第16話









「遊園地に行きたい」


 エンジェルが言うので、連れて行くことになった。高梨はどうしても行けない用事があるという。彼はいつも忙しいと言って参加しない割に、忙しくしているところを見たことがない。


「あいつは引きこもりなんだよ」


 皆の朝食が終わった頃、豚が出てきて言った。高梨は部屋に戻って行き、エンジェルは出かける準備している。老人は一升瓶を抱え、松本に貰った将棋の駒を並べて遊んでいた。


 豚は冷めた食事を、本物の豚のように掻き込んだ。あれで味がわかるのだろうか。


 誰かが玄関から入ってきた。美々だった。大きな紙袋を両手に一つずつ持っていた。後ろに柊もいる。


「よっ、あんちゃん」


「エンジェルは?」


 俺を見付けた途端、美々の眉間にしわが寄る。あれ以来、美々は俺を敵対視している。


「まだ準備してる」


 答えると、美々は俺を無視するようにエンジェルの部屋の方へ向かった。


「景気はどうだい?」


 柊が俺の横に座った。香水だろうか。爽やかな香りがした。同時に豚が席を離れる。


「豚ちゃんよ。なにもそんなに避けなくても良いじゃない」


 豚は無視して部屋に戻った。柊のことが苦手らしい。俺もどちらかというと、見た目からヤクザである柊が得意な方ではない。しかし、彼の見た目からは考えられない位フレンドリーなところを嫌いになれない。


「こっちはボチボチですね」


「この前はほどよく暴れたってねえ。あちらさんとは、ちょっとだけやりあっちゃったけど、まあうまく手打ちになったよ」


 柊が俺の肩を強く叩く。


「ごくろうさん」


「柊さんは、なんで美々と一緒に?」


「え? ああ……それより、豚ちゃんはどうよ」


「どうって?」


「元気にやってる?」


「はい」


「そっかあ。それでこそ、俺がここに連れてきてやったってもんよ」


「え、柊さんが連れてきたんですか?」


「そうだよー。あいつから聞かされてない?」


 そういえば、俺は彼らがここにいるいきさつを、よく知らない。高梨は逃げてきて拾われたと言っていたが、松本に拾われたのだろうか。


「何も」


「薄情な奴だなあ。あいつはさ、元々債務者なんだよ」


「借金ってことですか?」


「そ。闇金ー」


 柊は両手を挙げて、まるで子供を脅かすように言った。


「まあ結局、利息だけが膨らんでって……ポン」


 手で弾けるジェスチャをする。


「それで、俺がここに紹介してやったってわけ。もうすぐ完済するんじゃないかな」


「そうなんですか」


「そうよー。あいつは運が良いよ。他のどうしようもない奴らは、まあ闇から闇へと消えて貰ってるからね」


「闇から……はあ」


 柊は笑っているが、聞いている方としては笑えない事情だ。


「あいつはさ、若い頃の松本のおじきに似てるんだよ」


「松本さんも、あんなに太ってたんですか?」


 柊が笑う。


「違う違う。何て言うかな、尖った感じがね。若い頃っつっても、俺がおじきと知り合ったときはもうおっさんだったけどね。まあ、あんちゃんくらいのときかな。俺の年は秘密だよ」


 笑おうと思ったが引きつってしまった。柊がウインクする。


「だからね、放っておけなかったんだな。こう見えて、あいつのこと、結構買ってるんだぜ」


 エンジェルたちが部屋から出てきた。女の子特有の、甲高い声が耳に障る。美々はやんちゃそうに見えて、普通の女の子みたいだと思った。美々がエンジェルに可愛い可愛いと連呼している。


 出てきたエンジェルを見て驚いた。


「ふわっふ〜」


 柊が茶化すように声を上げる。それほどエンジェルは変わっていた。まず、彼女が化粧をしているところを、俺は見たことがなかった。美々と似た、少し濃い化粧だ。もう少し薄くしても良いのではないかと思ったが、若い女の子の流行はわからない。これくらいが丁度良いのかも知れない。服も今まで見たことがないような、女の子らしい服装だった。これまで、彼女は動きやすいジャージやジーンズにTシャツばかりだったが、軽そうな淡いピンクのワンピースがよく似合っていた。髪の毛も緩く巻かれている。まるで小さい子供がピアノの発表会に出るみたいだ、と思って面白かった。


