第13話
「嫌な夢を見たんだ」
俺は起き上がって妻を見た。妻は産まれたばかりの千佳を抱いて授乳していた。妻は俺を見た。しかし、妻の顔がよく見えない。まるで彼女の周りだけ光の屈折率が大きくなってしまったみたいにぼやけている。千佳を見ると、やはり彼女もぼやけてよく見えなかった。
「どうしたの?」
妻が尋ねた。果たして彼女の声はこんな風だったろうか。考えているうちに、彼女の顔がだんだん変化し始めた。暗い穴が開いたみたいになって、それが形を変えて行く。そして、変化した顔は——誰だ。見覚えが無い……いや、知っている気がする。
俺は叫んで部屋の隅まで後ずさった。情けないことに足が震えて立ち上がれなかった。腰にも力が入らない。
ふと見ると、千佳の顔も変化していた。あの白バイ隊員の顔だった。
自分の叫び声で目が覚めた。飛び上がって見回すと、あのアパートだった。あれは夢だったのか。ホッと胸を撫で下ろす。
いや、どこからどこまでが夢だ。
白バイ隊員を殺したのは?
その後のことは?
焦れば焦るほど、記憶はつかみ所が無くなって行く。
また頭痛だ。しかも酷い頭痛。この感じは、まさか俺は昨日また死んだのか。記憶がはっきりしないのも、そのせいだろうか。
部屋の外で足音がした。慌てて入ってきたのは美々だった。
「どうし……」
言い終わる前に、彼女は俺を見て顔を赤らめた。見ると、俺は裸だった。そして、俺の隣には同じように裸のエンジェルが寝ていた。彼女は目を覚まし、俺に向かって手をさしのべた。俺は状況が全く飲み込めず、彼女の手を掴むことが出来なかった。彼女は俺の腕に自分の腕を絡ませ、艶のある声で嘆息した。
「おはよう。あれ? 姉御もいる」
「てめえ……エンジェルに何かしたのか」
美々が怒りを抑えた声で言う。いつもよりも声に凄みが増していた。
「いや……」
何を言っても、この状況を弁明出来ないだろう。何故なら、自分でさえ理解してないのだから。
「エンジェル。すぐに服を着てこっちへ来い」
美々がベッドの下に脱ぎ散らかされたエンジェルの服を拾った。まずいことに下着まで脱いでいた。俺はさりげなく自分のイチモツを確認した。何かあったような痕跡はないように思える。触ってみても、愛液が乾いた後のあのざらついた感触は無かった。
ぐずぐずしているエンジェルに、美々が服を着せた。エンジェルは嫌がったが、部屋から追い出された。美々は俺に向き直った。
「何した?」
言いながら近付いてくる。指を鳴らす音が部屋に響く。
「いや……」
何と言うべきか考えあぐねている間に、彼女はもう、すぐ目の前まで迫ってきていた。
「言わないと殴るよ」
言い終わるやいなや彼女は俺の頬を思い切り殴った。
「まだ何も……」
「殴るって言っただろ」
驚きと痛みで、一層俺の頭は混乱した。口の中が切れている。鉄の臭いがした。あとから痛みが広がる。くそっ。痛い。とても痛い。
「わからないんだ」
やっとの事で答えると、彼女はもう一発俺を殴った。白いシーツに赤い血が落ちる。
「酔った勢いでエンジェルやったってのか? だから覚えてませんってか? ああん?」
美々が俺の髪の毛を掴む。
「待ってくれ! 本当に覚えてないんだ」
「最低だな、お前」
もう一発拳が来る気配がした。俺はぎゅっと目をつぶる。
「姉御!」
エンジェルが部屋に駆け込んできた。俺の顔を見るなり彼女は俺に抱きつく様にして彼女の拳からかばう。こんな小さな女の子に守られるなんて情けない。
「エンジェルどきな」
「いや! だって何もしてないのに!」
「嘘だ」
「本当だよ! 何にもしなかったよ! ね?」
最後の問いかけは俺に対してだった。実際のところ何も覚えていないが、俺は力強く同意した。
しばらく美々はエンジェルと睨み合っていたが、やがて臨戦態勢を解いた。捕まれていた髪の毛は、結構抜けた。
「朝飯が出来てるよ」
言い捨てると、乱暴に部屋から出て行った。
俺はホッと吐息をついた。
「大丈夫?」
エンジェルの鼻にかかったような甘い問いかけは、美々とは全然違って安心できた。本物の天使のように見えた。
