第15話
エンジェルの雰囲気が変わった。先程の白バイ隊員を殺してからだ。まるで野生動物が狩りをしているときのように殺気立っている。
目的地に着いたらしい。豚がカメラを構えて車を降りた。エンジェルは降りる前にカツラを被った。繁華街の中心部だった。煌びやかな照明で照らされた表通りから少し入っただけで、路地は真っ暗だった。薄汚れたオンボロなビルも、表通りとの対比でまるで地獄の門のように見える。豚がドアをノックする。ビルの名前も表札も何も無い。一体ここは何のビルなのだろうか。
ドアが開いて、強面の男が出てくる。豚が彼にエンジェルを見せて何か囁くように言うと、彼はじっくりとエンジェルを舐め回すように見て、体を触った。エンジェルは体を震わせ、一歩下がる。豚がそれを押し留めた。彼はそれ以上エンジェルをチェックしなかった。
強面の男は今度は豚の体をチェックし始めた。ビデオカメラを見ると、豚は「面接の時に見せたい映像がある」と言った。しかしそれは録画状態のままであることに、男は気付いていなかった。強面の男は次に俺に視線を移した。
「もたもたしてねえで早く来い」
乱暴に男の前に差し出されると、彼は俺もボディチェックし始めた。そして、頷くと俺たちをドアの内側へ案内した。
ドアの内側は、ビルの外観からは想像も出来ないほど煌びやかだった。厚い絨毯が敷いてあり、間接照明のみの廊下は暗い。照明も高そうなアンティーク調のもので、中は微かに甘いような何とも言えない香りが漂っていた。薄く音楽がかかっている。
受付のようなところを通ると、その先は再び廊下だったが、先程と違うのは、左手の壁一面がガラス張りになっており、中にほぼ全裸の女性が何人も座っていたことだった。恐らく、これはマジックミラーになっているのだろう。女性たちは皆、こちらを向いてはいたが、思い思いの暇つぶしに興じていた。あるものは煙草を吸い、あるものは雑誌を読んでいる。全員が一流のモデルかアイドルのように綺麗だった。その中を見て水槽だと思った。幼い頃飼っていた金魚を思い出す。あの金魚はどうしただろう。いつの間にか、水槽の中には水草だけになっていた。
そのエリアも通り過ぎると、その先は左右に等間隔に扉が有り、全て個室のようだった。ここまで来れば俺でも想像はつく。ここは売春クラブだろう。ただ、普通の風俗店とは違い、ここは限られた客を相手にするところのようだ。
「エンジェルをここで……?」
「喋るな」
ここに来た理由を尋ねたかったが、豚は慌てて俺の口を押さえた。
エレベータがあったが、俺たちは階段を上って行く。俺は一番後ろを歩いていたのだが、エンジェルはそっとカツラの中から銃を取りだし、どこからか取り出したサイレンサを取り付ける。そして、それを服の中に隠した。五階まで昇ると、ようやく扉の前に立った。強面の男がノックする。中から低い声が聞こえた。
部屋の中はシンプルな作りだった。長机とソファセット、それに大きな金庫だけが置かれていた。
声の主はまだ若いように見えた。三十代前半だろうか、ひげと眉毛が濃く、太い指にはいくつも指輪がはめられていた。強面の男は彼をボスと呼んだ。
「飛び入りで面接だって? 勇気あるじゃねえか」
そう言ってエンジェルに触れようとする。エンジェルはやはり嫌がる表情を見せ、一歩引いたが豚が押し留めた。ボスは気にせずエンジェルの体を撫で回す。顔を撫で、口の中を見て、胸に手をかけた。服の下に手が移動する。エンジェルは俺を振り返る。止めたかったが、豚がこちらを睨んでいた。
これのどこが仕事だ。俺は拳を握りしめた。
ボスの手が、エンジェルの下腹部に滑り込む。エンジェルは小さく悲鳴を上げた。
「これくらいで良いでしょう」
俺はもう我慢が出来なかった。二人の間に割って入ると、ボスが露骨に不機嫌な顔をした。
「なんだ貴様。そっちから来て置いて文句でもあるのか」
威圧的に俺を見下ろす。後ろで豚が舌打ちした。
「おい、教育がなってないぞ」