「何で笑う」


 エンジェルが俺に近付いてきた。


「笑ってないよ」


 言ってから気がついた。無意識のうちに、顔が笑っていたらしい。エンジェルが俺の頬をつねる。エンジェルから甘い香りがした。美々と同じ香水だ。


「可愛いよ」


 エンジェルは照れたようにうつむき、俺を蹴る。ヒールの高い靴だったので、非常に痛い。蹴った方のエンジェルもよろけた。履き慣れないヒールに戸惑っているようだ。


 出かけようとしたとき、高梨に呼び止められた。


「今月の分です」


 そう言って、彼は銀行の封筒を差し出した。厚みがある。覗いてみると、俺がサラリーマン時代に貰ったボーナス一回分よりも多い額が入っていた。


「これ……」


「もう一ヶ月になりますね」


 高梨が遠くを見るような目で、エンジェルたちの後ろ姿を見た。


「こうやって、みんなで平和にやって行きたいものですね。ここにいると、もう外へは出られなくなるでしょう?」


 高梨は笑って見せた。どういう意図で言っているのか、わからなかった。俺は封筒をポケットにしまった。


 外に出ると、黒塗りのベンツが待っていた。ベンツといっても七人乗りの大型タイプだ。


 後部座席が開き、松本が降りてくる。


「何故……」


 俺が呟くと、美々が彼の横に並んだ。


「おじいちゃん」


 驚いた。言われてみれば、掃除の仕事は美々が持ってきたものだった。しかし、極道の娘とは……。


「エンジェルちゃん。こんにちは。今日はまた一段と可愛いねえ」


 松本が好々爺然とした表情でエンジェルを抱き上げる。毎回これをやっているかと思うと、可笑しくもある。


 松本も一緒に行くのかと思ったが、そうではなかった。柊が車から将棋盤を持って出てくる。彼は老人と将棋を指すために来たのだ。


「楽しんでおいで」


 松本と柊に見送られながら、俺たちは出発した。




 遊園地に着く前から、エンジェルははしゃいでいた。格好はずっと大人びて見えるのに、いつも通りの彼女であることが微笑ましい。自分の娘を見ているような気分だった。一瞬、千佳の顔がよぎる。彼女もこうやって、遊園地に連れて行って貰っているだろうか。


 車を駐車すると一番に飛び出したのは、やはりエンジェルだった。俺たちは慌てて彼女を追いかけた。チケットを買っている間も、彼女は俺の周りを走り回っていた。


 彼女は絶叫系の乗り物ばかりを好んだ。さすがにおっさんの俺にはつらい。豚も体格的にきつそうだ。ほとんどの乗り物は、エンジェルと美々で乗っていた。俺たちは下から彼女たちを見上げる。それでも、ちっとも退屈ではなかった。エンジェルが喜べば、俺も嬉しかった。たまに彼女はこちらを見て手を振った。俺も振り返した。


「おめえはよ、良いよなあ」


 エンジェルが三度目のジェットコースターに乗っているとき、豚が呟くように言った。


「才能もあってよ、エンジェルに好かれてよ。別に暗い過去があって、今あそこにいるわけじゃないんだよな」


 ため息交じりに言う彼に、俺は反論した。


「何もなかったわけじゃない。俺だって、一度は死を決意した」


 あのときの、絶望は忘れたわけではない。自分が世界で一番不幸だと確信していた。今思うと、そんなことはなかった。少女なのに人殺しをさせられたり、死体の解剖をさせられたり、何度も自殺してその映像を使ったウエブサイトを作られている女の子だって、この世にいるのだ。子供が自分の子ではなく、仕事も家庭も失っただけの四十過ぎの男なんて、きっと世の中には想像しているよりもたくさんいるだろう。


「じゃあ死ねよ。今すぐ死ねよ」


 豚は今にも俺に掴みかかってきそうだった。


「俺だって死ねるものなら……」


 いや、違う。最近では、死にたいと思わなくなっていた。思う暇もなく、次から次へと非日常がやってくるせいだ。


 それに——。


 エンジェルを見上げた。彼女は俺の視線に気付いたのか、こちらを見て手を振った。


「今はまだ死ねない」


「けっ、何だよ馬鹿野郎」


 豚が地面につばを吐く。


 ジェットコースターが発進地点に戻ってきた。エンジェルはもう一度乗るようだ。俺は手を振り返す。


「俺はよお、お前と違ってもっとどん底のどん底のどん底からあそこに流れ着いたんだ」


 豚は俯いたまま語り続ける。柊の言っていた借金の事だろうか。


「借金してよお。最後はいくらになったか自分でもわかんねえ。一千万か二千万か。もっといってたかもな。最初はよお。三万、五万、それくらいだったのによお。それがよお、柊のクソ野郎が取り立てに来る度に借金の額が上がってんだよ。闇金だってのはわかってたけど、もう二度と返せないと思ったぜ」


「自己破産でもすれば良かっただろう」


「馬鹿野郎。自己破産なんてして、あいつらが黙って引き下がってくれると思ってんのか」


「法的には……」


「法律なんて、あいつらには関係ねえ。あいつらには、あいつらなりの法律があんだよ。お前が知ってるようなチンケなもんじゃなくてよお。もっとずっと業が深い法律がよ。それでもう駄目だってなったときに、あの仕事を紹介されたんだよ。死体を解剖したり、どっかの誰かを殺したり、中身のわかんねえもんを運ばされたりな。地獄が、別の地獄になっただけだ」