「血が出てる」
彼女が袖口で俺の口を拭く。まるで小さい子供のように、俺は彼女にされるがままになっていた。外から原付のエンジンの音が聞こえた。美々が学校へ向かったのだろう。いつもより少し早い。
「昨日、何があった?」
聞きたいことはたくさんあった。俺は白バイ隊員の死体を詰んだ後くらいから記憶が曖昧だった。
エンジェルが答えるまえに、高梨が部屋に入ってきた。
「大丈夫ですか?」
俺の顔を見て彼が驚いた。
「大丈夫なように見える?」
「いや……」
高梨は苦笑いした。
「美々が怒って出て行ったので、何があったのかと思いましたよ」
嘘だ。その前から彼女はさんざん騒いでいた。
「まあ、ね」
「話は食事をしながらで良いでしょう」
彼はそう言って部屋から出て行こうとしたが、足を止めて振り返った。
「昨日はお疲れ様でした」
そのときの彼の表情が、あの銃を撃ったときと同じだったのを俺は見逃さなかった。
朝食には豚は姿を現さなかった。豚の座っていた席を見ると、昨夜、豚が何か叫んでいたことを思い出したが、何を叫んでいたのか思い出せない。
テーブルに着いているのは高梨とエンジェルと老人と俺だった。老人は鼻にガーゼを当てていた。怪我でもしたのだろうか。
「今日はまた松本さんのところへ行って貰おうと思っているのですが、大丈夫ですか?」
高梨が言った。
「まあ……大丈夫だけど。また掃除?」
尋ねると、高梨は目をそらした。
「ええ、まあ……そうですね。話は通してあるので、行けばわかると思います。今日は豚は行けないみたいなので、エンジェルと二人で行ってきてもらえますか」
「君は?」
「僕はやることがあるので」
高梨は引きつった笑顔で答えた。何か隠していることは明らかだった。エンジェルだけはいつもと変わらない。
食事が終わるとすぐに、俺は仕事へ行こうとした。
「どこへ行くんですか」
「松本さんのところへ行くんだろう」
「まだ食べたばかりですから、少し休んだらどうですか。まだ疲れも残っているでしょうし」
「でも早く行けば早く帰れるだろう?」
「でも、食べてすぐは……きっと後悔しますよ」
高梨の言い方に含みがあったのが気になった。後悔するとはどういうことだろうか。彼はすぐに自室へ引っ込んでしまったので聞けずじまいだった。丁度彼の部屋の前を老人が掃除していた。彼もここで働いていたのか。一体、何故老人はここに留まり続けているのだろうか。
「あの……」
老人に声をかけたが、聞こえなかったのか無視されてしまった。
「あの!」
俺は大きな声で言ってみた。老人は驚いてつまずきそうになった。
「どうしてここにいるんですか」
訊き方が良くなかったな、と思ったが訂正しなかった。老人はゆっくり振り返って、顔の前で二、三度手を振ると、再び掃除に戻ってしまった。
「どういうことですか」
もう、老人は答えてくれなかった。
窓の外を見ると、エンジェルが庭の樹に水をやっていた。といっても、手入れされていないので、本当にただ水をまいているだけに見える。
敷地内には樹木が雑多に生えていて、美々が作っている家庭菜園もある。水やりは彼女の仕事なのかも知れない。
外に出てみると、車の様子が昨日と違っていた。窓硝子にひびが入っている。車の中を覗き込むと、血が飛び散ったような跡があった。
背筋がゾッとした。急激に体温が低下して行くのがわかる。呼吸がしづらくて苦しい。何か思い出せそうだった。
そうだ。昨日あの後——白バイ隊員を殺した後、さらに人を殺した……。
震える手で車を触ろうとしたとき、アパートの中から老人が出てきて車体を拭き始めた。たちまち血の跡や汚れは無くなっていった。シートに飛び散った血の跡は、さすがに消すことは出来なかったが。
一体昨日、何があったのか。俺は意を決してエンジェルに聞いてみることにした。先程高梨に邪魔されたとき、実はホッとしていた。恐ろしいことが起こったのでは無いかと思ったからだ。だが、覚えていないのなら、思い出さない方が良いのかも知れない。
