第12話





 散歩から戻ると、丁度松本の家から車が出て行くところだった。先程の男たちの車のようにも見えるが、スモークがかっていて中は見えない。


 リードを外すと、犬たちはどこかへ走って行った。犬たちが去った方向を見て、ふと思った。掃除が必要なほど、この屋敷は汚れていない気がする。俺が来たときからそうだった。一体何を掃除するのだろうか。そういう名目で、松本がエンジェルに会いたいだけなのでは無いか。


 玄関をくぐると、豚が下着姿でうろついていた。髪の毛が濡れている。シャワーを浴びた後のようだ。石鹸の仄かな香りに混じって、油のような不快な臭いがした。彼は日常的に風呂に入らないのだ。


「おせえよ」


 素っ気なく言う。俺は彼の後に付いていった。


「そっちが二時間って言ったんだろう」


 松本がまだ老人と将棋を指していた。局面は硬直しているようだ。


「終わったぞじじい」


「ちょっと黙ってろ。今考えとるんだ」


 豚が言うと松本が手で制した。


「エンジェルは?」


「まだ風呂だろ」


 彼も居間風呂から出てきたようだが、一緒に入ったのだろうか。


 何故、掃除しに来た家で風呂に入っているのかわからないが、そんなに汚れる仕事だったのだろうか。屋敷の離れには立派な倉庫が見えたが、あそこの中でも掃除したのか。


「そこに座ってろ」


 豚の指示で、俺は対局中の横に座ることにした。しかし、俺は将棋のことは少しもわからないので、すぐに退屈して部屋の中を歩き回った。ここは一見居間のようであるが、客間のようでもある。部屋の隅に仏壇を見付けのぞいてみると、温和そうな笑顔の老婆が写っていた。松本の妻だろうか。線香の臭いは、ここからだった。短くなった線香が灰の中に埋もれている。


 しかし、この広い屋敷の掃除が二時間程度で終わるなんて思ってもみなかった。床にワックスを掛けたような感じもしないし、一体何が変わったのかと尋ねられても答えられる自信は無い。倉庫の中だろうか。だとしたら、少し見てみたい。こんな金持ちの家の倉庫にはどんな宝が眠っているのだろうか。


 しばらくしてエンジェルと豚が連れ立ってやってきた。


「そろそろ行くぞ」


 豚が言った。


「え、もう?」


「早くしろ。じじいもだよ」


 まだ将棋に興じている老人たちに向かって言う。豚はイライラしているように見えた。いつも機嫌が悪いが、今日はいつも以上だ。よく見ると目が充血していた。疲れたのだろうか。


「将棋が終わったら送ってやる。貴様は帰って良いぞ。何ならエンジェルちゃんも置いていけ」


 松本が振り返って言う。難しい顔は相変わらずだったが、機嫌が良いようだ。


「じゃあ行くぞ。せいぜいじじい同士仲良くしろや」


 豚は荒っぽい足取りで玄関へ向かった。


「お金は貰わなくて良いの」


 車に乗ってから尋ねた。


「良いんだよ馬鹿野郎。あとで振り込まれるだろ。てめえは年食ってる割に、頭わりいな。そこら辺は高梨の仕事だ」


 自分より大分年下の豚に言われて、少し腹が立った。何か嫌がらせしてやりたいと思ったが、今日の仕事量を思い出してやめた。自分の取り分はいくらになるのだろう、などと考えてから、まだ自分は生活臭さを捨て切れていないのだと言うことに驚いた。


 エンジェルは少し疲れているように見えた。


「大丈夫か?」


 俺の問いかけに、エンジェルは小さく頷いたように見えた。車がアパートに着く頃、エンジェルは寝息を立てていた。




 戻って来てから豚はずっと不機嫌だった。エンジェルも一日眠り続けた。高梨は上機嫌でパソコンに向かっている。


「あの仕事……まだやるんだろうな」


 俺の問いかけに、高梨は一瞬逡巡した。


「あの仕事……ですか」


 とぼけやがって。


「自殺サイトだ」


 それから彼は、急に思い出したような顔をして手を打った。白々しい演技だと思った。


「エンジェルは英雄なんです。彼女のおかげで自殺を思いとどまる人もいる。良いことだと思いますけど」


 彼はパソコンを俺の方へ向けた。表示されていたのは掲示板だった。彼女を賞賛する書き込みが大半を占めている。確かに、彼の言った通り彼女のおかげで自殺を踏みとどまった人もいるようだ。あれを見せつけられて、同じようになりたいと思う人間も少ないだろう。しかし、自殺しなかった人間は、あれを見なくても結局は死ななかっただろう。本当に自殺する人間はあんな物を見ても動じないはずだ。何せ、死ぬ意外の選択肢が思いつかないのだから。自分の時を思い返す。屋上から飛び降りた彼女を見ても、少しも自殺する気持ちは揺るがなかった。


