第10話









 目を覚まし、天井の木目を見るたびにここはどこだろうと考える。そして、この嗅ぎなれない、他人の家の独特の匂いを嗅ぐたびに、ここはあのアパートなのだと思い出す。


 ここに来て一週間くらい経ったろうか。その間、俺は酒を飲んでは寝てばかりいた。他のメンツも大体そうだった。一体、彼らはどうやって生活しているのだろうか。もしかしたら、とても裕福な家の出身なのかも知れない。


 あれ以来、彼女の発作は起こらない。彼女の顔を見るたびに、背筋がヒヤリとする。死んだ人間が生き返るなんて、本当にあるのだろうか。自分で体験してさえ信じられない。今、誰かが俺に、あれは嘘だと言ったら信じるだろう。担がれただけなのだと、ホッとするに違いない。


 美々も毎日来る。酒ばかり飲んで、とこぼすが、彼女もいつの間にか酒を手にしているので強く言わない。彼女はエンジェルを猫かわいがりするが、他のメンバー——特に豚——には冷たい。


 病院から一緒に着いてきてしまった老人は、ここが気に入ったらしく、食事の時間と酒盛りの時だけどこかから現れる。


「今日は月曜日だ」


 高梨がコーヒーを飲みながら言った。こんな生活をしていると、曜日の感覚がなくなってしまう。食事が終わった後、美々がセーラー服姿で出て行った。エンジェルが洗い物をしている。珍しく、豚が食事が終わった後も残っていた。


「先週の分、どうだった?」


 豚が舌なめずりをする。


「うん。よく編集されていると思う。土曜日にアップしておいた」


 そう言って、高梨はノートパソコンを机に置く。彼はあれから、あの夜のことを一度も持ち出さなかった。


「アクセス数は今ひとつだな」


「まあ地味だったから、しょうがねえわな」


 豚が鼻を鳴らしながらノートパソコンを覗き込んだ。アクセス数を確認すると唇を突き出すようにしてエンジェルを見た。


「うん」


 高梨の返事も歯切れの悪い。彼らが何の話をしているのか、見当が付かなかった。画面に映し出されている物を見ても、今ひとつピンと来ない。俺のパソコンの知識は、小学生にさえ負けているに違いない。


