第18話





 アパートに戻ると、松本が不機嫌だった。柊に尋ねてみると、今日一度も勝てなかったそうだ。老人はいつもの飄々とした様子で、一升瓶から直に酒を飲みながら、危ない手つきで駒を弄んでいる。


「強いんですか?」


 柊に尋ねてみるが、彼は首をかしげた。


「俺は将棋の上手い下手なんてわかんないよ」


 確かに。俺も説明されてもわからないだろう。


 俺は眠ってしまったエンジェルを部屋まで抱えて行った。ベッドに寝かせると、彼女は小さな子供のように俺に絡みついて離れようとしない。無理矢理引きはがそうとすると、大声を上げた。


 困っていると、美々がやってきた。


「あんたはもう良いから」


 そう言うと、美々がベッドに入り込む。百合の世界を思わせる仲の良さだった。


 日付が変わる頃、エンジェルの部屋から叫び声が聞こえた。前回と同様、胸を引き裂くような悲痛な声だった。美々と松本は帰った後だった。老人は夜が早い。


 俺たちは酒を飲んでいた。疲れもあったし、少し眠くなってきた頃だった。高梨は「またか」という顔をして、豚はすぐに部屋に向かって走り出した。柊は表情を変えず、グラスを傾けた。


 俺が部屋に行こうとすると高梨が止めた。


「豚の生きがいを取ったら可哀想ですよ」


 生きがいとは何だと思ったが、前回、彼は暴れるエンジェルに踏まれていた。彼はそういう趣味があったのだと今さらながら気付いた。


 エンジェルの叫び声と、何かが壊れる音などが続いた。しばらくして、一定間隔で何かを打ち付ける音に変わった。


「そろそろかな」


 高梨が部屋に戻って何か持ってきた。クーラーボックスだった。


 エンジェルの部屋に入る、彼女は自分の頭を壁に打ち付けていた。俺は慌てて彼女を取り押さえる。


「おいやめろ」


 豚が俺の体を押さえた。


「どういうことだ。まずこの子を押さえろよ」


「良いんだ」


 エンジェルから引きはがされると、彼女は再び頭を打ち付け始めた。それが終わると、今度は厚手のナイフを手に取り、体中を刺し始めた。刺しながら、苦痛にもだえている。


「どうしてこんな……」


 豚に押さえられ、俺は彼女を助けられなかった。いや、俺は途中から目をそらしていた。


 彼女は腕を刺し、足を刺し、胸を、腹を刺した。腹から腸が垂れた。それと一緒に内臓も落ちる。それでも彼女は自らを刺すのをやめなかった。胸を深く刺し、肺が傷つけられたのだろう。呼吸が出来なくなり、やがて動かなくなった。最後はナイフが肋骨に当たり折れてしまっていた。


 豚たちはそれを見ると、いつの間にか回していたカメラを置き、彼女の内臓を体の中に納めた。高梨がクーラーボックスから取り出したのは、輸血パックだった。


 少しすると、エンジェルの体に変化が現れた。最初、変化はよくわからなかった。何かが傷口の周りで動いているような感じだった。よく目をこらしてみると、破れた皮膚の先端が盛り上がり、まるで映像を逆回ししているみたいに再生して行く。


 死なない才能、というのは比喩であることを理解した。彼女は死んでいるのだ。それを、無理矢理冥界から引き戻すように、体を再生して魂を呼び戻しているのだ。


 俺の体もあんな風に?


 考えるだけでゾッとした。記憶が欠落したり途切れたりしていたのは、このせいだったのだ。再生はするが、もとの部分はどこかへ吹き飛んでしまっているのだ。


 では、記憶がよみがえったのは何故だ。


 そもそも記憶とは何なのだ。


 細胞記憶という言葉がある。エピジェネティクスとも呼ばれるものだ。これは、細胞の中に含まれるDNAに記憶や行動のパターンが蓄積され、分裂する際にも引き継がれるとされる。心臓移植をすると、元の持ち主の人格が、移植先の人間に移るというのは有名な話だ。では、記憶とは何も脳髄の中にあるだけではないのではないだろうか。人格が経験によって積み重ねられたものだとすれば、その元になる記憶もまた、細胞の一つ一つに蓄積されるのではないか。


 彼女の体は徐々につながり始め、血の汚れだけが残った。体が修復されると、高梨が点滴の針を彼女の腕に刺した。


 これはまさに奇跡だ。本当に、現実に目の当たりにしたら、高梨のように畏怖してひざまずくのもわかる気がする。


 しかし、これは本当に、生き返っていると言えるのか。死ぬ前と後では同じ人間なのか。


 では、人格とは何だ。


 では、命とは何だ。


 では、生きるとは何だ。


 では、死ぬとは何だ。


 死は肉体の終わりを意味する。では、一度肉体が終わったものは、死に続けているのか。生き返ったものは、新たに生まれているのか。いや、俺は生きている。生き返る前と後で、同じ俺のはずだ。胸に手を当ててみる。鼓動が伝わってきた。


 では、俺は何者だ。本当に、同じ俺か? 一秒前の俺と、今の俺は同じ俺か? 死ぬ前と後では?


