第4話





 病院というのは、何もすることがない。検査をして、簡単なカウンセリングを受け、寝ているだけだ。この部屋には八つのベッドがあり、そのうち人がいるのは三つだけだった。やぶなのだろうか。三つの内二つは老人で、退屈した。一人の老人はなにやら、フガフガと呟きながら、ベッドの上で手を振っている。よく見ていると、囲碁か将棋でも指しているように見えてくる。麻雀だろうか。彼らに見舞客は来なかった。俺にも、見舞いに来てくれる人はいない。この老人達と同じだ。あとは死に行くのを待つだけ。こんな風に生きていて、生きていると言えるのだろうか。死んだように生きている、ということばが似合う。


 茫漠たる俺の人生。ジッとしてやることが無いと、嫌なことばかり考えてしまう。寝ることしかすることがないので、一日中寝ている。そのため、夜になっても、横になってみても眠れない。


 天井を見上げる。染みが浮いていた。顔に見えなくも無い。小さい頃、家の壁に浮いた染みを怖がっていた。いつあれが壁の中から出てくるのかと思っていた。奴に聞こえるかもしれないと思って、親に相談さえ出来なかった。。今でも、目を閉じるとあの染みから何かが這い出してくるイメージが襲ってくる。子供の頃のように、目を閉じ空想にふける。制約も無く好きなだけ空想して良いと思うと、それは果てしなく広がった。いつしか俺は眠りに落ちた。




 目を覚ますと、すでに消灯されていた。今が何時であるのかわからない。しばらくぼんやりした頭で、薄く照らされている天井を見上げる。いったいどんな空想をしていたのか、思い出せなかった。


 誰かの足音が聞こえる。看護師だろうか。


 足音は部屋の前で止まった。中を覗き込んでいるような雰囲気。その後、そっと部屋の中に入ってくる。懐中電灯のライトが、カーテンを照らす。俺のベッドは入り口側にあった。


 足音がこちらに近づいてくる。そして、少しの遠慮も無く勢いよく開かれた。


 驚いて見上げると、そこには純白のナース服を着た美女……ではなく、あのときの少年が立っていた。いや、本当は少女だったか……どちらでも良い。今の彼女は、また男の子のように見える。深く帽子を被って、黒いブルゾン、細身のジーンズという格好は、中学生くらいの男の子に見える。


「迎えに来た」


 素っ気なく、彼女は言った。言われてみると、女の子のような声だ。無理に低くしているせいか、言われなければわからない。いや、俺が鈍感なだけか。


 彼女はくるりと振り返ると、入り口の方へ歩いて行った。俺が呆然とその後ろ姿を眺めていると、彼女は振り返って言った。


「何してる。おいていくぞ」


「待ってくれ。何故、君は俺を迎えに来たんだ。いや、俺をどこへ連れて行くつもりだ」


 彼女はため息をついた。


「お前、ややこしい奴だな。来るのか、来ないのか」


 あきれ顔の彼女に、俺もあきれた。だが、ここにいても仕方ない。ベッドから降りて歩き出そうとすると、腕に痛みが走った。点滴を受けていたのを忘れていた。俺が迷っていると、彼女が早足で近づいてきて、俺の手から点滴の針をむしり取った。思わず悲鳴を上げた。


「馬鹿! これくらいで何だ、男のくせに」


 俺の悲鳴で、向かいのベッドで寝ていた老人が飛び起きた。寝ぼけているのか、何かフガフガ言っている。


 廊下から足音が聞こえてくる。


「馬鹿……お前は本当に馬鹿だ」


 彼女が病室から外をのぞいてため息をついた。


「人が来る」


 言うやいなや、彼女は病室から飛び出した。俺も慌ててついて行く。背後から男が叫ぶ声が聞こえた。刑事の声だ。俺のことを見張っていたのだろうか。いや、彼女を待っていたのだ。俺が、幹事は少年だと言ったことで、この少女が今回の首謀者だと言うことがばれた。そして、彼女がまた戻ってくることを期待して張り込んでいたに違いない。


 刑事の足音に混じって、ペタペタと力の無い音が聞こえた。振り返ってみると、向かいのベッドにいた老人が、足を引きずるようにしてこちらに走ってきていた。何か言っている。


 前方からも足音が聞こえた。こちらは刑事では無く、ナースだった。俺の名を呼んでいる。だが、俺は立ち止まるつもりは無い。まさに脱兎の如く走る彼女について行くのに精一杯なのだ。