「花火でも打ち上げておきゃあ良かったなぁ」


 豚が下品に笑う。


「それでもってよお、死体を真っ黒焦げにしてよお……そうだ、死体を燃やすってのはどうだ。油でもかけて、死体のキャンプファイヤーだ」


 彼は立ち上がり、狂ったように笑いながら踊り始めた。


「死体の周りでダンス!」


 何が可笑しいのか、腹を抱えて笑い始めた。


「悪趣味だが……その方がアクセス数も上がるか」


 少しも豚の方を見ずに、高梨がパソコンに向かってうなる。


「一体、何の話だ」


 俺は堪えられなくなって尋ねた。


「まさか、殺人でもしているんじゃないだろうな」


 豚が急に笑うのをやめてこちらを見た。同時に、高梨も顔を上げる。


「なあに良い子ちゃんぶってんだよ。お前だって殺しただろうが」


 言いながら、豚がエンジェルを指さす。


「そ、それは……」


 言葉に詰まる俺を、可笑しそうに彼は覗き込む。


「つまんねえチャチャいれんじゃねえ」


「黙ってろ。……すみません、鈴村さん。俺たち、こういうことをやってるんです」


 高梨がパソコンのディスプレイを俺に向けた。そこに映っていたのは、あの自殺サイトだった。


「これ……」


『死は甘美なる媚薬』


 思い出した。あの趣味の悪い自殺の動画を集めているサイトだ。よく見ると、動画の自殺者はエンジェルに似ている。


「これって……」


「そう。死は、死を呼ぶ。死は、それを目の当たりにした者を死に至らしめる媚薬なんです」


「そして、俺たちの重要な資金源だ」


 彼らによると、このサイトの会費やアフィリエイトプログラム——つまり広告料などによって、この生活は維持されているらしい。


「何てこと……死を愚弄している」


 俺は聖人じゃない。だが、これは超えてはいけない境界線をはるかに飛び越えている。


「あの能力は神から貰ったと言ったね」


 自分でも驚くほど冷静だった。低く冷たい声が、のどを震わせる。


「はい」


 高梨が神妙に頷く。まるで、説教されている子供のようだ。


「それをこんな風に使って良いと思っているのか。それも、あんなに幼い女の子を何度も殺して……」


 エンジェルがこちらを向いている。表情からは何も読み取れなかった。強いて言うなら、自分の親の喧嘩を見ているような顔、とでも言えば良いだろうか。彼女の感情をくみ取るのは難しい。いつも何か、彼女の表す感情に違和感があった。作られた物では無いかと思ってしまう。常に仮面を着けているような違和感だ。


「違う」


 突然、エンジェルが立ち上がった。


「あたしは、あたしがしたいからしてるだけだよ。あんたは感じなかった? 死ぬときのあの気持ちよさ……オナニーみたいなものだよ」


 俺は唖然として、だらしなく口を開けたまま閉じられなかった。彼女を見ても、冗談を言っているようには見えない。


「気持ちよくなかった?」


 エンジェルが俺の手を握る。瞬間、蛇に睨まれたみたいな心地に総毛立った。


 冗談じゃ無い。死んだときのことを思い出すと、まだ足が震える。小便をちびりそうになる。あれが気持ち良いだって? 正気じゃ無い。


 俺は混乱した。頭の中が散らかって、考えをまとめることが出来なかった。すぐ近くに居た老人から一升瓶をかすめ取ってラッパ飲みした。急に強い酒を飲んだものだからむせてしまったが、それでももう一度それを煽った。顔に血が上ってくるがわかる。今、俺の顔は真っ赤になっているだろう。エンジェルが何か言っているが聞こえない。俺は自分の部屋に戻ってベッドに倒れ込んだ。


 今は何も考えたくない。情けないが、俺はいつもこうだ。辛いことがあると、すぐに逃げ出す。その場しのぎに生きてきた。だからこそ、人生で何も掴めずにここまで来てしまったのだ。


 泥酔した頭で振り返る。真っ白な空間に、ポツリポツリと物が落ちている。もっとも遠くにあるのは将棋盤だ。祖父が健在だった頃、相手をさせられた。俺が偶然良い手を打つと、彼は頭に手をやって「やや、さすが将来の名人は良い手を指しますなあ」と笑った。俺は成長するにつれて祖父の家へ行くのを嫌がるようになり、まったく行かなくなった頃亡くなった。葬式で棺の中に花を入れたとき、涙さえ出なかった。自分でも薄情な孫だと思った。しかし、後日遺品の整理を手伝っていたときに将棋盤を見付け、俺はひっそりと泣いた。汚れが無いどころか、埃一つ被っておらず、いつでも打てるように縁側に置かれていた。遊びに来た近所の友人に、俺のことを良く話していたらしい。また俺と将棋をするのが楽しみだと。


 その次は絵だった。水彩絵の具で描かれた絵。小学生の時に賞を貰った。佳作と書かれた花が張り付いている。それが地元の役所にあるイベントフロアに飾られたとき、両親は一緒に見に行ってくれなかった。話しても興味さえ示されなかった。俺はその花をむしり取って投げ捨てた。のどを振り絞るようにうなり声を上げ、目を閉じた。これは夢だ。夢だ。夢だ。


 再び目を開けると、エンジェルが俺を覗き込んでいた。彼女が俺の頬を撫でる。冷たい手だった。ヒヤリとした感触を、頬に覚えた。


「泣いてる」


 言われて気づいた。ヒヤリとするのは彼女の指のせいでは無く、俺が泣いているせいだった。彼女が目の下に口づけする。すると、まるで涙を乾かすみたいに、そこが熱を持った。