 わからない。こんなこと許されるのだろうか。急に恐怖が襲ってきた。自分の体を、自分で抱きしめる。体が震えた。


 血が体を巡り始めると、彼女の肌に色が戻った。


「しばらくすれば起きるでしょう」


 高梨は部屋を出ていった。豚はいつの間にか、再びカメラを回していた。悪趣味な男だ。また、これをウエブサイトにアップロードするのだろう。


 血塗れの顔や体を、タオルで拭いてやった。彼女のぼろぼろになってしまった服の代わりに、クローゼットの中から寝間着を取りだして着せた。豚が非難がましい視線を送ってきたが、むしろこれは当然の行為だと思った。彼女がぼろぼろにしてしまったのは、美々が持ってきてくれた服なのだ。目が覚めてあの状態だったら、彼女は哀しむに違いない。彼女の哀しむ顔は見たくなかった。


 豚はカメラを閉じ、部屋から出て行った。


 エンジェルは目覚めない。血が落ちなくて固まってしまった髪の毛を撫でる。先程まであんなに嬉しそうにはしゃいでいたのに、何が彼女をここまで追い詰めるのだろうか。


 唇が震えた。何か言おうとしているかと思って耳を近づけたが、そうではなかった。浅いが自発呼吸が始まったのだ。


 再生にはもっと時間がかかるかと思ったが、あっという間だった。そのはずだ。時間が経てば経つほど、細胞は死んで行く。速く再生しないと元通りに修復することなど不可能なはずだ。


 彼女の寝顔を見ているうちに、自分も眠かったのだと言うことを思いだした。思い出したときにはもう、俺は夢の中にいた。




 夢の中で、俺は「お父さん」と呼ばれていた。誰の声だろう。


 千佳?


 声のする方を振り返ると、長い黒髪の女の子が立っていた。千佳ではないようだ。彼女は一体誰だろう——。


 息苦しさを覚えて、俺は目を覚ました。目の間が真っ暗だと思ったら、エンジェルの顔だった。彼女が俺の唇をふさいでいた。


 俺は慌てて起き上がった。ベッドに突っ伏して眠っていたらしい。首や肩が痛い。


「目が覚めた?」


 エンジェルは微笑んだ。


「これ、着せてくれたの?」


 寝間着を見て言った。俺は頷く。彼女は俺に飛びついた。


「好き」


 彼女が呟く。


「こっちにきて」


 俺は体の痛みに耐えかね、誘われるようにベッドの中に入った。彼女のベッドは一人で寝るには大きいサイズだった。キングサイズとかクイーンサイズと呼ばれているものだ。寝心地も良く、俺は再び夢の世界に誘われようとしていた。


 しかし、下半身に違和感を覚え布団をめくってみると、いつの間にか全裸になった彼女が俺のズボンを脱がそうとしていた。


「何してる」


「もう我慢できないの」


 慌てて起き上がったが、彼女は強い力で俺を押し留めた。ズボンを脱がされ、下着のスリットから竿を取り出す。早業だった。


 彼女の柔らかい手は、俺の抵抗を無力化した。情けないことに、怒張してしまった自身を握り、彼女は笑みを漏らす。子供のくせに妖艶な顔が出来るじゃないか。


 彼女が俺の上にまたがった。入り口をこすり、快感を高めている。小ぶりな胸が、目の前にあった。掌にすっぽりと覆い隠れてしまう程度の大きさしかない。天蓋があるせいで内側は暗いが、彼女の哀しくなるくらいやせ細った体はよく見えた。体中の傷跡が、今でも治らずに残っている。再生の時に、自殺の傷は元通りに戻るはずだ。ではこれは、その才能が出来る前のものなのだろうか。それとも、死ななければ傷は再生しないのか。どちらにしろ、色気は全く感じない体だった。それなのに——。


 彼女はそのまま前に倒れ込み、俺の口を吸った。


「生き返ると、何もかもリセットされたみたいにすっきりするでしょ? そしたら、欲望が沸いてくる」


 彼女の口は積極的に俺を責める。俺は怒張を治めるのに夢中で、抵抗できないでいた。この手の誘惑には慣れていない。


 結局怒張の治まらないままに、彼女は再び体を起こした。手でしっかり掴み、入り口に当てると腰を下ろそうとする。


 エンジェルなのに、悪魔の笑みに見えた。ここで一線を越えてしまったら、俺は二度と戻ってこられない気がした。しかし、男の本能には勝てない。これで良いような気がして目をつぶってしまった。


「お父さん」


 夢の中の子供の顔が瞼の裏に浮かんだ。


 すんでの所で彼女を押し戻す。無理矢理、理性を引き戻して貰った。夢の子供に感謝だ。


 彼女を押し戻した反動でマウントポジションを取った。


「これ以上はいけない」


 端から見たら、俺が彼女を襲っているように見えるだろう。


「つまんない」


 彼女ははばからず、自分自身で慰め始めた。漏れ出す吐息が熱い。


 俺はベッドから這い出て、みっともなく反り返ったそれを何とか下着に納めると、部屋から出た。エンジェルは俺に目をくれずにふけっていた。

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