 掲示板を見ながらそんなことを考えていると、軽快な音がして新しい書き込みが出現した。高梨が慌ててパソコンを自分に向ける。


「最近は遊び半分に荒らす子供がいて困りますよ」


 慌てたように、その書き込みを削除する。しかし、俺は見ていた。今の書き込みはエンジェルたちに対する否定的な書き込みだった。彼がそれらを削除することによって、さも正しいことのように見せかけているだけだった。


 高梨が困ったような笑顔を見せる。俺はあえて何も見なかったように振る舞った。


 その書き込み主は、あれを作り物だと書き込んでいた。確かに俺も最初はそう思った。むしろ、あれを信じる者の方が少ないだろうと思うが、掲示板を見ているとそうでもないらしい。エンジェルは本当に神の使いのように崇められている。


 狂っている——。その考えだけは変わらなかった。




 夜になると俺は外へ出た。未だにアパートの敷地内から外に出ることが出来ないでいる。これでは高梨に文句を言う筋合いはないな、と思った。あの車で外に出たとき、俺はエンジェルの手を強く握っていた。エンジェルが「痛い」と言うまで、自分がどれくらいの力で彼女を掴んでいたのかわからなかった。あと少し力が入っていたら、骨が折れていただろう。


 門の外へ、足を放ってみる。途端に冷や汗が流れた。動悸が始まる。まるでパニック障害になったみたいに、呼吸さえ満足に出来なくなった。


 俺は慌てて煙草に火をつけた。思い切り吸い込もうとしたが、咳き込んでしまった。


 丁度そのとき、アパートの前を美々が通りかかった。彼女は犬を何匹も連れて歩いていた。


「やあ」


 俺の声に美々が振り返った。彼女は急に機嫌が悪そうになったが、声の主が俺だとわかると表情を和らげた。


「あんたか。えーと、何て名前だっけな」


「鈴村」


「そうだった」


 彼女は犬を五匹連れていた。いや、犬では無いのも一匹混じっている。あれは何だろう、狐だろうか。だが、狐は飼えないはず……やはり犬か。


「エンジェルは?」


「寝てるよ。掃除の仕事が疲れたらしい」


「そっか」


「ところで、その犬は君が飼っているの?」


 俺は彼女が持っているリードの先を指さした。一瞬、彼女は何を尋ねられているのかわからない、という表情をしたが、すぐに吹き出した。


「いや、これはアルバイトさ。通学のためのガソリン代くらい、自分で稼がなくっちゃね」


 彼女はおどけたようにリードを持つ手をヒラヒラさせて見せた。


 少しの間、沈黙があった。沈黙を破るように、犬が一吠えする。美々が重そうに口を開いた。


「なあ、あんた……」


 彼女の声を遮るように、アパートの中から慌ただしく豚とエンジェルが出てきた。


「あ、エンジェ……」


 彼女が声をかけようとしたが、エンジェルがいつもの雰囲気と違うことを感じ取ったのだろう。彼女は「もう行くわ」と言って歩き出した。


 彼女の雰囲気には、俺も気付いていた。あれは彼女が自殺するときに纏うような雰囲気だ。画面越しにも異様さは伝わってきたが、実際に見るともっと禍々しい空気のようなものを纏っている。


「仕事だ。乗れ」


 豚が俺の横に車を止めた。俺はエンジェルが心配になって、言われる通りに車に乗り込んだ。エンジェルは緊張した面持ちで、拳を握り固めていた。仕事の内容に問題でもあるのだろうか。