エンジェルはまだ水をまいていた。彼女は水をあげていると言うよりは、水遊びをしているみたいだった。こうしていると、彼女はただの無邪気な少女に見える。今は邪魔しないで置こう。
車には鍵がささったままになっていた。老人が掃除を終えて出てくると、俺は入れ替わりに車に入った。俺は神経質なので、自分が運転するときにはきっちりと運転席の位置やミラーの位置を決めておくのだ。
車の中は生臭かった。昨日の白バイ隊員だろう。まだ彼はクーラーボックスに入っているのだろうか。俺はそちらを見ないように努めた。
運転席の足下に、豚がいつも持っているビデオカメラが転がっていた。拾い上げようとして手が止まる。これには、恐らく昨日の一部始終が映っているはずだ。心の準備は出来ているか、自分の胸に手を当ててみた。深呼吸する。心臓の鼓動はいつもよりも早い。俺はゆっくりビデオカメラを拾い上げて、思い切って目をつぶりながら電源を入れてみた。エラー音がした。薄く目を開いてみると、バッテリー切れだった。
ホッと吐息をついて、ビデオカメラを閉じる。バッテリーの充電のために部屋に戻った。
充電している間に松本のところへ行くことにした。エンジェルを乗せて発進しようとしたとき、老人が小走りで車に近付いてきた。どうやら彼も行きたいらしい。エンジェルがドアを開けると、慌てて乗り込んできた。
老人はエンジェルにみかんを差し出した。エンジェルはキャッキャと喜んで老人とみかんを食べ始めた。俺はだんだん増してくる臭いに、完全に気分が悪くなってしまっていた。
松本の家に着くと、ドーベルマンが出迎えてくれた。
「今日は豚はいないのか」
松本が仏頂面で言う。
「お、この前のあんちゃんじゃないの」
屋敷の奥から顔を見せたのは、ドーベルマンを散歩に連れて行った時に出会った男だった。彼がいることは、犬のことも知っているようだったし驚かなかったが、次の発言が俺を驚かせた。
「奴が居ないんじゃ、作業もわからないだろ。おじき、今日は俺が代わりに」
おじき、という呼び方は映画の中でしか聞いたことが無かった。この立派な屋敷に老人にしては体躯の良い松本は、堅気の人間では無かったのか。では、作業とは——。
「俺は柊っていうんだ。よろしくな、あんちゃん」
柊は上着を靴箱の上に放り投げ、ワイシャツを肘の上までまくり上げた。そして、車の後部座席を開けると俺を呼んだ。
「あんちゃん、これを向こうに持ってくんだ」
車には大きなクーラーボックスが詰んであった。これに白バイ隊員の死体を入れたのだ。いや、彼だけでは無く——。
「ほら、何ボウッと突ったってんだよお」
柊にせかされて、ボックスに手をかけた。ボックスは少し開いていた。そこから臭いが漏れてくる。中は見ないようにした。ボックスは思っていたよりもだいぶ重かった。二人では持ち上がらない。エンジェルが鼻唄交りに手伝いに来た。この臭いを、彼女は何とも思わないのだろうか。臭いのせいで力が入らない。
屋敷の裏手に回ると、離れがあった。木造の、掘建て小屋のような粗末な家だ。その向こうには畑が広がっており、肥やしの臭いが鼻をついた。離れには目立たないところにドアが有り、そこを入るとすぐに風呂場のような場所だった。風呂場のような、と言ったのは、そこが普通の風呂場よりも大きく、浅い風呂桶のようなものとシャワーが一つだけしかついていなかったからだ。まるで病院にある死体を洗う場所のようだ。加えて、壁に収納スペースが有り、そこにペンチやのこぎりまで揃っていた。それを見た瞬間、俺はここが何か悟った。
柊は手慣れた様子でクーラーボックスを開けると、中から死体を二つ取りだした。
「あれえ。死体は一つって聞いてたんだがなあ。もう一個は警官じゃあねえか。しくじったな」
柊がギョロリとした目を俺に向けた。サングラスの下から、獰猛な肉食獣のような目が見えて俺は背筋を凍らせた。
「参ったなあ」
彼は首の辺りを掻きながら、白バイ隊員から衣服をはぎ取った。そして、自らも服を脱ぐ。俺にも服を脱ぐように命令した。
