第5話





 車の中はパンクミュージックが大音量で流れていた。俺がまだ小学生くらいだった頃、流行っていた洋楽バンドだ。運転手の趣味だろうか。


 俺は先ほどから頭痛と闘っていた。


「ちょっと静かにしてもらえないか」


 俺の声は運転手には届かなかったようだ。


 血生臭ささが、俺の鼻をかすめた。俺の隣でぐにゃりと体を投げ出している彼女は、どう見ても死んでいた。血は止まっているようだが、ぴくりとも動かないし、あの首の角度は素人目に見てもやばい。心臓の音を聞いてみようか。


 手を伸ばして引っ込めた。少女の胸に触れることに背徳感を覚えたからだ。じゃあ、呼吸はどうだ。よく見ると、端整な顔立ちをしている。擦り傷と血で汚れているが、若い頃特有の幼さのようなものが残っていて、唇なんて薄くて柔らかそうだ。鼻も小さくて、犬みたいだ。眺めていたら恥ずかしくなって、呼吸を確認するどころじゃなかった。


 たばこが欲しい。何もかも忘れて、ただ煙を吸っては吐くだけの作業に没頭したい。


 俺はぎゅっと目をつぶった。




 車の振動で目が覚めた。眠ってしまっていたようだ。あんなことがあったのに、信じられない。ふと横を見ると彼女の死体は無くなっていた。夢であってくれたら良いのに、シートに付いた血の跡が生々しい。


 今の車の振動は、あの運転手が車のドアを閉めたからのようだ。窓の外に、彼女を担いだ彼の姿が見えた。老人もいなくなっていた。


 車を降りると、あたりは鬱蒼と木が生い茂っていた。といえば聞こえは良いが、手入れをせずに放っておいた、といった方が正しいだろう。下生えも野放図に広がっている。


 運転手が入っていったのは、ぼろぼろの木造アパートのような建物だった。ぼろぼろではあるが、生活感があった。小さいながらも家庭菜園のような物もある。


 これからどうしよう。俺は建物を見上げて考えた。俺のアパートには、もう警察が来ていそうだ。何をしたわけでも無いが、事情を聞かれるのは面倒だ。それに、早くもう一度決行せねばならない。俺はもう、一秒だってこの世にいたくないのだ。しかし、先程の彼女の死体を思い出すと背筋が凍った。怖い。


 息を吐くのと同時に腹が鳴った。そういえば、随分食べていない気がする。


 ポケットに手を入れてみても、子供の駄賃ほどの金しか入っていなかった。俺は思い切ってアパートの扉を開いた。


 扉を開いた途端、良い匂いがした。普段なら気にも留めないような僅かな匂いだが、今の俺には魅力的すぎる匂いだった。


 玄関で靴を脱ぎ、匂いをたどると、共同の台所のようなところだった。まな板を包丁が乱暴にたたく音が聞こえる。先ほどの運転手だろうか。もしくは、このアパートに住む他の住民だろうか。


「包丁が切れない」


 声が聞こえてはっとした。この声は……。


 慌てて台所に駆け込むと、あの少女だった。肩まである金髪のせいで、一瞬別人かと思ったが、振り返った顔は確かに彼女だった。確かに、彼女は死んでいたはずだ。あれで生きているわけが無い。


 急に膝の力が抜けて、その場に座り込んでしまった。震える指先で彼女を指す。


「あ……」


 血が、まだ顔に張り付いたままだった。


 俺は悪夢を見ているのだろうか。


「つまみ食い禁止」


 病院から一緒に着いてきた老人が、鍋からお玉でスープをすくって飲もうとしていた。それを彼女が突き飛ばす。老人は骨と皮だけの痩せこけた体だったので、簡単に吹き飛んだ。


「ちゃんとあんたの分もあるから」


 老人はしょんぼりした様子で椅子に座った。彼は病院服のままで裸足だった。


「よくもあたしを殺してくれたな」


 少女は俺に向き直った。


「え? あ……あ?」


 声にならなかった。事態がうまく飲み込めない。


「どうし……」


 言い終わらないうちに、彼女の拳が俺の顔面をとらえた。視界が白くなった次の瞬間、鼻が熱くなった。どろっとした感触を唇に覚える。


「これであいこ」


「あいこって……」


「あたしは一回あんたに殺されてるしな」


 笑えない冗談だった。俺の笑顔は引きつっているはずだ。


 彼女は首をポキポキ鳴らした。俺はジッと彼女を見つめる。


「なに」


 不意に目を背けるその顔には、まだ幼さが残っていた。肌は白くなめらかで、ニキビ一つ無い。さぞ、同年代の女の子に妬まれることだろう。顔から続く首の皮膚表面は、同じようになめらかで、皺など一つも無かった。皺どころか、折れた形跡さえ見当たらない。