「どんな仕事だ? また掃除って訳じゃ……」


「うるせえ。黙ってろ」


 ぶっきらぼうだったが、エンジェルとは違い機嫌は良さそうに見えた。


「まあ、ある意味では掃除だな」


 車は制限速度をギリギリ保って走っている。いつもの豚らしくない。バックミラー越しに見た彼の目は血走っており、時折舌なめずりしている。興奮しているときの癖だ。もしかして、また自殺だろうか。


「詳しく教えてくれ。……普通の仕事じゃないんだろう」


 俺が言うと、豚は舌打ちした。


「うるせえなあ。人殺しだよ人殺し。この世で最も崇高な仕事だ。地上最悪のゴミ共を掃除できるんだからな」


 人殺し、という言葉を聞いてエンジェルは耳をふさいだ。体も震えている。


「彼女が怖がってる」


「良いんだよ。いつものことだ。現場に着けば仕事はする」


「いつもって……そんなことまで彼女にさせてるのか」


 つい声が大きくなってしまった。豚は乱暴にハンドルを切ると、車を止めた。


「てめえ、知った風な口たたいてんじゃねえぞ!」


 豚がこちらを振り返って俺に手を伸ばす。乱暴に俺の髪の毛を掴むと凄んだ。


「俺たちゃあな、世間様から背を向けたんだ。お前だって同じだ。違うとは言わせねえ。そんな俺たちが、表の人間と同じ仕事で食って行けると思ってんのか? ああん?」


 髪の毛が引きちぎれそうだった。


「やめて」


 エンジェルが呟くように言った。彼女の小さな手が、豚の腕を掴んでいる。


「でもよお」


「やめて」


 エンジェルの声はいつも通り、いや少し冷たく聞こえた。豚は叱られた犬のような顔で、俺から手を離した。しばらく、エンジンが回転する音だけが聞こえる。


 おもむろに豚はアクセルを踏んだ。いつも通り制限速度を超えていた。しかし、運悪くすぐに白バイに止められてしまった。周りに車は無く、目立ってしまったからだ。


 豚は「クソッ」と呟いてハンドルを殴った。しばらく制止の声を無視していたが、観念して止まった。白バイ隊員が運転席をノックする。一通りの受け答えの後、白バイ隊員は後ろに乗っていたエンジェルを見付けた。


「彼女は?」


「友達」


「友達と言えるような年齢には見えないけど」


「俺の娘なんです」


 俺が言うと、白バイ隊員は俺を見た。エンジェルが俺の手を握っている。納得したのかは定かでは無いが、これで怪しまれてしまったのだろう。バンの後ろを開けろと言われた。豚はそれを無視したが、白バイ隊員に脅されるようにして結局開けた。


「エンジェル頼む」


 豚が小声でそう言ったのと、バンの後ろが開けられるのが同時だった。豚の声を聞くとすぐに、エンジェルがどこかから銃を取り出して白バイ隊員を撃った。サイレンサが付いていたが、空を切り裂くような音がして、白バイ隊員の頭に穴を開けた。


 声を上げる暇もなかった。まるで粘度の高い液体の中に居るような、そんな息苦しさがあった。実際にはほんの数秒の出来事だったのだろう。白バイ隊員が倒れたと思ったら豚がすでに車を降りていた。


「手伝え馬鹿野郎」


 豚が俺に向かって叫んだ。しかし俺の体は硬直してしまって、動けなかった。豚は白バイ隊員の遺体を車に積んであったクーラーボックスに入れようとする。しかし、ボックスに上手く収まらない。


「くそっ、てめえのせいだ馬鹿野郎」


 豚が罵詈雑言を俺に向かって吐きながら、何とかして遺体の体を折り曲げる。


 上手く収まると、すぐに車を発進させた。


「馬鹿野郎。てめえのせいだ、馬鹿野郎」


 豚は呟くように言い続けた。走り出してから、少しして振り返った。


「シートかぶせとけ」


 言われて後ろを見るが、怖くて体が動かなかった。


「ケッ、ゾンビ野郎のくせに死体が怖いのかよ」


 豚が悪態をつく。後ろは見なかった。


 豚はそのあとずっとブツブツ呟いていた。


 俺は恐怖でずっと震えていた。そして、恐怖で忘れていた。いや、考えないようにしていた。


 何故、エンジェルが銃を持っていたのか。


 何故、エンジェルはためらいもなく引き金を引けたのか。


 やっとそれに考えが及んだのは、彼女が次の人間を殺した後だった。

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