第24話



 それとは別に、俺を悩ませることがあった。あのキャバクラに押し入ってきた強盗。彼女らは、彼らの目的はわからずじまいだと言ったが、俺はわかっていた。恐らく、目的は柊だ。太った方は豚に違いない。彼は柊のことを憎んでいた。掃除の時に姿を見せなかったのも、遊園地の時に不機嫌だったのも、柊に取り立てられていたときのことを未だに根に持っていたからだ。いや、今でも取り立てられているのだろうか。その復讐に違いない。彼にとって、それは殺すきっかけになるほどに辛い出来事だったのだろう。お礼参りすると、冗談めかして言っていたことを思い出す。人を殺すとか、自殺するとか、人が命を懸けるのには相当な決心が必要だ。その決心を促す出来事というのは、他人には想像も出来ない。


 何故、彼はあんな馬鹿げたことをしたのだろう。必ず、報復されることはわかりきっているのに。あのアパートは解体されるだろうか。俺たちはどうなるのだろう。エンジェルは? 高梨はきっと他の場所に移されて同じ仕事をするだろう。


 千佳が呻いた。慌てて千佳に声を掛けると、寝言だったようだ。安堵の吐息をついた。危うくナースコールを押すところだった。


 急に雨が降ってきた。窓を叩き付けるような激しい雨だった。あの二人は大丈夫だろうか。


 雨が降ると、何故か煙草が恋しくなる。一種の条件反射のようなものだろうか。あのどす黒い重たそうな雲を見ただけで、口の中に苦みが広がる。気がつくと、膝を指先でトントン叩いていた。


 千佳の顔を見る。しばらく目覚めそうに無い。一旦煙草を吸ってから戻ってこよう。俺は病室を抜け出した。本音を言うと、あそこにいるのが辛かったからだ。今、千佳が苦しんでいるのは俺のせいで、あの雨さえ俺を責めているような気がした。


 癖で胸ポケットに手をやるが、煙草は持っていなかった。もうずっと、十代の頃から喫煙者で、最近になってやっと煙草をやめられたと思ったが、習慣というのは忘れた頃に戻ってしまうものだ。胸ポケットに煙草を入れいていたのなんて、自殺するより以前の話なのに、まだそんな癖が自然に出てしまう。


 この病院の喫煙所には、ご丁寧に煙草の自販機が設置されていた。そこで煙草を買い、置いてあったマッチで火を付けた。雲を見上げたときに蘇る苦みと、同じ味がした。


 喫煙所はほんの僅かなスペースをプラスティックの頑丈なケースで覆い、椅子さえ無く、人とすれ違うのもやっとだった。まるで動物の飼育ケースだ。


 先客が二人いた。


「最近の喫煙者に対する弾圧は、まるで戦時中の言葉狩りのようですな」


 二人のうちの一人が言った。彼は枯れ木のような体ではあったが、一見して高級とわかるスーツにハット、革靴という病院には似つかわしくない格好の老人だった。ここのところ、老人との縁が多い。彼が吸っているのは若葉だった。あんな不味い煙草を良く吸えるものだ。


「そうですね」


 もう一人は髪の長い女性だった。非常に短いスカートで、二十代前半だろうか、若そうに見えるが女性の見た目は年齢とは比例しないと言うことは、俺も知っている。女性らしい、細長いメンソール系の煙草だった。


 会話はそこで途切れた。会話が無ければ、聞こえてくるのは三人が煙を吸い、それを吐き出す音だけだった。喫煙所のプラスティックはの壁は厚いらしい。外の音が全く聞こえてこなかった。それだけに、煙を廊下に漏らすことはないようだ。この煙は、天井に設置された通気口から外へ逃げ出して行くのだ。俺もこの煙のように、逃げ出したい。あの、自殺を決意した日に似た心持ちがした。どこにも行き場の無い閉塞感。俺は今、この喫煙所のような狭い中に、膝を抱えて座っている。胸に抱かれているのは後悔だけだった。


「一雨来ましたね」


 老人が言った。喫煙所に窓は無いが、プラスティックの壁を通して、通路の向う側の窓の外が見える。女は同意するように、ゆっくり煙を吐き出す。


「まるで心に降る雨のようだ」


「え?」


 思わず声を上げてしまった。老人は俺を見て微笑んだ。


「誰の心にも雨は降る。貴方だけじゃ無い」


 老人は新しい煙草に火を付ける。煙で部屋が満たされて行く。この狭い部屋で、三人が一斉に煙を吐き出せば、互いの顔が隠れるくらいに煙が漂う。


「誰かのお見舞いですかな?」


 老人は女に向かって言ったようだ。だが、女は答えない。ただ、煙を吐き出すのみだ。


「私はね、妻の見舞いなんですよ。妻はもう長くない。私は良い夫だったろうか。この年になっても、私がわかることなんてほんの僅かしかないんです。何もわからない赤子のように、ちっとも進歩していないのかも知れない。妻が入院したとき、私の心にはこんな風に雨が降りました」


「今は?」


 女が尋ねた。


「今では……降っていませんよ」


 老人は女に向かって微笑む。何故だろうか、彼の笑顔を見ていると心が落ち着く。もし神がいるのだとしたら、彼のような人なのかも知れない。


「どうして? 奥さん、死ぬんでしょう?」


 女の物言いは遠慮が無かった。


「ええ。妻はもうじき天に召されます」


「ならどうして」


「私はね、受け入れたんですよ」


「嘘。人はそんなに簡単に、不幸を受け入れられない」


 老人はゆっくり首を振る。


「ええ、簡単ではありませんでした。雨は中々止まず、私はいつもずぶ濡れのまま、心を冷やして行きました」


 老人が煙草を灰皿に押しつけた。新しい一本を取り出そうとして、箱が空であることに気付いたようだった。俺は無言で自分の煙草を差し出す。老人は手刀を切ってそれを一本抜き取った。


「でもね、受け入れるしかないんですよ。結局、なるようにしかならない。こんな風に言うと、諦めているように聞こえるかも知れない。実際、そうなのかもしれない。でも、私は思ったんです。勝手に考えて良いんじゃないかと。妻がここに運び込まれたとき、すでに意識はありませんでした。今以て、回復の兆しはありません。ならもう、彼女は幸せだったと思うしか無いでしょう。信じるしか無い、今まで自分がやってきたことを。自分を信じてやれるのは、自分しかいないんですから。そう考えたとき、雨は止みました」


 老人の細い目に、涙が光った。


「そう……ね。そうですね。そうかもしれない」


 女も涙ぐんでいた。


「私の母も末期癌で入院してるんです。私は母に愛されていないと思ってた。でも、私がここまで生きてこられたのも、やっぱり母のおかげだったのかもしれない」


 老人が頷く。


「都合の良い考えかも知れないけど」


「それで良いんです」


「ありがとう。少し楽になりました」


 女は煙草を揉み消し、部屋から出て行った。煙の中ではわかりづらかったが、綺麗な人だった。彼女が残していった赤い口紅つきの吸い殻が、煙の中にあって鮮明に見える。


 老人がこちらを見てニコニコしている。俺にも、吐き出すべきことがある。俺も雨の中に取り残されている人間の一人だ。


「俺は……うん。子供が産まれてすぐに、子供と引き離されてしまいました。彼女が自分の子供じゃないと、妻に言われたんです。それを信じていましたが、もしかしたら彼女は、俺の子供なんじゃ無いかと、最近気付いたんです。だから、彼女のために出来ることをしようと思いました。でもそれが本当に良いことなのか、わからない。だって、そのせいで今、彼女は苦しんでいるんです」

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