第20話
それからの数日は気が気ではなかった。何をしていても、外が気になった。幸い、外へ行く用事——つまり仕事はなかったので、移動中に襲われる恐れはなかった。
エンジェルは血を流しすぎたせいだろうか、だるそうにしている。トマトジュースばかり飲んでいる。
あの夜以来、俺はエンジェルの顔をまともに見られない。彼女も体の調子が悪いのか、ほとんど喋らなかった。高梨も部屋に引きこもったまま出てこない。
窓の外は雨が降っていた。あの日、千佳が産まれた日も雨が降っていた。ふと、彼女の顔が見たくなった。写真は持ってきていない。あの日、自殺をしようと思って部屋を出たのだ。そんなものは持って行かなかった。
久しぶりに部屋へ行こう。あの部屋はどうなっているだろうか。家賃は口座から引き落とされる。まだ、銀行には少しだけ貯金が残っているはずだ。そのままになっているか、もしくは警察が荒らし回った後かも知れない。
玄関を開けたら警察がずらっと並んでいる光景を想像した。何かの映画のようだ。
もう一度エンジェルを見た。彼女はトマトジュースのパックにストローをさして、くわえている。もう中身は入っていないのだろう。パックがへこんだり戻ったりを繰り返していた。
ここにいても気が滅入るだけだ。気分転換に散歩でもしてこよう。
俺はアパートを出た。雨は止みそうだ。傘はいらない。
門の前に立つ。ここに着たばかりの頃——といってもほんの数週間前であるが——はここから足を踏み出すことが出来なかった。しかし今なら……。
門の前で足を揃える。足先を見つめ、足を踏み出す。ジットリとした汗が出てきた。たっぷり時間をかけて、ようやく踏み出すことが出来た。
今まで、遊園地やら松本の屋敷やら行ってきたが、一人で、自分の足でここを出たわけではなかった。俺も引きこもりになっているのかも知れない。
最初の一歩を踏み出せたら、あとは歩いて行けた。少し、心臓の音がうるさいだけだ。
ここはどこだろう。ポケットには高梨から貰った給料がある。俺はタクシーを捕まえた。
「お客さん大丈夫?」
運転手がミラー越しに俺を見て言った。
「どうして?」
「だってお客さん、顔色悪いよ。息も上がってるみたいだし」
言われた初めて気付いた。俺はまだ、完全克服したわけではないようだ。
「大丈夫……大丈夫」
まるで自分に言い聞かせるように言った。
運転手に行き先を告げると、思いの外距離があった。タクシーで一万円を超える距離乗ったのは初めてだった。
アパートは変わりなく、外壁はくすんで崩れ、階段は暗かった。郵便受けには、何も入っていなかった。俺に手紙を送る奴なんて、誰もないのはわかっている。
部屋の前に立って鍵を差し込む。緊張で鼓動が早鐘を打つ。ゆっくり鍵を回すと、軽い音がして鍵が外れた。
鍵の軽さとは対照的に重いドアを開けると、中の空気が外に流れ出した。部屋の中で滞留していた空気が一斉に体すり抜けて行く。覚悟したが、期待したような気分が悪くなる臭いはしなかった。
靴脱ぎを見ると、見慣れない靴が置かれていた。俺は理解した。郵便受けにチラシさえ入ってなかったことや、空気が悪くなかったこと。それは誰かがこの部屋に忍び込んでいたからに他ならない。大家が俺は死んだと思って、他の人間に部屋を貸したのだろうか。
「お父さん?」
果たして出てきたのは、見覚えのない女の子だった。いや、この子は——。
「千佳か?」
どことなく、元妻に似ていた。派手な服を着て、髪の毛を茶色に脱色していた。よく見ると、うっすら化粧をしているようだ。派手好きなあの女に似ていた。
「わあ、お父さんだ」
千佳が俺に抱きついてくる。エンジェルを思い出した。
「お前、どうしてここに?」
「お母さんが教えてくれた」
「鍵は?」
「管理人のおじいさんが貸してくれたよ」
このぼろアパートは入り口に管理人がいる。管理人と言っても、平日の朝十時頃から十七時までしかおらず、玄関の掃除くらいしかしない老人だが。まだ彼女がここにいた時から管理している。覚えていたのだろう。