 柊の話を聞いた限り、今は地獄では無く、少なくとも地上に近いところにいるように思えるが、彼にとっては今も地獄であることは変わらないのだろうか。


「そもそも何で、借金なんてしたんだ」


「お前は阿呆か。男が借金する理由なんて、女とギャンブル以外にあるか?」


 いくらでもあるだろう。


「風俗嬢でよお、ふうかちゃんっていう可愛い子がいてよお。風俗嬢って言っても純粋なんだよ。その日の一番最初は、今日はまだ処女よ、なんて言うんだぜ」


 気持ち悪い笑い声を立て、豚は笑った。典型的な、女に騙されるタイプだ。彼が哀れに思えてきた。


 豚は聞いてもいないのに、その風俗嬢の話を詳細に語り始めた。今でも通っているという。


 俺はその手の話には興味がなかった。先程の話の続きを促した。


「最初から、エンジェルと組んでいたのか?」


「あぁ?」


 風俗嬢との店外デートについて語っていた所を中断してせいで、彼は仏頂面になったが、話は元に戻った。


「エンジェルは最初からいた。あんなガキが、何やらかしたんだって最初は思ったよ。最初は俺も高梨も嫌われてたよ。あいつは男が嫌いだったらしい。何があったのか知らねえけどな。今でも、あの子が安心して触れられるのはてめえだけだろうな。俺には殴ったり蹴ったりすることはあっても、手をつないだりはしねえよ。ましてや、一緒の布団に寝たりなんて有り得ねえ」


 豚が憎しみのこもった目で俺を見上げる。


「それでも良かった。高梨は途中参加だったな。あいつは引きこもりでよ。親を殺しちまったらしいんだわ。そんで、あいつは殺人の隠蔽を組に頼んだ。今はヤクザもインターネットで色々、網張ってるんだよ。あいつは見事にそれに引っかかっちまったってわけだ。まあ、あいつはあの仕事向いてるみたいだから、結果オーライってこったな。俺はよくわかんねえけど、パソコンでカチャカチャやって、組の役に立ってるらしい。アフィリなんちゃらってのも、あいつの提案で、結構な収入になってるらしいしな」


 豚は徐々に饒舌になってきた。人の不幸は蜜の味と言うが、彼はそれを地で行っている。他人の不幸話をして、自分を奮い立たせているようにも見えた。柊がアパートに来てからずっと不機嫌だったが、彼から取り立てを受けていたからだったのだ。今でも、借金は残っているのだろうか。その憂さ晴らしのつもりだろう。


「あそこに来て結構経ってるけど、まだあいつはアパートの外には出られねえみてえだな。引きこもりっつーのは良くわかんねえな。あんなぼろい所よりも、綺麗なねーちゃんがいっぱいいるところの方が良いだろうが」


 人それぞれだろうと思ったが、それは同意も否定もしなかった。


「あいつも俺も、結局は弱い人間だ。でもエンジェルは別格だ。あの子は俺たちとは違う世界に生きてる。どんだけの事があったか知らねえ。だけど、俺には想像も付かないほど辛い目にあって来たんだろうな」


 彼にしては珍しく、柔らかい物言いだった。慈愛さえ感じる。


 俺は頷く。彼は少なくとも俺よりエンジェルと長くいる。その彼が言うのだから、そうなのだろう。


「今でも、柊さんを恨んでるのか」


「柊さんだと? あんな奴、クソ野郎で十分だ。これでわかったろ。いつか、復讐してやる。もうすぐ借金が終わるからお礼参りしてやっても良い」


 舌舐めずりをして笑った。俺は柊がどれだけ彼のことを考えてやっているか、説明してやろうと思ったがやめた。俺みたいな外野が言っても意味が無いからだ。


 ジェットコースターが終わり、満足そうな顔のエンジェルが歩いてきた。反対に、美々はもう、足腰がガクガクになっている。まだ何か乗ろうとしていたので、俺はちょっと早い休憩を提案した。エンジェルは不満げな表情だった。


「あたしなら大丈夫だよ。次行こう」


 美々は意地を張っているように見えた。彼女はもう、数メートル歩くだけでも足が震えているというのに、手を貸そうとした俺を、まるで親の敵のような目で睨んだ。俺も嫌われたものだ。


 それでも俺は、彼女のために体に負担のかからないものを選んだ。


 俺たちは観覧車に乗っていた。絶叫系の乗り物が好きなエンジェルが難色を示すかと思いきや、思いの外乗り気だった。四人で乗っても良かった。しかし、二人ずつ乗ろうと提案したのはエンジェルだった。ずっと俺が見ているだけだったのが気に入らなかったようだ。俺と一緒に乗り物に乗りたかったらしい。


 美々は豚と一緒に観覧車に乗ることを拒んだ。しかし、エンジェルが困った顔をするので、渋々彼とペアを組んだ。このときも、やはり美々は俺を睨んだ。耐えきれなくなって、彼女の方を見るのをやめた。


 観覧車はゆっくり上がって行った。エンジェルがはしゃいで観覧車が揺れた。彼女をたしなめようと、俺は彼女の腕を押さえた。そのとき、不意にエンジェルが俺にキスをした。

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