「いや……その首大丈夫なの?」


 首をならすのをやめ、急に彼女は笑い出した。それまでほとんど表情というものがなかったので、びっくりした。彼女もちゃんと喜怒哀楽を表に出せるのだ。


 何がおかしいのか、全くわからない。


「おい、こんなにエンジェルが笑うなんて珍しいぜ」


 運転手もこちらを見て笑っていた。エンジェル、というのが彼女の名前だろうか。本名にしては奇天烈過ぎるし、ニックネームにしては恥ずかしい。


 老人がテーブルの上のバナナに手を伸ばす。彼女はスイッチでも切れたみたいに、唐突に笑うのをやめた。老人からバナナを取り上げ、俺の鼻先に突きつけた。


「まだ確かめて無かった」


 そう言うと、彼女は玄関の方へ歩いて行った。


「どういうことだ?」


 運転手に聞いても答えず、彼は目を合わせようとさえしなかった。


 そして、戻って来た彼女の手には、金属バットが握られていた。彼女は鼻歌混じりに、それを弄んでいる。俺の目の前まで来ると、急に冷たい表情に鳴り、感情のこもらない目で俺を見た。その目を見つめ返すと、吸い込まれそうになる。そんなことを考えた次の瞬間、彼女は俺の頭に向かってバットをフルスイングした。


「おいっ……やめっ」


 間一髪のところでかわしたが、彼女は先程と同じ目付きで俺を見る。まるで、飛んでいる蚊を叩きつぶすように無感情に、落ちているゴミを拾うくらいの何気なさで、俺を殺しにかかってくる。


「冗談……だろ」


 彼女は何も答えない。口元には笑みを浮かべているが、どうやら冗談ではないらしい。


「おい、彼女を止めろ!」


 運転手に言うが、彼は嫌らしい笑みを浮かべるだけで、あろうことかカメラを構えていた。彼はいつもカメラを構えている気がする。


「おいおいおい……」


 狂っている。ここに来たのが間違いだった。一刻も早くここから逃げ出さねば。


 考えている隙に、再びフルスイング。勢い余って窓ガラスにヒットした。勢いよくガラス片が外へ飛んで行く。ほんの少し、これはドッキリないたずらで、俺を怖がらせているだけだと思っていた。あれは金属バットに見せかけたスポンジか何かだと——しかし、その淡い期待も窓ガラスと一緒に粉々に砕け散った。


「落ち着け……どうしてこんなこと……」


 もう一度フルスイング。窓ガラスがまた一枚割れた。彼女は俺の言葉を聞く気が無いらしい。ここは、交渉の上手い人なら説得するところだろう。しかし俺はそんなに雄弁では無い。面白い冗談でも言って場を和ませたい所だが、そんなキャラでもない。試しに口を開いてみるが、気の利いた言葉は、のどの奥で恥ずかしがって出てこようとしなかった。


 一枚、また一枚と硝子窓は散って行く。まるで春の桜のように、暴力にさらされて簡単に散って行く。俺はそれを見て美しいなどと考える暇もなく、命を守るために逃げる。


 今すぐにでも走って逃げ出したいが、今彼女に背を向けるのは危険だ。ゆっくり、後ろに下がって——扉を開くような音が聞こえたあと、背中に柔らかいものが当たった。


「何の騒ぎ?」


 頭の上から声が降ってきた。振り返ると、髪の毛が緩くウエーブした優男が立っていた。随分背が高く見える。俺は決して背が高い方では無いが、彼とは二十センチ近く差があるように思える。ちょうど、彼の部屋の前で、今まさに出てきたところだったようだ。


「エンジェル。何事?」


 彼もエンジェルと呼んだ。やはり、これが彼女の名前のようだ。彼女がエンジェルだって? どう見ても、今の彼女は悪魔にしか見えない。


「こいつが本当に才能があるのか見てみようと思って」


 良かった。彼女の手が止まった。先程までの無感情な、冷たい彼女は消えて、今は叱られた犬のような表情になった。ようやく、凶暴な天使が人らしさを取り戻したらしい。


「才能だって?」


 未だ嘗て、俺は自分に何かの才能があると実感したことが無い。それなのに、彼女は俺の中に何某かの才能を見いだしたというのだろうか。


「まだ説明してないの?」


 彼は子供をあやすような声音で彼女に尋ねた。彼女はしょんぼり頷く。その頭を、彼はぽんぽんと叩いた。


「だ、だって、体験してみるのが一番じゃない……かな」


「でもいきなりそんなもの振り回されたら、彼だって怖いよ。ねえ?」


 彼が俺にほほえむ。思わずホッとするような、柔らかい笑みだった。


 彼女の表情からは、狂気が消えていた。ひとまずは安心できるようだ。


「まあまあ。とりあえず朝食にしよう」


 彼が言うと、エンジェルは台所に引き返した。


「悪かったね。彼女は良い子なんだけど、直感的に行動してしまうからね」


 ホッと吐息をついて、俺は彼女の後ろ姿を見た。あんなにか細い体のどこにあんなパワーが隠されていたのだろう。自分のパワーの無い体を見下ろして年齢を感じた。腹を突いてみると、柔らかい肉が指を押し返した。


 エンジェルが、台所に入るやいなや奇声を上げた。俺は優男を見上げたが、彼は焦る様子も無くニコニコしていた。俺は慌てて台所へ向かった。今度はあの老人を殺そうなどとするのでは無いかと思ったからだ。

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