「お前大きくなったな」
「うん。百五十センチだよ」
俺は千佳を抱き上げる。重たくてよろけた。
「ちょっとお父さん。私、そんなに重くないよ」
千佳は怒った。
「でも何で、ここに?」
「お母さんがここで遊んでなさいって」
「どういうことだ?」
「新しい男が出来たのよ」
「お父さんは?」
「お父さんはお父さんでしょ?」
千佳が俺を指さす。
「いや、本当の……というか、今まで一緒に暮らしてたお父さん」
「そんなの、とっくの昔に出て行ったわよ。お母さんたら、一年中浮気ばっかりしてるんだから」
頭が痛くなった。あの女は、昔から尻軽だったが、ここに来てそれに磨きがかかったようだ。それで子供に出て行けというのだから始末が悪い。
「いつからここにいたんだ」
「昨日かなあ。お母さんがね、ここの住所が書いてあるメモを見付けたんだ」
彼女が見せたメモには、確かにここの住所が書かれていた。懐かしい字面だ。間違いなく、元妻の物だろう。色あせて、文字がかすれている。
「覚えてるか? お前も小さいときはここで暮らしてたんだぞ」
「覚えてるわけ無いよ。だって、一歳とか二歳の時でしょ」
俺にとってはほんの少し前なのに、彼女にとっては悠久の昔のようだ。親にとっての時間と、子供にとっての時間がこんなにも差があることに驚いた。
「お父さんはどこに行ってたの?」
「俺は……」
あそこでの生活は説明出来ない。
「ちょっと、仕事で出張……だよ」
千佳が訝しむような顔で俺を見る。
「その割に、私服だし荷物もないじゃん」
「こ、細かいことは良いだろう。お腹減ってないか?」
「減ってるー。お寿司食べたいー」
千佳は甲高い声を上げて、俺の腕にしがみついた。現金なところは、元妻に似ていた。この子はこの先も上手くやって行けるだろうなと思った。
外には出たものの、俺は外食は牛丼屋くらいしか行かないため、寿司屋がどこにあるのかわからない。国道沿いに出れば何かあるだろうと思い道を歩いていると、黒塗りのベンツが俺たちの横についた。
「よっ、あんちゃん」
滑らかに窓が開き、柊が顔を出した。
「柊さん!」
驚いて、思ったよりも大きな声を出してしまった。千佳が柊とベンツを見て「ヤクザ?」と言った。俺は慌てて彼女の口をふさいだが、柊は大笑いした。
「面白いね、お嬢ちゃん。そうだよ、俺はヤクザのおじちゃんだよ」
柊は一見して堅気の人間には見えないが、性格は愛嬌があり親しみやすい。
「あんちゃんは子供にもてるねえ」
柊がこちらを両手で指さして、茶化すように言う。
「いや、俺の娘です」
「えー、あんちゃん結婚してたの」
驚いて、俺と千佳の顔を見比べた。千佳も同じように、俺と柊の間で視線をさまよわせる。恐れと興味が拮抗しているのだろう。
「もう随分前に離婚しましたけどね」
「お父さんって、ヤクザなの?」
千佳が不安げに俺を見る。
「ち、違うよ」
「じゃあ、お金借りてるの?」
柊が大笑いした。
「あんちゃんの娘さんは面白いな。俺たち、これから飯食いに行くんだけど、一緒にどうだい」
柊がドアを開けた。高級そうな内装だった。千佳が喜んで車に乗り込む。俺が止めようとすると、逆に千佳が俺を車に引っ張り込んだ。座り心地の良い、革張りのシートが俺を優しく受け止めた。
「よし、お嬢ちゃん、何食べたい?」
「お寿司ー」
「いいねえ。おい、寿司屋だ」
運転手は小さく頷くと、車を発進させた。
「今日は何? そういう日なの?」
「そういう日?」
「ほら、離婚した後って、一ヶ月に一回とか会う日が決まってたりするじゃない」
「ああ、いや違います。たまたま、この子が遊びに来てて」
「そう。私も、お父さんに会ってみたかったし」
「えー、じゃあ久しぶりに会うんだ」
「ううん、お父さんのこと覚えてないくらいずっと前に離婚しちゃったから、私的には初めましてなの」
「へー、そりゃあ良かったね、あんちゃん」
俺なんかよりも、柊の方がよっぽどちゃんと会話出来るのが羨ましかった。柊の方が千佳と年が近いせいだと思い込んだ。俺は父親に向いていないのかも知れない。