豚を睨み付け、ボスが言った。豚は取り繕うような笑顔を見せ、俺の足を蹴った。耳元で「謝れ」と囁く。しかし、俺が何もしないでいると、豚は俺を無理矢理跪かせた。
ボスはようやく機嫌を取り戻し、大声で笑う。
「社会の仕組みを良く知ると良い」
俺の頭につばを吐きかけ、靴でそれを踏みつけた。そして、思い立ったように懐から銃を取り出して俺に突きつける。
その瞬間、エンジェルは銃を取り出し、ボスに突きつけた。強面の男も懐から銃を抜く。しかし、エンジェルがボスに蹴りを入れるのと同時に強面の男を撃った。サイレンサをつけていても、結構音はするものだ。彼は崩れ落ち、床に血の跡が広がる。先程の白バイ隊員の時を思い出した。何故、先程銃を持っていたことを不思議に思わなかったのだろう。今回の仕事内容もちゃんと聞いておけば良かった。
一瞬で、状況は一変した。
「てめえら……ウチのバックがどこの組だかわかってるのか」
ボスが凄んだ。銃を見ても怖じ気付かない彼は、やはり裏の人間なのだろう。彼の銃はエンジェルに蹴られて床に転がっていた。ボスはそれを横目で確認する。
「そっちこそ、誰のシマでこんなことしてやがる」
先程までのへりくだった表情をやめて、豚が言う。ボスは驚いた顔を向け、そして合点したように息を吐きながら机に手をついた。エンジェルは微動だにせず、ぴたりと彼の頭に照準を合わせている。
「松本のところの使いっ走りか」
ボスは葉巻をかじると、火をつけた。味わうように吸い込むと、鼻から吐き出す。この落ち着きようが、不気味だった。
「思ったより早かったな」
葉巻の火を消す。勿体ないな、と思った。
「お前たち、ここから生きて出られると思ってるのか?」
彼はまだ余裕の様子だ。
「ここでやめるなら、見逃してやっても良い。大事な部下を失ってしまったが、これで手打ちにしようじゃないか。俺たちはすぐにここを出て行く。お前たちも無事にここから出られる。悪くない条件だと思うけどな」
「ふざけんな。お前は俺たちと来い。それで俺たちは無事に出て行く。選択肢はこれだけだ」
豚が言う。虚勢を張っているが、彼の声は震えていた。
ボスは吐息をつくと、素早く机の上の電話に手を伸ばし、ボタンを押した。
「誰か来てく……!」
言い終わる前に、エンジェルが彼の手を撃った。豚が電話を叩き壊す。
「ちくしょう!」
豚は俺にビデオカメラを預け、ボスの顔をめちゃくちゃに殴った。鼻血が吹き出し、彼の顔を赤く染める。豚が拳についた血を舐めた。そして、持っていたハンカチでボスの手を縛る。ついでに首に巻いていたタオルで猿ぐつわをかます。ボスは血走った目で息を荒くして豚を睨んだ。
廊下で人の気配がした。慌ててドアを施錠する。
「どうする?」
「うるせえな! 今考えてるんだよ」
豚が叫んで、ポケットから携帯電話を取り出した。
「外に人が集まってきてる」
エンジェルが銃をドアの方に向けながら言った。ドアノブが乱暴に回される。
「ボス! 大丈夫ですか!」
外から声が聞こえた。少しして、ドアが蹴られる音。ここのドアは頑丈に作られているせいか、びくともしなかったが、いつまでもここにいられるわけじゃない。
豚はブツブツ呟きながら、携帯電話を耳に当てる。開いている方の手が震えていた。
「おい、高梨。話がちげえじゃんかよ」
豚が携帯電話に向かって叫んだ。
「どうするんだ」
俺が尋ねる。今にもドアが破られそうだ。
「だから黙ってろって!」
通話を終え、豚は携帯電話をしまった。爪を噛み、震えている。
「それで、どうする」
「お前はそればっかりだな。少しは自分で考えたらどうなんだよ」
「あんただって、電話してたろう」
「うるせえ」
豚は叫ぶと、ボスを立たせた。そして、強面の男が持っていた銃を拾うと、ボスのこめかみに当てた。
ドアの鍵が銃で打ち抜かれた。一斉に入ってくる黒服の男たち。十人以上いるだろう。彼らは自分たちのボスが銃を突きつけられているのを見て固まった。しかし、それくらいでは彼らは怯まない。豚と正面から対峙して、無言の圧力を掛ける。
「こいつらに退くように命令しろ」
豚がボスに囁き、猿ぐつわを外した。