 階段を駆け下りる。


「何の騒ぎです?」


 警備員が俺たちにライトの光を当てた。彼女が慌てて反対方向へ走り出す。反射的に警備員も追ってきた。


「おい、どこへ行くつもりだ」


 彼女は答えなかった。正面玄関の自動扉を開けようとしたが、無駄だった。扉を破ろうというのか、思い切り蹴り始めた。


「夜間は開かないよ。それに、開いたとしても、シャッターはどうするつもりだ」


 彼女は俺を睨むと、やはり何も言わずに階段を駆け上がる。俺は寝起きでいい加減ヘトヘトだったが、必死に彼女の後ろについて行った。


 彼女はそのまま一気に三階まで上がると、姿を消した。驚いてあたりを見回しても、ほほに風を感じるだけで、姿は見えない。背後からは、どんどん増えて行く追ってが迫っている。


 焦った。掌にじっとりと汗をかいている感触。彼らに捕まったら、今度は動けないように縛り付けられてしまうかもしれない。俺は一刻も早く、この世から消え去りたいのだ。邪魔をしないでくれ。


 ふと見ると窓が開いていた。まさかと思い下をのぞくと、車の上で彼女が手を振っている。


 俺は身震いした。ここは三階だ。あんなところに飛び降りて無事でいられる自信が無い。だが、俺は思い直した。無事でいる必要は無い。よしんばここで死んでしまったとしても、むしろ好都合だ。俺は今一度窓から下をのぞいた。彼女が「早くしろ」と叫んでいる。死んでも良いとは思っても、恐怖まではぬぐえない。迷っている内に、俺は囲まれてしまった。


「鈴村さん。自分の立場、わかってるでしょう? 煩わせないでください」


 ナースが近づいてこようとするのを制して、刑事が言った。


「すみません」


 つい、くせで謝ってしまった。心底自分が嫌になってくる。


「さあ」


 刑事が手を差し出してくる。ごつごつした手だ。今まで、この手でどれだけの犯人を捕まえてきたのか。俺なんかが逃げ切れるはずが無い。


 再び窓を振り返る。これこそが、俺の進むべき扉なのに、あと一歩が踏み出せない。外から彼女の呼ぶ声が聞こえた。


 そのとき、ナースや刑事達の群れから老人が飛び出してきた。そして俺を押しのけて、迷い無く窓から飛び出した。


「あっ」とナースが言う前に、彼は姿を消した。数秒遅れて、ナースが悲鳴を上げる。刑事が嫌な顔をした。


 慌てて窓に駆け寄る。老人は彼女にキャッチされ、車の上から一緒に転がり落ちた。荒っぽい救出劇だ。


「おい、何してる。こいつは誰だ」


 彼女が憤慨した様子で怒鳴った。体中擦り傷だらけになっていた。


 あんな老人でも飛べたのだ。俺は決心して、窓のサッシに足をかけた。


「馬鹿なことはやめなさい」


 刑事が俺の体を捕まえようとする直前、俺はぎゅっと目をつぶって窓から飛び出した。


 血が引く感覚。


 一瞬、落ちているのか上っているかわからなくなった。随分長く感じたが、おそらくほんの一瞬のことだったのだろう。カエルが潰れるような声がしたのと体に衝撃を感じるのが同時だった。俺は彼女に抱き留められたらしい。大の男が、こんなか細い少女に抱かれるなんて……。


 先に彼女にキャッチされた老人は、枯れ木のような体だったので彼女も怪我が無かったようだが、俺は体重が六十キログラムはある。彼女が衝撃に耐えられるはずも無く、老人の時と同様車の上から転がり落ちたが、俺の体の下で嫌な音がした。


 目を開けてみると、彼女の首はあらぬ方向を向き、頭から血を流していた。


「うわぁあ」


 俺は情けない悲鳴を上げて後ずさった。体中が震える。手に力が入らず、その場に崩れ落ちた。


 人を殺してしまった。それも、子供を。


「早く乗れ!」


 運転席から苛ついた声が降ってきた。声のした方向を見ると、太った男がビデオカメラを回していた。


「な、何して……」


 裏返った声で言うと、男は平然とした顔で運転席から降りてきて、彼女をアップで撮影し始めた。


「てめえこそ何してんだ。早く彼女を中に運べよ」


 俺は腰が抜けて立ち上がれなかった。それを見た彼は舌打ちし、カメラを彼女に向けたまま、器用に車に乗せた。彼の巨体と彼女の細い体とでは、象と蟻のようだ。彼は片手で軽々彼女を持ち上げ、まるで壊れ物を扱うように優しく彼女を乗せると、今度は俺をぐいと引っ張って車に押し込んだ。後部座席にはいつの間にか老人も乗っていた。加えて彼女が不自然な格好で乗っているので窮屈だった。


 運転手は乱暴にアクセルを踏むと、急加速で病院から出て行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る