寿司屋に着くと、あまりにも高級そうな店構えに、俺はたじろいだ。考えてみれば、彼らのような人間が来る店なのだから、これくらいの店はむしろ当然である。
「あの、柊さん俺……」
「だーいじょうぶ。料金はおじきが持ってくれるよ」
そう言って柊はウインクする。
店に入ると、厚化粧した派手な服の女が二人、こちらを向いて声を上げた。
「柊さーん。遅いー」
「ごめんねー。今、俺の友達が感動の再会しててさあ」
「何それうけるー」
その女たちは柊を待っていたらしい。柊はその女のテーブルについて、話を始めた。俺と千佳はカウンターに座った。
「今日は俺のおごりだから、ジャンジャン頼んでよ」
大声で柊が言った。女たちは甲高い声を上げて喜んだ。千佳も似たような喜び方をしたのが、俺にはちょっとショックだった。将来、あんな風にはなって欲しくなかった。
千佳は遠慮無しに高いネタばかり注文した。それをみて、また柊が笑った。
「いいねえ。お嬢ちゃん、器量も良いし度胸も良い。将来大物になるよ」
女二人が千佳をテーブル席に誘った。千佳はすぐに彼女らと打ち解けた。代わりに柊が隣に移動してくる。
「あんちゃん、仕事の方はどうだい」
千佳は派手な女たちに気に入られて、一緒にデザートを食べていた。柊は彼女たちを眺めながら酒を飲む。
「まあまあですね」
「困ったことがあったらすぐに言ってくれよ」
「はい、ありがとうございます」
彼なら信用できる。俺たちの仕事のことも知っている、数少ない人間だ。俺はあの動画のことを彼に相談してみようと思った。
話してみると、柊は先程までのおちゃらけた風では無く、真剣に話を聞いてくれた。
「ふうん。なるほどねえ」
柊が酒のおかわりを頼む。
「その野郎は、どうなのかねえ」
「どうって?」
「俺たちの障害になりそうかい?」
何と、彼までも事態を軽く見ているのか。それとも、俺が真剣になりすぎなのだろうか。
「いやね、あんちゃんのことを信じてないわけじゃないんだ。でも、今までもその類いのいたずらは結構あったんだよ」
彼はグラスを置き、手を組んでゆっくり言った。
「でもね、だからといって俺が出て行くというのは……それは、結構な事を構えるという意味なんだよ。わかるかな。俺みたいな本物が出て行くって言うのはさ、もうそれは、冗談では済まされないんだ。メンツとか、そういったこともあるしね。相手は冗談だったとしても、恐らく俺が出て行ったとなれば、彼はただでは済まないだろうね。それ相応の代償っていうのを払って貰わなくちゃ。そうでなければ、あんちゃんが責任を取ってくれるかい?」
柊は小指を折ってみせる。
彼がそう感じさせないので忘れていた。彼は堅気で無い組織の、幹部であるのだ。彼らは妥協しない。ただ、満たされることの無い腹が満たされるまで利を貪り続ける。それが食い尽くされるまで止まらないのだ。腹が満たされなかったら、こちらにも刃を向けることすらある危険な存在である。
「そういう意味で、高梨君は様子を見るって言ってるんじゃないかな」
俺が馬鹿だった。何も考えず突っ走っていた。まだ日が浅いとは言え、彼らには彼らのルールがあるのだ。豚も言っていた。彼らなりの法律があるということを。
「すみません。俺の考えが足りませんでした」
「良いんだよ。だってあんちゃん、こっちの世界に入ってきたばかりだろ。まだわかってなくて当たり前だよ」
彼は俺に日本酒を勧めてきた。一杯貰った。ほどよく温められた熱燗だった。今日は飲みたい気分だ。
俺は酒が強い方では無かった。勧められるままに飲んでいたら、あっという間に酔ってしまった。熱燗は酒の回りが早い。飲みやすい良い酒だったので、つい飲み過ぎてしまったようだ。普段の俺ならここで帰るだろうが、柊がこの後キャバクラに行くというので、ついて行ってしまった。
俺はこの時にもっとよく考えるべきだったのだ。そうすれば、千佳が死ぬことは無かったはずだ。
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