第9話





 寒さに体が震えて目が覚めた。頭が痛い。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。辺りが暗くなりかけているところを見ると、随分眠ってしまったようだ。これも、血を失いすぎたせいなのだろうか。


 顔を上げようとすると、高梨が俺の顔を覗き込んでいた。そして——右手には銃。


 俺は慌てて飛び起きた。慌てすぎて、椅子から転げ落ちる。


「す、すみません」


 高梨は慌てたせいか、銃を取り落とした。俺も慌ててそこから離れようとするが、慌てているせいで滑ってしまう。


「ぼ、暴発したらどうするんだ」


 高梨は慌てているせいか、上手く銃を拾えない。


「また、俺を殺すつもりだったのか」


「ち、違うんです」


 高梨は頭を振るが、言いながらうつむき、語尾が弱くなった。


「……いや、そうかもしれません」


 彼は髪の毛をくしゃくしゃに引っかき回して、椅子を引き寄せる。乱暴に座ると、手を組み合わせた。


「あなたのその力は本物だ。誓って言いますが、僕はあなたを尊敬している。神に選ばれた……これ以上にうらやましいことはない。畏怖の念さえ感じる。イエスと同じくらいにね」


 彼は机の上にあった缶ビールをあおった。空き缶が山のように詰んである。随分飲んだらしい。ふと、エンジェルはどこだろうと思った。


「僕は宗教家なんです。父も母もそうです。美々もです。彼女とは教会で知り合いました。我々にとっては、不死なんてものは、神への冒涜という人が多いかも知れません。でも、僕は違う。出来ることならあなたの才能を頂きたい。血を飲んで得られるというなら喜んで飲み干しましょう。脳漿を食べれば得られるというのならば喜んですすりましょう。僕は……僕は神に近付きたい」


 彼の声は震えていた。手を組んだのは、震えを隠すためらしい。微かに震えている。


「そんなに良いもんじゃない」


 色々考えたあげく、彼に言えるのはこれだけだった。俺もビールをあおろうかと思ったが、血が足りないことを思い出してやめた。ふと見ると、ダイニングの隅っこで老人が酒瓶を抱えて寝ていた。風邪を引かないだろうか。毛布が掛けられていたようだが、今は足下でくしゃくしゃになっている。


「僕の懺悔を聞いてもらえますか」


 高梨が震える声で言った。椅子に座り、テーブル上の、水の入ったグラスに手を延ばす。しかし手の震えが酷くてグラスを持てなかった。彼は諦めて拳で机を撫でた。


「僕は……ずっと引きこもっていたんです。大学で失敗して、外に出られなくなりました。幸いなことに、パソコンがあれば、やりたことは何でも出来た。簡単なプログラムを組んで公開したり、株式取引だって出来た。人の体験記を読んで、世界中の旅するような気分にもなれた。でも、そんな生活、長くは続きませんでした。当たり前です。僕はずっと、親のすねをかじって生きていたんですから」


 そこまで一息に言うと、高梨は言葉を止めた。気持ちを落ち着けるように、ゆっくり深呼吸をすると、めがねを外し、両手で顔を覆った。


「ある日、母がやってきて言いました。いつまでこんな生活を続けるのか、と。僕はとうとうこの時が来た、と思いました。そして、選択しなければならなかった。僕はその場で母を刺し、悲鳴を聞いて駆けつけた父も刺しました」


 鼻をすする音が聞こえた。高梨は涙をためたまま顔を上げた。


「ご両親は亡くなったの?」


「生きてないと思います」


「というと?」


「救急車は呼びましたが、僕はそのまま家を飛び出してそれっきり」


「でも、それだけの事件、テレビなんかで出たろう。それに、警察だって追ってきたはずだ」


 病院で会った刑事を思い出す。


「僕は勇気の無い人間です。ここまで逃げてきて、拾われて、今まで何も考えずに生きてきました。テレビや新聞は見ません。それらしいニュースを見付けたら、目をそらします。そうしないと、僕の心はもたないんです」


 高梨は乱暴にグラスを掴むと、水を一気に飲み干した。グラスを置いた手は組み合わされ、まるで懺悔をしているように彼は頭(こうべ)を垂れる。


「僕は弱い人間です」


「だから、この才能が欲しかった?」


 高梨が頷く。


「君は……」


「わかってます。全て僕が悪い。このまま、ここでの生活もずっと続けば良いと思ってますが、そういうわけにもいかないでしょう。終わりの日を、少しだけ先延ばししているだけに過ぎないことも、わかっているんです」


