第7話









 結婚してすぐ、俺は浮気をした。会社の女の子だった。感情を表に出すのが苦手なタイプで、まだあどけなさが残る子だった。そのため二十三歳には見えなかった。高校生と言われても疑わなかっただろう。そんな彼女は、毎朝俺が所属する研究室に郵便を届けに来ていた。俺は自分の部署のこと以外は興味がなく、その子が普段どんな仕事をしているかなんて知らなかった。大学院を卒業して、何となく紹介された研究機関で開発の仕事をしていた。絶縁材料の組成の研究、選定や加工技術が専門だった。


 俺はいつも一番最初に出勤していた。一度、俺が遅れて出勤したとき、彼女が困ったように部屋をのぞいていたことがあった。機密が漏れないよう、常に気をつけていなければならないからだ。彼女は俺を見つけると、心の底からホッとしたように目を潤ませた。そして、郵便物の束を俺に差し出した。まるで、彼女からラブレターを受け取ったような気持ちがした。上気した彼女の顔は、今にも泣き出しそうで色っぽかった。


「そこにポストがあるのに」


 俺が言うと、彼女は「あっ」と声を上げた。ポストの存在を知らなかったらしい。


 それ以来、俺は毎朝必ず早めに来るようにした。俺は彼女にコーヒーを淹れて待っていた。彼女は一度もそれに口をつけたことはなかったが、俺は毎朝用意し続けた。すると、そのうち「勿体ないから」と言って外でコーヒーを飲む約束をした。どっちが言い出したのか、今では覚えていない。俺の心は弾んだ。彼女といるとき、妻の顔など少しも思い出さなかった。


 罪悪感が無かったかと言われれば、少しはあったかも知れない。しかし、苦悩するほどはなかった。


 それから一ヶ月もしないうちに不倫関係になり、半年ほど経った頃、唐突に彼女は「子供が出来た」と言った。それが本当かわからない。彼女は俺に、妻と別れろとは言わなかった。それどころか、俺が結論を出す前に彼女は姿を消してしまった。内心ホッとしていたが、すぐに後悔に襲われた。それから少しして子供が産まれたときも、彼女の言葉が俺を悩ませ、手放しに喜べなかった。それだけが、俺の心に引っかかっていた。


 彼女からの連絡はない。彼女の電話番号が、携帯電話のディスプレイに表示されている。しかし、俺が通話ボタンを押すことはとうとうなかった。俺は逃げたのだ。もし通話ボタンを押しても、もうつながることはなかっただろう。しかし、それでもボタンは押せなかった。




 目が覚めると、布団に寝かされていた。


 頭が痛い。


 一体、俺はどうして寝ているのだろう。


 今日は何日だ。


 仕事は?


 頭が痛い。


 妻はどこへ行った?


 いや、確か俺は離婚したはずだ。


 いや、それは夢だっただろうか。


 頭が痛い。


 ここはどこだ?


 そうだ、確か、変な女の子にここに連れてこられて……。


 頭が痛い。


 腕につながれている点滴を見て、俺は跳ね起きた。そうだ。俺は殺されたんだ。銃で……彼を信じていたのに。


 まだ多少混濁しているが、今回は記憶が戻るが早かった。


 俺は鈴村、四十五歳。リストラされ、自殺未遂を起こしここに連れてこられた。


 うん。覚えている。


 ふと、変な気分になった。俺は自殺未遂をおかした。あれは本当に自殺未遂だったのだろうか。俺とエンジェル以外は全員死んだ。何故、俺とエンジェルは生き残った?


 一度目の自殺未遂の後、多少混乱したが、前と比べて心が鬱にはなっていなかった。今もそうだ。何故、あんなにも死にたがっていたのか。


 ここは天国だろうか。噂に聞いていた天国とは似ても似つかない。宮殿の天井や壁に書かれているような、美しい世界ではなかった。それどころか、薄汚れたアパートの一室である。


 頭痛のせいで、うめき声が漏れてしまったらしい。横に豚と呼ばれていた運転手がいたことに気づかなかった。彼は俺が目を覚ましたことがわかると、俺の頬を叩いた。


「おい、てめえ。勘違いすんなよ。エンジェルはてめえのことなんて、これっぽちも気にしてねえんだ。ちょっと才能があるくらいでうぬぼれんな」


 一体彼が何を言っているのか理解できなかった。それより、顔が近すぎて臭い息が鼻にかかるのが不快だった。


「お前は新入りなんだから、俺に逆らうなよ。わかったな」


 そう言って、彼はもう一発俺を叩く。丁度エンジェルが部屋に入ってきた。


「おい豚野郎。なにしてんだ」


 エンジェルは手加減なしに豚の横腹に蹴りを入れた。あの細い体のどこに力があるのだろうか。彼女の倍は体重がありそうな彼の体が、転がっていった。


「大丈夫か」


 先程の狂気は微塵も感じられない。それどころか、今の彼女の眼差しは慈愛に満ちてさえいる気がした。


「エンジェル……」


 豚が息を荒げて彼女の足にすり寄った。彼女の陶器のような白い肌に自身の頬をこすりつける。


「気持ちわりいなあ」


 エンジェルが彼の頭を容赦無く踏みしだく。


「お、おいおい……」


「口出すんじゃねえ!」


 止めようとした俺を、怒号が襲った。何故……と思ったが彼の表情を見たら納得した。彼は重度のマゾヒストなのだろう。語調は荒いがだらしなく緩んだ表情が性的な恍惚を示していた。


