい、着いたなら言えよ!」


 豚が叫んだ。俺たちは料金を払うと、電話ボックスに近付いた。老人がストレッチャーに乗せられている。意識は無いようだった。


「じじい……」


 豚が呟く。


 救急車が行ってしまうと、人だかりは散っていった。


 電話ボックスの壁に血の跡がついていた。相当な傷を負っているのだろう。美々が電話ボックスを殴った。


「すぐに警察が来る。早く行こう」


 周辺は、大きな家や畑、倉庫のような建物や工場ばかりであり、家が密集している地域では無かった。


「おいこれ」


 豚が言った。俺と美々は彼よりも大分進んだところに居た。


「馬鹿野郎。お前、あのじじいがせっかく場所を教えてくれてるって言うのに、無視すんのかよ」


 吐き捨て、豚が何か探し始めた。


「何を探してるんだ」


「あのな、じじいはかなりの怪我をしてる。それであそこまで歩いて行ったんだ。血の道が出来てるって考えるのが普通だろうが」


 豚に言われてようやく気付いた。


「こっち!」


 美々が手招きした。すぐ近くの家から、血痕が続いている。


「ここか」


 表札には足立、と書かれている。覗いてみると異臭がした。美々が鼻を押さえる。車が駐まっている車は、確かに俺たちの物だった。クーラーボックスが車の後ろに落ちて、その近くが血塗れになっていた。警官に見られたら終わりだというのに、老人にトドメも刺さず、掃除もせずに何を焦っていたのだろうか。


 恐る恐る、敷地内に侵入する。小さな庭があり、それに面して縁側がある。家は古く、今にも中から物の怪でも出てきそうだ。だが、いたのは物の怪では無く、あの独り言の激しい男だった。あの練炭自殺の夜に見たときよりも、ずっと老けて見えた。手足は枯れ木のように細く、顔色も悪かった。


「貴様」


 走り寄るが、男は無反応だった。胸ぐらを掴んでも、抵抗さえしない。あんなに感情的な人間だったのに、今では廃人のようだ。原因はこの臭いだろう。嗅いだ覚えのある臭いだ。


「殺したな?」


 足立の体がビク、とはねた。何も映していなかった瞳が、俺に像を結ぶ。にわかに恐れるような表情になり、彼はもがき始めた。


「ち、違う……違う……」


 独り言のように呟きながら暴れるが、俺は決して放さない。豚が土足のまま、縁側から家の中に入って行った。


「お、おいやめろ」


 足立が豚に向かって手を延ばす。俺は彼を押さえつけた。


「エンジェルはどこだ!」


 自分でも驚くような怒声だった。足立も驚いたようだが、自分でも驚いた。まるで怒りが爆発したみたいだった。


「おいおい、勘弁しろよ」


 家の奥へ行った豚が、鼻を押さえて戻って来た。


「エンジェルは?」


 尋ねるが、豚は無視する。


「てめえ、殺したのはエンジェルだけじゃねえな」


「何?」


「風呂場、見てこい」


 豚が足立の顔を殴る。足立は呻いてうずくまった。それを見ても、可哀想だとは思わなかった。


「殴らないで! 俺を殴ったら、警察に言うぞ」


「馬鹿かお前。お前はこれから死ぬんだよ。警察になんか見付からねえように、バラバラにしてやるよ。お前がやったみたいにな」


 足立は悲鳴を上げた。豚が、逃げられないように足立の両足を折ったのだ。ここらへんに民家が少ないとは言え、これだけ騒げば誰かが見に来るか通報するかも知れない。しかし、俺たちは手加減することが出来なかった。彼が何をしたかは容易に想像がつく。そして、それが間違っていないことも。


 風呂場に入る前から、異臭が強くなっているのに気付いていた。腐臭の元はバスタブの中だった。中は黒い水が溜まっており、腸や、肉の破片や髪の毛などが浮いていた。豚がエンジェル以外も殺したと言った意味がわかった。風呂場には、長い白髪が落ちていたからだ。もちろん、エンジェルの金髪と思われる髪の毛も落ちていた。そして、恐らく犯行に使われたであろう刃物も残っている。包丁や、のこぎりもあった。


 浴室は乾いて固まった血がこびりついていた。


「なんてことだ」


 足の力が抜け、俺はその場に座り込んだ。体を支える腕が震える。


 因果応報、という言葉が脳裏に浮かんだ。俺たちはこうされても仕方がないことばかりやってきたのだ。


 後ろで悲鳴が聞こえた。振り返ると美々だった。その場に嘔吐する。俺は彼女の背中をさすってやった。


「触るな」


 彼女は俺の手を撥ね除けた。


「あっち行け……行ってくれ」


 プライドの高い彼女は、醜態を見られたくないのだろう。俺は彼女を残して、足立の所に戻った。


「お前、自分の家族を?」


 さんざん豚に殴られたのだろう、彼の顔は腫れ上がっていた。


「下種だな」


 豚が彼の顔につばを吐きかける。


「仕方なかったんだ」


 足立が呟くように言った。


「あぁ? 何だよ、言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」


 豚が蹴りを入れる。


「俺の母親はぼけてたんだよ。もうずっと介護して、そのせいで婚約者には逃げられるわ、仕事は首になるわ、その上報われない作業を延々とさせられるんだぞ。嫌にならない方がおかしい」


「甘えんなカス。そんなんで、自分の母ちゃん殺すなんて、お前は本物のクズだな。お前も一緒に死ねよ」


「甘えてなんかない!」


 足立が叫ぶ。


「やったことも無いのに、知った風な口を利くな。どれだけ大変か、お前になんてわからない」


「何だと?」


 豚が殴ろうとする。足立が身構えるが、俺がそこに割って入った。


「あの黒騎士とかいう子供は何者だったんだ?」


 俺は疑問に思っていたことを尋ねた。


「どうして、再生のことを知っていた」


 足立は口の端を歪めた。


「へへ、あいつはただの変態野郎だよ。あの子のファンだとか言ってたが、ただのストーカーさ。いつもいつも、あの子のことを追い回してたらしい。部屋に沢山写真やらビデオが詰んであるぜ」

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