第14話





 エンジェルの希望で、一緒に風呂に入ることになった。松本の家には、普通の風呂が三つあった。一つは松本専用の風呂で、残りは客用と、離れにある掃除の後に使う風呂だ。彼らの言う掃除というのは、死体をばらすことだったらしい。それを知らずに、俺は間抜けにも犬の散歩などをして呑気なものだ。


 こちらの風呂は、掃除用の風呂の半分くらいの小さなものだった。いくら体を洗っても、臭いは取れなかった。吐きすぎて胃が痛いし、頭痛もする。湯船につかると、エンジェルが俺の上に座るようにして入ってきた。彼女の体は痩せていてごつごつしていた。傷の跡を撫でる。つぎはぎだらけの人造人間のように、そこだけ大袈裟に皮膚の色が違った。すこし皮膚が盛り上がっている。


 ふと、俺は自分が撃たれた辺りを触ってみた。しかし、傷はない。彼女は回復が出来ないほど体を痛めつけたのだろうか。


 強く抱きしめてみる。簡単に折れそうだ。


「痛い」


 エンジェルが漏らすように言う。色っぽく聞こえた。


「やめないで。このまま殺しても良いよ」


 力を緩めた俺の腕を掴んで、エンジェルが振り返った。少しでも動けば唇が触れる距離だった。彼女の大きな目に吸い込まれそうだ。一体、この少女の目には世界はどのように見えているのだろう。想像さえつかない。彼女は俺が生き返ったとき、見付けたと言った。それは、同族の人間を見付けたという意味だろう。それはまさしく、広い砂漠で、ようやく人間に巡り会えたようなものだろうか。俺にはまだ、世界は普通に見えている。そのうち見え方が変わってくるのだろうか。


 俺は彼女を思いきり抱きしめた。骨のきしむような感触と、彼女が震える感触に興奮した。時々吐息が漏れる。苦しいような、気持ち良いような声だ。勃起した股間をエンジェルが握る。


「どうして?」


 力を緩めた俺に、エンジェルは非難するような目を向けた。


「湯あたりしそうだ。そろそろ出るよ」


 立ち上がった時には、勃起は治まっていた。


「だめ」


 エンジェルが俺の足にしがみつく。


「殺してよ! 今すぐ殺してくれなくちゃ嫌!」


 エンジェルに強くしがみつかれて、俺はその場で転んで再び湯船の中に入った。


「やめろ」


 エンジェルは離れない。こんな小さな体のどこに力があるのかというくらい、強い力だった。


 彼女の顔を見下ろす。潤んだ瞳の奥には、強い光が見えた。そこまでして死にたい理由とはなんだろう。気持ち良いと言っていたが、それだけとは思えない。


「殺してよぉ……」


 潤んだ瞳から、涙がこぼれ落ちる。エンジェルが俺の胸に顔を押しつけた。熱い風呂に入ってるのに、指先が冷たく凍って行く。


 俺はゆっくり手を上げて、彼女の頬を撫でる。次に唇、耳、髪の毛、そして首に手をかけた。俺の手に、彼女はそっと手を添えた。逃がさないように、柔らかく俺の手を圧迫し、誘導して行く。


「出来ないよ」


 声がかすれた。エンジェルは優しく微笑んで、小さく首を振った。そして、添えた手の力を徐々に増して行く。


「殺してくれないと、嫌いになっちゃうよ」


 彼女の力と俺の力が、しばらく拮抗した。傍目にはただ見つめ合っていただけのように見えただろう。天井から落ちる滴が水面とぶつかる音だけが、浴室に響く。生臭ささが、外から漏れてきて不快だった。


 俺はとうとう観念して、彼女の首を絞めた。苦しくないように、首吊り自殺と同じに動脈を圧迫した。呼吸を止めるのではなく、脳に血液を行き渡らせないように、血管を締め付ける。彼女の顔がすぐに赤黒く変色し始める。涙がこぼれた。


 死にゆく彼女に、俺はソッとキスをした。




「どうも、湯あたりしたらしくて」


 俺は松本にそう説明した。中々戻ってこないことを心配して、様子を見に来たのだ。一緒に入っているところを非難されたが、彼女は普段から甘えん坊らしい。大してお咎めはなかった。彼女は脱衣所で寝かせておいた。しばらくしたら起きてくるだろう。彼女が生き返るところなんて見たくなかったから、そのまま置いてきた。非情だろうか。