「俺の無事は保証されるんだろうな」
「知るか馬鹿」
「じゃあ協力出来ないな」
豚がボスの頭を銃で殴る。黒服の男たちが一斉に豚に狙いを定めた。豚は舌打ちして、ため息をついた。
「しょうがねえ。無事は約束してやる」
ボスが無言であごをしゃくると、黒服の男たちは廊下へ後退した。ボスの髪の毛は血で固まって、頭を振っても顔に張り付いたまま動かなかった。ゆっくりと三人で廊下へ出る。豚が先頭に立ち、しんがりをエンジェルがつとめた。
思いの外あっさりと建物の外へ出られた。黒服の男たちは追ってきてはいたが、ボスを人質に取られていては手を出すことが出来ないでいた。
豚が車のドアのロックを外し、取っ手に手を掛ける。ホッと吐息をつき、俺は後部座席のドアを開けた。
瞬間、ドアを開けるために銃がボスの頭から離れるのを、彼らは見逃さなかった。黒服たちは一斉に銃撃を始めた。豚は慌てて車に乗り込んだが、ボスを放り出してしまった。
「おい、あいつを拾ってこい」
豚が俺に向かって言う。
「無理だ。殺される」
「てめえは何回殺されたって問題ねえだろ」
「無茶言うな。俺だって出来ることなら殺されたくない」
「うるせえ。黙って俺の言うことに従え」
車は一見普通の車に見えたが、そこはやはりガラスは強化ガラスにされ、車体も多少の銃撃では貫通しないようになっていた。
エンジェルは応戦に忙しかった。彼女は撃たれても怯まず戦った。肩や足を撃たれても、空いた手に銃を持ち替えて応戦している。
これ以上、エンジェルを戦わせるわけには行かない。俺はボスを拾いに出た。逃げようとする彼を捕まえて、開いているドアに彼を押し込んだとき、俺の意識は途絶えた。撃たれたのだ。
撃たれたとき「やっぱり」と思った。
後部座席に転がったカメラの映像によると、エンジェルが俺を車に乗せてくれたようだ。豚は俺を置いていくように言ったが、彼女は俺を救いに来てくれた。
アパートに帰り着くと、豚は怒りのままにボスを殴った。銃を押しつけ、引き金を引こうとした。
「どうした……撃てよ」
ボスのかすれた声が聞こえる。カメラの映像からはよくわからないが、声からわかるのは、ボスはまだ余裕の様子だということだった。
数秒の沈黙の後、豚の咆哮が聞こえた。そして、何かを殴りつける音。
「お前は決して俺を殺せない。お前はこっち側の人間じゃないんだ。目を見ればわかる。お前は弱い人間だ」
ボスの狂ったような笑い声が聞こえる。途中、咳き込みながらも、彼は笑った。
豚の嗚咽。続いて。サイレンサ越しの鋭い銃声。エンジェルが撃ったのだ。豚の代わりに。
豚の嗚咽は続いた。エンジェルが俺の体を担いでアパートに入って行く。後に残された豚は、ひとしきり泣いた後、ボスの体をクーラーボックスの中に詰めた。老人がアパートから出てきて手伝おうとしたが、邪険に振り払う。その拍子に老人を殴ってしまっていた。これが、老人が鼻にガーゼを当てていた原因だろう。そしてビデオカメラを運転席の方に放り投げる。そこで映像は終わった。
俺はカメラを閉じた。完全に思い出した。何故エンジェルが裸で俺の隣に寝ていたのかは思い出せないが。
豚が皆の前に顔を出せないことに合点がいった。彼はあれだけ大口を叩きながら、人一人殺すことも出来なかったのだ。掃除のときも、エンジェルにやらせていたのだろう。あれだけ上手くばらせるのだから、相当一人でやってきたに違いない。
台所にはまだ豚がいた。床に座って、ハムをかじりながらカップ麺を食べている。俺を見ると「何見てんだよ」と凄んで見せた。
正直なところ、この男の粗暴さを恐れていた。何かされるのではないかという恐怖を感じていたのだ。しかし、今となっては彼は虚勢を張る犬のようなものだとわかった。しかしエンジェルは……少しのためらいもなく人を殺した。俺はそれが恐ろしかった。
俺は黙ってカメラをテーブルの上に置くと、部屋に戻った。豚は追いかけてこなかった。
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