第17話

 突然のことに驚いて、俺はドアに頭をぶつけてしまった。


「ど、どうして?」


「だって、ほら」


 エンジェルが外を指さした。今、俺たちが乗っている箱は一番高いところにいた。ここなら下から見られづらい。


「一番てっぺんでキスすると良いって」


 エンジェルが俺をまっすぐに見据える。箱自体が小さいので、腰をかがめているせいで俺とエンジェルの視線は同じくらいだった。もう一度、彼女はキスしようとした。俺は慌てて逃げた。先程、娘のようだと思ったばかりだ。


 エンジェルは不満そうに頬を膨らませた。


「誰がそんなこと」


「雑誌に書いてあった」


 鞄の中から取りだしてきたのは、十代の女の子向けのファッション雑誌だった。エンジェルがそんな雑誌を読むというのが、俺にはショックだった。しかし、彼女も年頃の女の子だ。読んでいても不思議ではないが——年頃の娘を持つ父親の心境だった。


 エンジェルが広げたページは、まさにこの遊園地の特集だった。恥ずかしそうに広げてみせる彼女は、普通の女の子に見えた。仕事のことが夢だったら良いのに。心の底からそう思った。


 観覧車は終点に到着した。係員が扉を開ける。


「駄目」


 俺が席を立つと、エンジェルが袖を引っ張った。


「どうした」


 何も言わない彼女に、係員は慣れた様子で再び扉を閉めた。


「ちょっと……」


 こちらに向かって頷いてくる。一体どういうことだ。開けてくれと扉を示したが、何を勘違いしたのか、彼はこちらに向かって親指を立てた。すでに上昇し始めたので、もう外に出ることは出来なかった。豚と美々が何か言い合いながら降りてきて、俺たちが再び上がって行くのを見てまた何か叫んだ。騒がしい二人だ。お似合いなのではないかと思う。


「どういうことなんだ」


 まるで父親のようだな、と言ってから思った。


「まだ、乗りたかったから」


「そうか」


 先程よりも、ゆっくり上がっているように思えた。眼下に見下ろすのは、ビルばかりだった。近くに球場が見える。今日も試合があるのだろうか。球場の前を人がたくさん歩いていた。


「良い景色だな」


 エンジェルは返事をしない。彼女が望むものはわかっている。しかし、俺には与えられないのだ。この空気を払拭するために、何か話題は無いかと考えを巡らせた。俺はこういうとき、機転が利かない男だ。昔から女にモテなかった。


「エンジェルはどこで生まれたの?」


 エンジェルが顔を上げた。箱の外を眺めるように、遠い目をして答えた。


「ここの近く、かな」


「ここら辺の子なんだ。じゃあご両親は近くに住んでるのか」


 言ってから、しまったと思った。あんな場所にいる、ということは何か家庭に問題があるということではないか。


「お父さんは知らない。産まれたときからいなかった。お母さんは死んだ」


 まるで他人事のように答える。


「じゃあ……」


 見ると、エンジェルは涙ぐんでいた。


「すまん」


 謝ると、エンジェルは首を振った。


「あたし、子供じゃない」


「どういう意味だ」


 彼女が何を意図しているかわからなかった。


「何で、子供扱いするの」


「俺からしたら、子供みたいなものだ」


「違う」


 エンジェルが抱きついてきた。


「やめろ」


「やめない」


 エンジェルの力は強かった。無理矢理引きはがすと、彼女は叫んだ。


「ここから飛び降りるよ」


 エンジェルがドアを殴る。冗談では済まないほどの力で殴るので、箱が揺れた。俺は慌てて彼女を取り押さえる。上の箱から人が覗いている。


「やめろ」


「じゃあ、子供扱いしない?」


「わかった」


 俺は彼女の肩を抱いて椅子に座らせた。彼女は俺の隣に座った。俺の膝に手を置く。俺は迷ったが、彼女の手に自分の手を重ねた。いつも冷たい彼女の手が温かくなって行くのを感じる。


 観覧車はゆっくり動き続ける。


 こんな気持ちは何年ぶりだろうか。いや、何十年ぶりなのか。俺は異性から好意を持たれることは少なかった。こういうとき、どうして良いかわからない。自分の子供とだって、こうして遊びに行ったことは無いのに。


