第8話

 エンジェルが叫ぶように言った。


「まさか、本当にいるとは思いませんでした」


 高梨も畏怖のこもった目で俺を見る。


「何のことだ?」


「今まで、大事故や何かで死にそうになったことってありますか?」


「いや……ない」


 過去を思い出してみても、そんなことは無かった。俺は健康だけが取り柄だった。骨折もしたことが無いし、貧血になったことも無い。


「そうですか」


 高梨は深呼吸した。正座したまま、俺を真っ直ぐに見据える。そして、ゆっくりと一言一言発音した。


「良いですか、あなた、死なないんですよ」


 あんなにゆっくり言った彼の言葉が、理解できなかった。


「何だって?」


 ワンテンポ遅れて、俺は聞き返した。


「信じられないのもわかります。実際、この目で見るまで僕も信じられなかった。でも、本当なんです。エンジェルもあなたも、死なない体なんです」


 だんだん熱を帯びてくる。俺は何か宗教のような物に絡め取られようとしている気がした。


「すばらしいことだと思いませんか。だって、これこそ神から与えられた力ですよ。今まで、死なない人を探していました。何人も候補を見つけてきては殺してしまって……本当のことを言うと、あなたも偽物なんじゃ無いかと思っていましたけど」


 高梨は照れたように笑う。今まで、同じようなことをしてきたというのか。人をだまして連れてきて殺して——。


 狂っている。再びそう思う。どう考えたって、少しも同意できない。


 死なない体だって?


 そんなものがあるなら、もっと大騒ぎしても良いはずだ。それこそ、かつての権力者達がこぞって欲した不老不死である。それが、平々凡々なこの俺に宿っているはずが無い。俺は人魚の肉を食べたことも無ければ、仙人と酒を酌み交わしたことも無い。


 逃げ出そうと思った。奴らは普通に見えてとっくに踏み外している。俺とは違う世界の住人だ。


「でもあなたは本物だ。是非、俺たちと一緒にここにいてください」


 高梨はまるで、神に祈るように手を組んでひざまずいた。その間もエンジェルは手を握ったまま俺を見上げている。これが宗教の勧誘でなかったら、彼らはただの狂人だ。


「ああ神よ……奇跡だ」


 高梨は涙を零した。


「まだ信じられないな」


 俺は呟いた。


「二回も死んだのに」


 エンジェルが笑う。


「死んだって実感が無い」


「もう一回死んでみる?」


「や、やめてくれ」


 慌てて手を離した。


「百歩譲って俺が本当に死なないとして……」


「死なないっていうよりは、死ぬけど生き返るんだよ」


 その二つにどういう差があるのか、俺にはわからなかった。


「じゃあ、生き返るとして、今まで俺みたいな体質の……体質って言って良いのかわからないけど、奴はいたのか?」


 エンジェルが首を振った。


「いえ……みんな偽物でした」


 高梨が唇を噛みしめる。


 偽物という言葉に違和感を覚えた。もし、何度も生き返ることが可能なのだとしたら、俺たちの方が人間の偽物みたいなものだろう。


「ちょっと疲れた。休ませてくれないか」


「ええ、どうぞ。ここを我が家と思ってゆっくりしてください。何か必要なものがあったら何でも用意します」


 言うと、高梨は深く頭を下げて部屋から出て行った。先程までの態度とは全く違うことに、調子を崩した。


 彼が出て行くと、俺はため息をついた。エンジェルは手を握ったまま俺を見上げている。


「どうしたの? 休んで良いよ」


 俺が見つめていると、彼女はそう言った。


「あたしのことは気にしないで」


 気になる。


「ちょっと休むだけだから」


 しばらくすると、彼女は渋々手を離した。ここで微笑んで見せられるようなら良いのだろうが、俺はそんなに器用な男では無い。それでも、彼女は名残惜しそうに俺の手を見つめ、それから部屋を出ていった。


 足音が遠ざかるのを確認すると、俺は起き上がった。今気づいたのだが、服が先程と違っている。恐らく、撃たれたときに血塗れになってしまったものを着替えさせてくれたのだろう。まだ、あのときの衝撃が残っている感じがする。だが不思議なことに、死んだという実感が無い。担がれているのでは無いかという思いが払拭できない。


 俺はソッと足を下ろした。腕から点滴の針を抜き取り、放り投げる。立ち上がった瞬間、足下に力が入らなくて倒れるかと思ったが、何とか持ちこたえた。耳鳴りがする。方向感覚も上手くつかめなかったが、それでもここから逃げ出さなくてはならないという脅迫じみた思いのおかげで、何とかドアまでたどり着いた。


 ソッとドアを開けると、すぐ先で豚が椅子に座っている。恐らく俺を監視しているつもりだろう。だが不本意だからか、真面目にこちらを窺っている様子は無い。


 音を立てず部屋を出ると、玄関へ向かった。下駄箱から俺の靴が無くなっている。逃げ出させないつもりだ。俺はスリッパを掴んだ。


 ふと玄関に備え付けられて鏡に釣った自分を見てみた。無精髭に脂ぎった肌。髪の毛もべったりとして元気が無く、目は光を感じない。俺もとっくに正常では無い何かなのかも知れない。