「出てけ。あたしはこいつと話がある」


 お預けを食らった犬のような表情で、豚は彼女を見上げていたが、やがて何も言わずに部屋を出ていった。出て行く直前、彼は俺を睨み付けた。


「さて」


 彼女がベッドの端に座った。俺に顔を近づけてくる。


「本当に大丈夫?」


 ドキッとした。色素の薄い彼女の肌は透き通るように白く、若すぎるせいか触れたら壊れそうな気がした。本当に幼い少女のような表情である。まだあどけなさの残る顔は、しかし鼻梁が高くぱっちりした目のせいか、どこか偶像的で現実味に欠ける。思えば、彼女の顔を、正面からしっかり見るのはこれが初めてだった。こんな少女が、狂気を内に秘め、人を殺そうとしただなんて信じられない。


「痛む?」


 彼女の顔に見とれて返事をしなかったせいか、心配そうに俺の頬に触れた。豚に叩かれたところだ。


 彼女の口調は今までと違って、非常に柔らかかった。眼差しだけで無く、俺に対する態度自体が変わったように思える。


「ああ、ありがとう」


 自分を殺そうとした相手に感謝するなんて、全く以て馬鹿馬鹿しい話だが、俺はそんなことすら疑問に思わないくらい彼女に心を奪われていた。


 俺はロリコンじゃないんだ。彼女から目をそらす。


「それで、どうだった?」


 質問の意味がわからなかった。彼女の目は真剣に俺を射貫いている。緊張のためか、彼女ののどが鳴った。


「どういうことだ?」


「死んだ感想」


「なんだって?」


 聞き間違えたかと思った。


「あんたは死んだんだ。今回で二度目だよ」


「俺が……死んだ?」


 確かに、俺は頭を銃で撃たれた。死んだと言われれば納得できる。だが、現実に俺は生きている。これが現実だったらの話だが。


「ここは天国か何かなのか?」


 エンジェルは吹き出した。


「ここが天国だって? あたしには地獄に見えるよ」


 エンジェルが手首の傷を俺に見せつける。リストカットという奴だ。


「また叩かれたいのか?」


 そう言って、彼女は俺の頬に触れる。豚が叩いたところだ。


「いや、遠慮しておくよ」


 俺のちっぽけな脳味噌は現状を理解するには陳腐すぎるらしい。なんと言えば良いかわからない。


「一度目はあの車の中で。確かにあんたの心臓は止まってた。二度目は高梨の銃で」


 急にのどの渇きを覚えて、俺はベッドから降り立った……つもりだった。俺はすぐに地面に倒れ込む。


「血を流しすぎたんだ。大人しくしていた方が良いよ」


 言うと、彼女が俺を担いでベッドに戻した。


「水が欲しいの?」


 彼女はいったん部屋を出るとすぐに水のペットボトルを持って戻って来た。後ろには高梨がついている。俺は身構えた。先程の映像が頭をよぎる。実際はほんの一瞬だったのだろうが、俺にはスローモーションに感じられたから、彼の顔はよく見えた。申し訳なさそうな表情ではあったが、目に灯った光は別の感情を含んでいた。


 しかし、今、俺は生きている。どこにも怪我をしている様子はない。確かに、猛烈な痛みを感じたはずだが、一体どうなっているのだろうか。


「さっきは申し訳ありませんでした」


 部屋に入るなり、高梨が勢い込んで土下座した。


「ああするより仕方なかったんです。だって、普通に殺させてくれって言われて、素直に殺される人なんていないでしょう」


 高梨が顔を上げた。申し訳なさそうな表情をする。先程と違って、真摯な目だ。口調も変わっている。先程は馴れ馴れしかったのに、今では敬語だ。復活したイエスも、周囲にこのように扱われたのだろうか。


「いや……殺してくれるなら、それでも良いよ」


 俺は彼から目をそらした。


 そうだ。俺は自殺志願者なんだ。


 徐々に、あの時の気持ちが蘇ってきた。あの閉塞した部屋の中で、俺の全ては閉塞していた。感情も、思い出も、人生も。全てが閉じていたのだ。


「実際、俺は自殺志願者だし、今、生き残ってしまっていることが不本意なんだ」


 声がかすれた。思いがけず、悲痛な響きになってしまったようだ。沈黙が降りた。床がきしむ音が鮮明に聞こえる。


「だが一体どういうことなんだ。俺はてっきり死んだと思ったよ」


 そう言うと、急にエンジェルが俺の手を取った。今度は腕をもがれるのかと思って彼女を見ると、輝くような笑顔を向けていた。


「やっと見つけた!」

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