第11話





 行きましょう、と言った割には高梨は付いてこなかった。警察に見つからないように用心しているのだろうか。それとも、まだ引きこもる癖が抜けていないのか。彼は豚に仕事の内容が書かれた紙を渡すと、部屋に戻っていった。


「彼は行かないの?」


 俺の問いかけを、豚は無視した。俺が車に乗り込んだとき、すでに老人も後部座席に座っていた。俺を見ると、ニッと笑った。歯が俺の半分くらいしか無かった。残りの半分も、黄色くなって、所々黒い部分があった。


 豚の運転で仕事場に到着した。運転中はパンクミュージックが大音量で流れ、運転は荒々しかった。


「こんなに飛ばしたら、パンクするかも。パンクだけに」


 言ってみたが、音楽にかき消された。


 仕事場は、豪邸というのがぴったりの家だった。広い土地に平家造りの古い日本家屋だ。まるで映画のセットみたいに、松の木が植えてあり、日本家屋らしさを強調していた。


 門は開いていた。車で玄関の前まで行くと、黒い大柄なドーベルマンが二匹寄ってきて吠えた。犬のくせに筋骨隆々という言葉がぴったりだった。エンジェルが窓から顔を出して「わんっ」と言うと犬は黙った。彼女には不思議な力があるのかも知れない。車から降りると、犬がエンジェルにまとわりついたが、俺と老人が続いて降りると、執拗に匂いを嗅いだ。俺は動かずにジッとしている。動いたら噛みつかれそうだ。噛みつかれなくても、踏まれただけで内臓が破けそうだ。老人の方を見ると、匂いを嗅がれながら犬の頭を撫でていた。大した老人だ。


 玄関で豚が叫んだ。


「じじい、来たぞ」


 家の奥で物音がした。古い家特有の、埃っぽいような木の匂いに混じって線香の匂いがした。一体、こんな家に住み着いているのはどんな妖怪かと想像した。表札には松本と書かれていた。


 しばらくすると、ゆっくりした足音が近付いてきた。出てきたのは杖をついた愛想の悪そうな老人だった。八十歳くらいだろうか。豚の顔を見ると眉間にしわを寄せ「また、お前か」と言った。


「またって、呼んだのはじじいだろ」


「けっ、可愛げの無い。お前に比べて、エンジェルちゃんは可愛いのう」


 エンジェルの顔を見るとすぐに好々爺然とした顔に豹変した。まるで幼稚園児を扱うように抱き上げる。松本が、老人の割に体躯が良いということもあるが、エンジェルは老人でも持ち上げられるくらい、小さくて軽いのだ。だが、俺の顔を見ると再び機嫌を悪くした。


「誰だこいつは」


「新人」


 豚がぶっきらぼうに答える。松本は、まるで珍妙な物でも見るかのように、俺を頭のてっぺんからつま先まで何度も眺め、さらに後ろに回り込んで同じことをした。


「珍しいな。お前んとこが新人を連れてくるなんて。初めてじゃ無いか」


「俺は必要ないと思うんだがなあ、高梨の馬鹿とエンジェルが気にいっちまったんだよ」


 松本は急に表情を険しくして、俺ののど元に杖を突きつけた。


「わしの天使に手を出すなよ」


 松本の目は鋭かった。あのドーベルマンと同じ目をしていた。何か答えようとしたとき、松本が俺の後ろに視線をやり「おっ」と声を上げた。


「なんだ。まだいるのか」


 俺の後ろで、俺たちの方の老人が煙草を吹かしていた。そういえば、彼の名前を俺は知らない。


「こんなところで煙草なんて吹かしおって。このじじいも貴様らの新人か」


「しらねえ。勝手に付いてきやがったんだ。それに、あんただってじじいだろうが」


 二人のやりとりは辛辣なようでいて、楽しそうだったので、俺はついつい吹き出してしまった。二人は俺を睨み付け、お互いに顔を背けた。


「さっさと仕事始めんぞ」


 豚がぶっきらぼうに言った。豚と松本は、どことなく似ていた。


 手慣れた様子で車から掃除用具を取ってくると、玄関に置いた。それと同時に、屋敷の奥から怒号が聞こえた。松本の声だった。慌ててそちらに行くと、松本とうちの老人が将棋盤を挟んで向かい合っていた。


「このじじいが、勝手にここに」


 言って、杖を振り上げる。鼻先に杖を突きつけられても老人は少しも臆せず、ただ静かに将棋の駒を並べ続けた。


「貴様、将棋の心得があるのか」


 松本の質問には全く答えず、老人は初手を打った。ぱちり、と乾いた良い音がした。将棋盤に向かう老人を見て、祖父を思い出した。いつもあんな風に、静かに駒を並べていた。涙を堪える代わりに、のどが鳴った。


 松本はしばらく盤上を見つめていたが、やがて座布団に腰を下ろすと、後手を打った。将棋盤はこの屋敷同様、随分古い物のようだった。素人目に見ても、高価な物だというのがわかる。