 観覧車はてっぺんへ近付いてきた。それにつれて、エンジェルが俺の手を握る力も増してくる。


「痛い」


 俺が言うと力は弱まった。エンジェルが俺の目をまっすぐに見据える。潤んだ瞳が、彼女の女性らしさを匂わせた。しかし、どうしても彼女を女として見ることが出来なかった。


 エンジェルがソッと俺に顔を近づける。数秒、唇が重なる。彼女の熱い吐息で、火傷しそうだ。強く抱きしめる振りをして、俺は唇を離した。甘い香水の香り。細すぎる体も熱を帯びている。


 残りの道のりが四分の一くらいになるまで、そうしていた。終わりが近付くと、彼女の方から離れて、髪の毛や服のしわを直した。


「グロス」


 彼女はハンカチで俺の唇を拭いた。彼女のリップグロスが俺の唇に移ってしまっていたのだ。拭き取ると、彼女は俺に向かって満面の笑みを見せた。顔が紅潮して行くのがわかる。不覚にも、可愛いと思ってしまった。


 終着点につくと、係員が満面の笑みで迎えてくれた。その後ろにいる二人は鬼のような形相だった。




 昼食の間もずっと、エンジェルは機嫌がよかった。


 エンジェルと豚がトイレに言っている間、美々が俺の方を見てきつい口調で言った。


「あんた、何した?」


 またか、と思って「何が」と聞き返した。


「とぼけんなよ。あの子、目元の化粧がよれてる。泣かしたろ」


 女って奴は、そんな細かいところまで良く気付くもんだと感心した。


「目にゴミでも入ったんだろ」


「ふざけんなよ」


 美々が俺の襟を締め上げた。


「やめろよ。せっかく楽しい遊園地に来てるんだろ」


「あんたが笑えなくしてるんだろ」


「エンジェルが泣くぞ」


 後ろを指さしてやる。慌てて俺を放した。


 騙されたことに気付いた美々は、再び俺の襟を締め上げようとした。


「おいおい、今度こそ戻って来てるぞ」


「その手には……」


 俺が手を振ると、美々も釣られて振り返った。エンジェルが満面の笑みで手を振り返す。美々が慌てて、引きつった笑顔を作った。


「引きつってるぞ」


「うるせえ」


 美々が俺の足を思い切り踏んづけた。ヒールのある靴だったので、骨が折れるかと思った。


「エンジェルに何かしたら、殺すからな」


「はいはい」


 殺せるものなら、と続けようと思ったがやめた。俺は今でも自殺志願者なのだろうか。それとも——。




 午後いっぱいまで、エンジェルは乗り物に乗っていた。良く、飽きもせず同じ乗り物に何度も乗れるものだ。俺は下から彼女を見上げて、三杯目のコーヒーに口を付けた。豚は退屈して車に戻っていた。今頃夢の中だろう。


 夕食はジャンクフードのチェーン店に入った。エンジェルはジャンクフードが好きだった。


 帰りの車の中ではエンジェルはすぐに眠ってしまった。


「こうしてると、本当に子供だな」


 彼女の寝顔を見て俺が言った。


「本当なら、まだ中学生だもんね」


 美々もエンジェルの寝顔を見て微笑む。


「え! エンジェルはいくつなんだ?」


 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。美々が俺を睨み上げる。俺は慌てて自分の口を押さえる仕草をし、目の前で手刀を切った。


「十五歳」


 また素っ頓狂な声を上げてしまった。美々が俺殴る。加減しないので骨が折れるかと思った。


「十五歳……」


「あんた、この子の体見たことある?」


 裸で一緒に寝ていたことを思い出す。一緒に風呂に入ったこともあった。


「いや、ないな」


 本当のことは言えない。よく見たことがあるなんて言ったら、殺されかねない。美々が疑いの目を向けるが、俺は白を切り通した。


「まあ、良いけど。この子、体に結構傷があるんだよね。何があったのかは絶対言わない。何であんなところにいるのかも。おじいちゃんも教えてくれないし。言いたくないならいんだ。言いたくなるまで待ってやるさ。でもね、何か力になってやりたいんだよ、あたしは」


 美々が唇を噛んだ。


「一体何だって、こんな子供の体が、あんな傷だらけになることがあるんだよ」


 美々はエンジェルの自殺のことを知っているのだろうか。


「そうだな……」


 空はもう夜の帳に包まれていた。

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