「これはまだ夢かな」


 呟いてみると、上手く声が出なかった。


 エンジェルが俺の頬をつねる。手加減しないので、頬がちぎれるかと思った。


「痛い」と言うと、彼女は手を離した。


 俺は随分眠っていたらしい。酒に弱くなった物だ。飲んだのは午前中なのに、今はもう日が沈んでいる。年齢を感じてしまう。酷い頭痛がした。この頃起きると頭痛ばかりだが、少しも慣れない。


 窓から入ってくる月明かりが、彼女の顔を照らしていた。ぞっとするような白い肌。本当は死んでいるんじゃ無いかと思ってしまう。そっと唇をなぞってみた。ひび割れて冷たい。彼女が俺の指を口に含む。口の中は暖かかった。やはり彼女は生者のようだ。


「君は……」


 どうしてこんなことを——言いかけてやめた。聞いたところで意味が無い。


「俺はこれからどうしたら良いだろう」


 意味の無い問いかけだ。何もかも、意味が無い。俺は空っぽだ。


 彼女が俺の指を噛んだ。


「どうしたいの?」


 指を吐き出すようにして、彼女が言った。


「わからない」


「そう」


 エンジェルが俺の腕に頭を載せて横になった。誰かに腕枕するなんて、いつぶりだろうか。彼女は目を閉じ、すぐに寝息を立て始めた。


「まるで子供だな」


 千佳を思い出す。あの子は今、どうしているだろう。自分の子供では無いと知らされた後でも、産まれたときから見ていた子だ。忘れるわけが無い。


 眠れぬまま、朝になった。


 朝食を作るために美々がくると、アパートの中はにわかに騒々しくなった。良い匂いがアパートに充満する。エンジェルを背負って食堂に行くと、高梨がパソコンを広げていた。俺に気づくと、彼は慌ててそれを閉じた。


「良いんだ」


 そう言っても、彼は再び開けることはしなかった。


「良い大人が、一日中パソコンとにらめっこしてたら体を壊すよ。オタク野郎」


 美々がエプロンを外しながら言った。彼女はエンジェルたちの稼業のことを知っているのだろうか。


「それより、また仕事を頼みたいって人がいるんだけど」


 美々が言った。それを聞いて、飲んでいた水を吹き出しそうになった。高梨は焦ったように早口に言った。


「僕たちは便利屋をやってるんです」


「あれ、知らなかったのかよ」


「ええ」


「どこで拾ってきたのか知らないけど、本当にこのおっさんが役に立つのかねえ」


 言いながら、美々がフォークでプチトマトを刺す。


「鈴村さんは僕たちの大切な仲間だよ」


「便利屋って何だ」


 俺が言うと、美々は面倒くさそうに高梨の方を見た。


「実際やってみた方が話が簡単だから、今回の件に加わってみろよ」


「あ、姉御」


 椅子の上でぼんやり座っていたエンジェルが、ようやく目を覚ましたようだ。


「エンジェル、仕事だ」


 一瞬彼女の目が異常に輝いたのを俺は見逃さなかった。しかし、すぐに美々が居ることを思い出すと、彼女は高梨を見た。彼は頷いて言った。


「また掃除だよ」


 がっかりしたようだったが、すぐに機嫌を直して美々に抱きついた。


「エンジェルには危ない仕事はさせられないからな」


 美々が犬か猫を撫でるように、エンジェルの頭を乱暴に撫でる。エンジェルの髪の毛はぐしゃぐしゃになったが、彼女は構わない様子だった。


「そろそろ時間じゃ無いか」


 高梨が言う。美々は彼を睨み付けてからエンジェルをもう一度抱きしめ、出て行った。


「彼女はあっちの仕事のことは知らないんです」


 あっち、というのは自殺サイトのことだろう。


「じゃあ、食事が終わったら行きましょう」


 高梨が言った。テーブルの上ではいつの間に来たのか、全員が集合していた。

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