第3話
子供のいる生活は、今までとはがらっと変わった。生活の中心が子供になるからだ。子供は女の子だった。千佳と名付けた。小さな女王様という表現がぴったりだった。夜中でも容赦なく起こされる。常に気が張っていた。それでも幸せだった。
千佳が二歳の時、妻が浮気していることを知った。問い詰めると、千佳もその男の子供だという。目の前が真っ暗になった。
そのまま家を飛び出し、当てもなく歩いた。世の中全てが欺瞞に満ちているような気がした。空に輝く太陽さえも、俺を騙しているんじゃ無いかと思った。
この頃の俺は心を病んでいた。俺の周りの人間全てが、俺をあざ笑っているように感じた。怖くなって家から出られなくなった。病院へ行くと、鬱病だと診断された。その日から仕事は休んだ。妻も娘を連れて出て行った。一人きりで家の中にいると、どんどん気分が落ち込んでくる。普通だったら考えることさえないような妄想さえも、現実のような気がしていた。
一年も休むと、貯金が底をついた。だが、まだ外には出られなかった。そんなとき、宗教の勧誘がやってきた。ドアを開けると、二人組の女性が立っていた。何か面白くも無い話を熱心していたが、何を話していたのかは覚えていない。しかし、彼らが持っていた神の像がやけに気になった。俺は無理を言ってそれを売って貰うと、滅茶苦茶に壊した。もしこの世に神がいるのだとしたら、どうして俺にばかりこんな仕打ちをするのだ。復讐してやる。復讐してやる。俺の運命を滅茶苦茶にした神に復讐してやるのだ。粉々になった神の像を、さらにミキサーにかけて食べた。神を食ってやった。いつの間にか、勧誘の女性は消えていた。俺を不気味に思ったのかも知れない。
そして俺は鬱を克服した。
頭痛に目を覚ますと病院のベッドの上だった。頭痛が酷くて、何故、自分がこんなところに寝かされているのかわからなかった。ふと見ると、よれたスーツの男が看護師と話していた。彼は俺に気がつくと慌てて歩み寄ってきた。寂しい髪の毛が、申し訳程度に踊った。
「鈴村さんですね。お話よろしいですか」
鈴村というのが自分の名字であることさえ、最初はわからなかった。記憶が混沌としていた。
「今日が何日かわかりますか」
俺は小さく首を振った。本当にわからなかった。
「私はこういうものですが」
そう言って彼は警察手帳を開いてみせる。
「あなたがどうしてここにいらっしゃるか、わかりますか」
俺は首を振る。
「妻は?」
俺の問いに刑事は怪訝な顔をする。
「鈴村さん。離婚なさったでしょう?」
離婚だって? 俺が?
「じゃあ子供は? 子供はどこですか」
刑事はやれやれといった様子で頭をかいた。
「どうも記憶が混濁されているようだ。看護師さん」
先ほど刑事と話をしていた看護師が医師を連れて戻ってきた。彼らは俺の脈を測ったり体温を測ったり、まるで俺が病気であるみたいに調べ始めた。
いや、ひょっとすると俺は病気なのかもしれない。
自分自身のことを思い出そうとすると、頭痛がした。俺は考えるのをやめた。
しばらく俺の体を調べた後、急に興味を失ったように医師は俺の体を触るのをやめた。
彼は淡々と説明を始めた。俺が車の中で練炭自殺したこと。その場にいた俺ともう一人以外は全員死んだこと。これから後遺症が残るかもしれないこと。
そうだ。俺は自殺したんだ。練炭で。
徐々に記憶がよみがえってくる。俺は年度をまたぐついでにリストラされて、もう人生に疲れた四十代半ばの冴えない男であり、ついでに、この世に全く未練など無いことも。
「今日は何月何日ですか」
刑事が答える。二日経っていた。
「生き残っていたもう一人というのは?」
「それが、ちょっと目を離した隙にいなくなってしまったんです」
いったい誰だろうか。あの少年は死んでしまったのだろうか。