「よく見とけよ、あんちゃん」
すっかり裸にしてしまうと、浴室の床に寝かせた。柊はまず鉈を持ち腕の関節に当てた。一気に体重をかけると、肉に切れ目が入り骨が見えた。血が吹き出るかと思ったが、そんなことは無く、黒い血がどろりと垂れた。とても臭かった。その臭いを嗅いだ瞬間、俺は吐いてしまった。
「あんちゃん、情けねえなあ。まあ、俺も最初はそうだったよ」
まるで歌でも歌うように言いながら、柊は死体の腕をひねった。すると、フライドチキンのように関節があっさり外れた。同様に肩にも力を加えて関節を外す。残った皮と肉は鉈で切り落として行く。
「まずダルマにしちまうんだ。わかるか? 手足を落とすってことだよ」
胃の中にあるものが全て無くなっても、まだ吐き気は収まらなかった。鼻から胃液が出てくる。そのおかげか、臭いがわからなくなった。
彼はリズミカルに関節を落としていった。
「こっからがてぇへんだ。あんちゃんの力も借りるぜ」
そう言うと、彼は首に鉈をあてがった。
「あんちゃん。一緒に力を入れてくれよ。首は中々難しいんだ」
俺は考えることを放棄した。このままでは理性が持たない。人体解剖なんて、非日常的なことが目の前で行われているのだ。これは現実じゃない。夢なんだ。
俺は言われるまま、彼に力を貸した。頸骨を折り、鉈で胴体から切り離した。顔は見ないようにした。彼は俺を恨んでいるだろう。すでに光を失った瞳で俺を見て、暗い地の底へ引きずり込むだろう。がんじがらめにされて四肢を引きちぎられ、目玉もくりぬかれ、舌を引き抜かれ、体にはくさびを埋め込まれるのだ。
「あんちゃん、もうちょっとだ。頑張れ」
柊に思いっきり頬を叩かれて我に返った。柊はすでに浴槽の中に胴体を入れ、水をため始めていた。何をするのかと見ていたら、腹に切り込みを入れ内臓を掻きだした。悪臭が再び襲ってきた。見ると、柊はいつの間にかマスクをしていた。
「こうやって、色々細かくわけて、足がつかないようにするんだよ。体なんて細切れにして煮ちまえば、牛や豚と見分けつけねえけど、手足や顔なんてすぐに人間だってわかっちまうからな」
柊は次々死体を切り刻み、顔や指はつぶし、元が人間とはわからなくなった。
「こんぐらいやれば良いだろ。あとは犬にでも食わしてやれば良い」
ドーベルマンの顔が浮かんできた。彼らは人間の肉も食べていたのか。彼らが可愛いとは、もう思えなかった。
「さて、もう一体だ。エンジェル頼む」
柊はシャワーで軽く体を洗うと、エンジェルに向かって言った。
「エンジェルもやるんですか?」
「おう、あったりめえよ。エンジェルちゃんの腕前見て腰抜かすなよ」
クーラーボックスの中にあったもう一つの死体を引きずり出すと、はさみで服を切り刻んだ。夢で見た男の顔だ。
エンジェルも服を脱いだ。朝はよく見なかったが、彼女の体はがりがりに痩せて傷だらけだった。骨が浮き上がって、痛々しい。これが少女の体とは思えない。あの自殺の映像を思い出す。今すぐ彼女の体を抱きしめてやりたくなった。
あっと言う間にエンジェルは人間の体をばらばらにした。内臓もスムーズに取り出し、俺たちが二人がかりでやった作業の半分の時間で、全行程を終了した。
「じゃ、頭だけ貰ってくわ」
エンジェルは頭だけは潰さずにとって置いた。柊がその頭を高級そうな桐箱に収めた。
残った死体の上に、柊は猫のトイレ用の砂をかけた。
「よし、これでおしまい。風呂は向こうだから」
柊は満足そうに箱を抱えて歩いて行った。エンジェルは裸のまま、風呂の方へ向かう。
「エンジェル」
声を掛けると彼女は振り返った。
「君は一体……」
何者なんだ、と問いかけようとしてやめた。そんなことには意味が無いからだ。
エンジェルは不思議そうに俺の顔を覗き込む。そして、満面の笑みを見せると「楽しいな」と言った。その笑顔に、俺は恐怖を覚えた。
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