「おい新人。お前は犬の散歩行ってこい」


 モップを手に取ろうとした俺を、豚が制した。


「え、でも屋敷広いし……」


「いいから」


 強引にモップをひったくられて、俺は代わりに散歩の道具を渡され、二時間は帰ってくるなと言われた。丁度俺と入れ違いに、エンジェルがお茶を持ってきた。松本が顔を崩して受け取る。そのまま話し始めた。肝心の掃除は豚が一人で始めようとしている。本当に彼らはおかしい。


 豚にせかされて、俺は外に出た。リードに付いている鈴の音に誘われてか、ドーベルマンがやってきた。二匹はリードをつけている間大人しく待っていた。犬は吐息が妙に臭かった。血抜きされていない生肉か、賞味期限を大幅に過ぎた腐った肉みたいな臭いだ。といっても、そんな動物の吐息なんて嗅いだことは無いが。


 リードを付け終わると、ドーベルマンはしっかりとした足取りで門の外へ歩き出した。俺は散歩のコースなんて全く聞かされていないので、どちらへ行けば良いかわからなくて何度も足をもつれさせた。端から見たら、どちらが散歩されているのかわからない。


 犬を連れて二時間も歩いたことは無かった。そもそも、ここがどこなのかもわからない。帰ってこられるだろうか。


 そんな俺の心配などよそに、犬たちは確固たる足取りでおきまりのコースを歩いて行く。途中、松本と同世代くらいの年寄りとすれ違ったが、この犬を見た途端「ひっ」と声を上げて後ずさった。俺から見ても怖い犬だが、そこまで恐ろしがるものではないのに……。彼らに向かって吠えたわけでも、噛みつこうとしたわけでも無い。しかし、犬嫌いの人間は意外と多い。元妻も犬は嫌いだったな、と考えて頭を振った。もうあいつのことなんて思い出したくない。


 畑ばかりが続く道だった。ほとんど人とすれ違わない。随分歩いたなあと思って時計を見ると、一時間が経とうとしていた。そろそろ戻らないといけないはずだが、彼らはそんなそぶりを見せない。


「そろそろ戻ろう」


 問いかけてみたが、もちろん犬は答えなかった。


 丁度一時間歩いたところで、犬は糞をした。俺が回収している間、犬たちは行儀良く座っていた。


「よお。ジャッキーとチェンじゃねえか」


 糞を取っている俺の頭の上から、不意に声がした。頭を上げると、いかにも堅気では無い感じの四人の男たちが近付いてくるところだった。スーツが二人、スカジャンが二人。コテコテなチンピラだ。


「みねえ顔だな? ああん?」


 黒いスーツを来た男が、威嚇するようにうなった。それより、この犬はジャッキーとチェンという名前なのか。何というセンスの無い名前だろう。急に可哀想に思えた。


「は、はい……松本さんのところで今掃除の仕事をしていて……」


「掃除ぃ? ……ああ。エンジェルちゃんが来てんのか」


 彼は厳しい表情のまま煙草に火をつけた。一度大きく吸い込んでから、俺の方に向かって煙を吐く。


「新入りか」


「はい」


 答えると、彼は険しい表情ではなくなった。彼の突き出した頬骨や、着崩したスーツの感じから、妙な威圧感を与えられる。彼は後ろに控えていたスカジャンの男二人に向かってあごをしゃくった。


「まあまあ。ゆっくりしていこうぜ、あんちゃん。コーヒーでも飲んで行けや」


 彼は俺の肩を叩くと、犬たちの頭を撫でた。犬もまんざらでは無い表情で撫でられるままだった。一体、松本とはどういう関係なのだろうか。


「そっか……エンジェルちゃんが来てるのか……」


 彼は呟くように言うと、長く息を吐いた。


「豚も来てんのか」


「はい」


 あの男は、誰にも豚と呼ばれているが、本名は何というのだろうか。


 彼はあごひげに手をやり、「そっか」と呟いた。彼の言葉は、ただの呟きなのかこちらに問いかけているのかわかりづらい。


「今日の仕事は中止だ。顔だけ出して帰る」


 彼は唐突に振り返ると、もう一人のスーツの男に言った。彼はすぐに携帯電話を取り出すと、離れながらどこかへ電話をかけた。入れ違いに、スカジャンの男たちが戻って来た。黒スーツの男はコーヒーを二本受け取って、しばらく眺めていたが一本を俺の差し出した。


「まあ、ゆっくり飲め。戻るのは飲み終わってからでも遅くないだろ」


 彼は俺の肩を強めに叩くと、金色のブレスレットがこすれて音を立てた。そのまま犬の頭を撫でてから車に戻っていった。


 確かに一時間も歩いたのは久しぶりだ。それに、犬のペースはかなり速かった。もう少し休憩していっても良いだろう。缶を開けると、犬が退屈そうにあくびをした。

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