 夜の気配は時として人間に、いや、人間以外にも不思議な効果をもたらす。夜は皆、素直になる。抑圧してきた内面が胸の奥の奥から這い出てきて、喉元を食い破り姿を現す。昔、夜中にラブレターを書いたことを思いだした。朝になって読み返すと、とんでもなくキザな文面に赤面したのを覚えている。彼も、朝になって酔いが醒めたらこの告白を恥ずかしく思うだろうか。


「でも、これを終わらせる、最後の一歩がどうしても出ない。何か、僕に新しい力が宿って、自信を付けることが出来たら踏み出せる気がするんです」


 高梨が合わせた手を解いた。懺悔はここで終わりのようだ。


 俺は彼にかけてやる言葉を持ち合わせていなかった。俺にはその資格は無い。だからこそここにいる。ここで彼に説教などしようものなら、とんだ勘違いだ。


 それでも、何か言おうとして口を開いたとき、どこかからエンジェルの叫び声が聞こえた。


「何だ?」


 突き動かされるように、声が聞こえる方へ走った。立ち上がった拍子に机にぶつかって、グラスが落ちた。背後でグラスが割れる音がする。


 悲鳴は二階だった。一階の部屋から豚が飛び出してくる。手にビデオカメラを持っていた。


「今のは何だ?」


 豚は答えなかった。血走った目で行く手を睨み付けるようにして、舌なめずりしている。その姿は餌を見付けた野生の豚のようだ。


 ようやく部屋の前にたどり着くと、豚が躊躇鳴くドアを開けた。鍵はかかっていなかった。彼は部屋に踏み込む前からビデオカメラを構えていた。


 暗い部屋で、何かが激しく上下していた。電灯のスイッチを入れた。女の子らしい、ファンシーな部屋だった。白を基調とした部屋で、ぬいぐるみや天蓋付きのベッドが置かれている。しかし、今の彼女の姿はそのファンシーな雰囲気に全くそぐわなかった。さきほど上下していた何かが、エンジェルの体だと言うことに気づく。振り返った彼女の額がぱっくり割れていた。白い寝間着に血が垂れて、現代アートのようになっている。


「馬鹿、何やってんだ」


 慌てて駆け寄る俺を、豚が叱咤し撥ね除けた。何故彼が怒っているのか理解できない。カメラを回すよりもやることがあるだろうと思った。


「こっちの台詞だ」


 吐き捨てるように言うと、再びエンジェルへ歩み寄ろうとした。だが、再び豚に突き飛ばされて尻餅をつく。


 エンジェルは頭を床に叩き付け続ける。床だけで無く、壁や本棚にまで頭をたたきつけた。まったく力を加減しないので、血が飛び散り、肉がそげ、骨が割れる。俺が飛びついて抱きしめたとのと同時に、彼女の体は力なく崩れ落ちた。力の抜けた彼女の体は、砂の詰まったサンドバッグのようだった。


「そ、そんな……」


 俺は声にならない叫びを上げた。声を出そうにも、のどから出てくるのは風を切るような音だけだった。


「きゅ、救急車」


 思い出したように振り返って言うと、豚は興奮した表情で撮影していた。舌舐めずりの合間によだれを垂らし、それをすする音が汚らしく聞こえた。


 入り口に高梨が現れた。彼は手に輸血パックを持っていた。


「救急車……」


 目が合うと、高梨は静かに首を振った。


「ベッドに運んでください」


 言われるがままに運ぶと、彼は手慣れた手つきで彼女の腕に針を刺し、輸血を始めた。天蓋付きベッドの脇には、部屋の様子にはそぐわない医療機器が揃っていた。これを見る限り、彼女のこういった行為は日常的な物なのだろう。


「行き過ぎた自傷行為……と言って良いのかわかりませんが、彼女はときどきこうなるんです。お酒が入るとなりやすいですね」


 俺の手は震えたままだ。彼女の温もりがまだ手に残っている。


「た、助かるのか」


「ええ。彼女は死なない体ですから」


 たとえ自分で体験したことといっても、この惨状を見て彼女が再び生き返るなんて信じられない。


「あとはソッとしておきましょう」


 高梨は豚を促して部屋を出た。彼女が再生するところを見たかったが、俺も部屋から出た。


「彼女は、時々嫌な記憶がフラッシュバックしてくるらしいんです。それを忘れるために、薬を飲んで暴れます」


「薬を飲むのに暴れるのか」


「ええ。薬を飲まないともっと酷いです」


 彼はため息をついた。振り返ると、豚がにやついた顔で、たった今録画した内容を確認している。彼女の部屋のドアは、そこから先が異次元につながっているように思えた。ヒンヤリとした空間にそっと佇むドア。彼女は今、あの内側で眠っている。

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