「それでですね、あなたたちはどんなつながりだったんですか」
刑事が尋ねる。医師は鬱陶しそうに眉をひそめた。そして、あとを看護師に任せると大股で部屋から出て行った。
「自殺の……インターネットで募集していて、みんなで自殺しようって言う集団でした」
刑事はあごをかいた。無精髭が不潔そうに見える。自分のあごを触ってみると、同じように無精髭だった。顔が脂っぽい。
「最近、その手の話が多いんですよ。だいぶ少なくなってはきましたがね、まだある」
刑事は早口に法律などの話をしてから、改まったように咳払いをした。
「まあ私も、こんな説教するために来たわけじゃないんですよ。これも仕事ですから、申し訳ない。本題はここから。あの車、盗難車だったんですよ。盗ったのはあなたですか?」
俺はベッドから転げ落ちそうなほど驚いた。比喩ではなく、何もないところに手をつこうとして体勢を崩したのだ。
「ま、まさか」
俺は慌てた。まさかとは思っていた。あんなことに使う車だし、それにあんな少年が運転しているのだ。彼は免許さえ持っていないのではないだろうか。暖房の付け方も知らなかったようだし。
刑事はジロリと俺を睨みあげ、唇を舐めた。俺を値踏みするみたいにゆっくり顔や体に視線を移す。嘘の兆候でも見破ろうとしているのか。それなら残念ながら、嘘では無い。
「では、今回の幹事役の方はどんな方でしたか」
「少年……とても若い感じの方でした」
刑事は露骨に憮然とした顔を見せる。片手をポケットに突っ込みため息をついた。
「少年……ですか」
残った片手で手帳をめくり、視線だけをこちらに向ける。
「はい」
何を疑われているのかまったくわからない。あの少年のことを思い出す。もし、あの少年が生き残っているのだとしたら、彼は人が死ぬところを見るのが好きなサイコパスかもしれない。俺たちが死に行くのを見て楽しもうと、あれを企てたとも考えられる。
わからない。何もわからない。頭が本当に働かない。
「少年といえるようなのはいませんが」
「え?」
驚いて刑事を見た。言葉の意味が理解できなかった。まだぼけているのだろうか。
「だから、少年なんていませんでしたよ」
「いなかった?」
「はい。男性が四人。女性が二人」
「女性が二人?」
「ええ。女性と言うよりは、少女と言った方が適切でしょうか」
俺は「あっ」と声を上げた。少年ではなく、あれは少女だったのだ。道理で幼く見えたはずだ。それに、あの声。声変わりする前の少年のようだと思ったが、あれは少女の声だったのだ。
言われてから、あれが少女以外の何物でも無いような気がしてきた。何故、俺は少年だと思ってしまったのだろうか。おそらく、服装が男の子のようだったからだ。俺はあのとき、人をじっくり観察する余裕はなかった。
俺は呆然と、目の前のベッドを眺めた。そこに彼女がいたわけではないが、どうしてかその空のベッドに彼女の残り香を感じた。
「鈴村さん?」
俺は答えなかった。
「また来ます」
刑事は帰って行った。俺がどこへも行かないと思ったのだろう。まだ、記憶がごちゃごちゃだ。だが、さっきよりはずっと良い。
あの臭い男もめがねの男も死んだのか——自分の手をジッと見つめる。血色は良かった。死人には見えない。腕からはチューブが伸び、点滴へつながっていた。これは人を生かす装置だ。
俺は生き残ってしまったのだ。あのとき、あの場にいた誰よりも死にたかったはずなのに。
俺は手を見つめたまま、考えた。次は別の方法で自殺しよう。苦しくはなかったが、頭痛は酷いし混乱するし、今回のように死に損なうのはたくさんだ。
思いの外時間が経っていたらしい。食事の時間になった。
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