 玄関をあけると、冷たい風が俺の体を突き刺した。一瞬たじろぐが、戻るわけには行かない。俺は足を踏み出した。


 ちょっとした森のように、アパートは樹木に囲まれていた。ぼさぼさの下生えのまま放置されているが、一角だけ野菜などを植えてある区画があった。家庭菜園のまねごとのようなものだった。車で通ってきた方まで言ってみると、小さな門が見えた。そこから向こうは普通の道路だ。


 門の手前まで来ると、排気ガスの臭いが鼻をついた。嫌な臭いだが不思議と懐かしい。もう何年もこの臭いを嗅いでいないような気がした。


 門を抜けようとして足を止めた。


 今更どこへ行こうというのだ。


 彼らが狂っているだって?


 じゃあ自分はどうなのだ。


 俺は行き止まりにぶち当たったような感覚に襲われた。四方を囲まれて、どこにも行けない。それどころか、壁が迫ってくるようだ。


 あの暗い部屋で自殺を覚悟するまで、俺は緩やかに死に続けていた。そして、その閾値としてあの自殺があった。俺はもうとっくに壊れていたのだ。彼らと何も変わらない。人を批判するだけの資格が無い。


 踏み出そうとした足を戻した。振り返ると、エンジェルが佇んでいた。


「行くのかと思った」


 彼女はまた、感情の無い表情をしていた。不意に彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。手を伸ばし、止める。俺みたいな人間が、誰かの温もりに頼って良いのか。自問するが、答えは浮かばない。


 手を引っ込めようとすると、彼女が俺の胸に飛び込んできた。気づいたときにはもう抱きしめていた。彼女も俺の腰に手を回す。哀しくなるくらい、彼女の体は痩せていた。力を込めたら、簡単に骨を折ることが出来るだろう。少し力を込めてみた。


「痛いよ」


 彼女が呟くのを聞いて、俺は力を抜いた。思いの外、力が入っていたらしい。一瞬芽生えた感情は、何だったのだろうか。その正体を知るのが怖くて、俺はソッと彼女から手を放した。




「改めて、鈴村さんのメンバー入りを歓迎します」


 高梨が嬉しそうに缶ビールを掲げた。豚はすでに飲み始めている。老人も参加しており、彼はビールでは無く一升瓶を抱えていた。まだ午前だというのに、何という堕落した生活だろう。これでは自殺を図る前と何も変わっていない。


 見ると、エンジェルもビールの缶に口をつけていた。


「未成年だろう」


「わかってねえなあ。ここじゃあな、年なんて関係ねえんだよ」


 豚が呟いた。


「何もかもが自由なんだ。てめえも、うっせえことを言ってっとまた殺すぞ」


 言って、銃をこちらに向ける。銃の先端を見ると、高梨に殺されたときのことを思い出して、背筋が凍った。もう二度と死にたくない。たとえ、生き返れるのだとしても。


 高梨が豚から銃を奪い取った。


「おイタが過ぎるよ」


 豚は舌打ちをして、机の上のツマミを片手で掴むと、ビールをあおりながらどこかへ消えた。


「エンジェル、あんまり飲み過ぎないように。そうでないとまた……」


 彼は言いよどんだ。エンジェルは頬を膨らませて「わかった」と答えた。


 ふと見ると、廊下のそこかしこに俺の血が付いたままだった。それを見ただけで酔いが醒めてしまう。


「すみません。教育がなって無くて」


 高梨が上機嫌に、二本目を空ける。


「あの……」


「何ですか?」


「この……死なない能力? みたいなのは何なんだ。才能とか言ってたけど」


 高梨が急に真面目な顔になり、姿勢を正した。袖口を引っ張られる感覚に目を向けると、エンジェルが俺の服の袖を握っていた。目が赤い。酔っているのだろうか。


「それが、まったくわからないんです」


「医者には?」


 高梨が首を振る。


「死なない人間なんて連れて行って、友好的に検査をしてもらえると思いますか?」


 それはそうだ。


「医学書や、民俗学の類いまで調べましたよ。でも、どれもこれも、曖昧ではっきりとしてことが書かれていない。それはそうですよ。これは、神に与えられた才能なんですから。矮小な人間風情が理解できることでは無い!」


 急に大声を上げて立ち上がった。高梨は椅子の上に立ち、机に脚をかけてなおも声を張り上げる。


「神よ! 私の声が聞こえているなら、どうか才能をわけてください!」


 そう言って手を組む。ふざけているようには見えなかった。その姿勢のまま動かなくなる。


 エンジェルは顔を真っ赤にしていた。まだ半分も飲んでいないのでは無いだろうか。もう缶は置いて、ツマミばかり食べていた。

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