 柊の姿は見えなかった。さっさとシャワーを浴びて出て行ったらしい。あの首は、今頃どこかに運ばれているのだろうか。


 松本はまだうちの老人と将棋を指していた。この間の続きらしい。実力が拮抗して、勝負がつかないのだと、楽しそうに語った。俺は将棋のことなんてほとんどわからなかったから、彼のうんちくを聞かされてもちんぷんかんぷんだった。老人たちはいつの間にか酒を飲んでいた。老人が日本酒の一升瓶を抱きかかえながら将棋盤を睨んでいる。病院に入る前は、将棋指しだったのだろうか。


 うんちくを聞いている間に、エンジェルが部屋に入ってきた。顔色が悪い。大丈夫か、と尋ねる俺の耳元で彼女は呟いた。


「また死ねなかった」




 松本が食事を用意すると言ったが、俺は何も口に出来る気分ではなかった。水さえものどを通らない。エンジェルも、トマトジュースを飲んだだけで、食べなかった。老人は食欲旺盛だった。


 いつもこんなことをしているのかと思ったら、彼女が哀れに思えた。尋ねたことはないが、彼女はまっとうに生活していたら、中学生か高校生くらいだろう。


 帰りの車の中で、エンジェルは何も喋らなかった。老人が心配そうに彼女の顔を覗き込む。俺は先程の彼女の顔が忘れられなかった。死に行く彼女の顔は美しかった。命の炎が消えかけるとき、その最後に一層強く輝くのを知った。例の自殺サイトが人気なのも、わかるような気がした。


 それでも、彼女のような少女が何度も死を経験するなんて良くない。俺のようなおっさんでさえ、怖くて仕方がないのだ。少女が何度も死ぬなんて、心が壊れてしまってもおかしくない。


 アパートに戻ると、ドッと疲れが押し寄せてきた。ほとんどの作業は他人にやって貰ったはずなのに、体が疲れ切っている。あんな作業をしたあと、まだ仕事をするなんて柊は凄い男だ。


 部屋に戻ると、ビデオカメラの充電が終わっていたが、ベッドに横になるとそのまま眠ってしまった。


 夢の中で、今日解剖した男たちに責め立てられた。二人とも裸で、顔は潰れているのに鬼のような形相だと言うことはわかる。顔が潰れているので、うまく発音が出来ていないが、俺を罵倒しているということは、なぜだか理解できた。俺は逃げたが捕まってしまって、二人がかりで解剖された。夢の中なのに痛みは鮮明で、自分の叫び声で目が覚めた。


 起き上がると汗まみれだった。のどがからからで、唾液を飲み込むのも痛いくらいだ。


 時計を見ると夜中の三時だった。相当長い時間眠っていたらしい。ベッドから降りると、足がふらついた。死んで生き返った後のように、体に力が入らない。解剖のああと、飲まず食わずだったからだろう。何とかキッチンにたどり着くと、水をがぶ飲みした。まだ胃が痛かった。


 部屋に戻ろうとすると、丁度入れ違いに豚に出くわした。彼はばつの悪そうな顔をした。


「何だよ」


 いつも通り、威圧的だが、彼は俺と目を合わせないようにしていた。


「いや、別に」


「笑いたければ笑えばいいだろ」


「何で、俺が笑うんだ」


「何でって……」


 彼は驚いたように俺の顔を見て、何か悟ったようにニヤリと笑った。


「そうか。覚えてないのか」


 呟くように言うと、急にいつも通りの態度に戻って、俺の肩を叩いた。


「俺も最初は吐いちまって、ものを食えなかったんだ。お前も気を落とすんじゃあねえぜ。これでやっと俺たちの仲間になったってことだからよお」


 彼は上機嫌になって、台所を漁り始めた。文句を言いながら食べ物を抱えて行く。


 俺は部屋の戻ってベッドに倒れ込んだ。まだ疲労が残っていた。


 ふと、部屋の中で何かのライトが明滅しているのに気がついた。ビデオカメラのバッテリだった。充電していたのをすっかり忘れていた。もう一度眠っても良いが、夢のせいで目が冴えてしまった。バッテリをカメラにセットした。気持ちを落ち着けるために深呼吸した。そして、スイッチを押した。真っ暗な画面が映る。故障か、と思った矢先、ごそごそと音がして豚の顔が映し出された。それと同時に俺の記憶も蘇り始める。

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