第2話
俺は子供の頃犬を飼っていた。中型犬で、学校の帰りに捨てられていたのを拾ってきたのだ。母は最初いやな顔をしたが、父が飼っても良いと言った。名前はチロ。目がまん丸で星のように輝いていた。夜、親に内緒で布団の中で一緒に寝ることもあった。当然、朝起こしに来た母には大目玉を食らったが、俺は布団が犬臭くなろうと気にしなかった。
チロの鼻はいつも冷たくて気持ちよかった。触ろうとすると嫌がったが、俺は追いかけていって鼻をつまんだ。そのたびに噛みつかれるのだが、すぐにチロは申し訳なさそうに噛みついたところを舐める。それが可愛くて仕方なかった。
顔が冷たい。まるでチロが鼻を押しつけてきているみたいだ。
乱暴なブレーキの音で目が覚めた。目を開けると、すでに数人の人間が、距離を取って立っていた。見ただけで、自分と同類だと確信した。彼らの背負う負のオーラが、彼らの絶望の程を語っていた。
ブレーキ音のした方を見ると、黒いバンだった。俺も彼らも、すぐにわかった。この車だ。まるで不吉なものを運ぶかのように黒光りする車体の運転席が開いた。
「みなさん」
若い声だった。声変わりする直前の男の子のような、ハスキーな声。こんな会を主催するからには、もっと疲れた年配の男を想像していた。
「時間です」
素っ気なく言う彼の姿は、帽子とサングラス、黒い布のようなものを被っているせいでよくわからなかったが、見ようによっては子供のようにも見えた。ふと、例の自殺サイトを思い出した。
「本当に大丈夫なんだろうな」
人影の一人が言った。声が震えていたが、主催が少年と知って高圧的な態度に出たのだ。
少年は何も答えず、再び運転席へと戻った。人影は互いに視線を交わした。彼らは何をそんなに不安がっているのか。俺は自分を殺してくれるのならば、子供であっても大人であっても、人間でなくたって良い。悪魔が存在するなら、喜んで魂を捧げよう。
俺は後部のドアに手をかけた。後部座席は二列になっており、俺は後ろの窓際を陣取った。チラと視線をあげると、ミラーの中で少年と目が合った気がした。もちろん、向こうはサングラスをかけているので実際はこちらを見ていたかどうかわからない。
視線を交わしていた人影も、俺が乗るのを見て恐る恐る乗り込んできた。先ほど無視された男は、何かぶつぶつ独りごちながら、最後に乗り込んできた。彼が扉を閉めると同時に、少年はアクセルを踏み込む。
「あ、危ないじゃないか」
独り言の男は慌てて抗議の声を上げたが、少年は素っ気なく言った。
「これから死ぬんですから、自動車事故だって練炭自殺だって変わらないと思いませんか」
この一言で車内は静まった。死、という言葉が出たことで、自分たちの目的を思い出したようだ。
みんな緊張しているのか、肩をふるわせたり、忙しなく視線をさまよわせていた。あの独り言の男は、興奮したように鼻息を荒げて独り言を続けている。
さっきの声を聞いて、俺は思った。もしかして彼は少年ではなく少女なのではないだろうか。だが、今から死ぬ俺には関係ない。
真っ暗な中、車は進む。途中何度か信号にさしかかったが、少年は少しも速度を緩める気配はなく、赤信号を突き進んだ。そのたびに独り言の男が抗議したが少年は無視した。
勾配がきつくなってきた頃、人家の明かりも見えなくなった。鬱蒼とした木々が夜を圧迫し、我々を監視している。道もでこぼこで揺れが酷かった。俺の横に座っている男は、もう何日も風呂に入っていないような饐えた臭いがして、車が揺れるたびに俺の方へもたれかかってくるので、たまらなかった。俺は精一杯彼から逃れるように窓に顔をくっつけて外をのぞいているふりをした。
唯一の女性が俺の斜め前に座っていた。独り言の男の隣である。彼女はうんざりするように、両腕でしっかり体を抱きしめ顔を背けていた。震えているのは恐怖からか、もしかしたら寒いからかもしれない。車の中は暖房が効いていなかった。標高が上がるに連れて、体感できるほど気温が下がってきている。窓際は寒かったが、隣に座っている臭い男が太っていたため、割と平気だった。しかし、彼女は白いニットの上着を着ているが寒そうである。
「おい、暖房はつかないのか」
またあの男が文句を言った。少年はそれも黙殺するかと思いきや、ルームミラーでチラとこちらを窺ってから言った。
「これから死のうって言うのに、快適にしても仕方がないかと思いまして。もしご希望でしたら、おつけします」
すぐに独り言の男がつけろと言った。少年は少し間を置いてから、スイッチをひねる。しかし、温風は出てこなかった。
「おい、何やってる」
少年は焦ったようにあちこちひねった。一度は冷風が我々を襲った。彼なりの嫌がらせかと思ったが、そうではないようだ。
独り言の男が舌打ちをして、目一杯温風にひねって強風にした。足下が熱かった。
しばらく無言で走った。今まで全く気にしていなかったが、この車には少年の他六人乗っていた。独り言の男、臭い男、寒がりの女性、めがねをかけた神経質そうな男、俺。臭い男を挟んで俺の反対に座っている男はよく見えない。めがねの男は今のところ一言もしゃべっていない。まるで子犬のように小さく震えているだけだ。
「おいっ!」
また独り言の男が声を上げた。ふと見ると、少年がたばこに火をつけたようだ。先ほど暖房のスイッチと間違えてシガーライターを発見したからだろうか。この車は少年のものではないのか。どうでも良い。俺には関係の無いことだ。
「吸うならせめて窓を開けろ」
少年はほんの少しだけ窓を開けた。
「どうですか?」
少年が缶を後ろに放り投げる。愛らしいキャラクタの缶だった。中には細いたばこが詰まっている。
意外なことに一番最初に手を伸ばしたのは、女性だった。そのあと、めがねの男。俺は迷ったがやめた。
女性は持っていたバッグの中からライタを取り出し火をつけた。すると彼女はキンキンした声とともにむせた。
「何よこれ」
かすれた声でつぶやく。
めがねの男も、彼女からライタを借りて火をつける。彼もまた大げさに咳き込んだ。
俺は興味が出て、一本もらった。火をつけるとすぐに、たき火の煙をそのまま吸い込んだような味がした。よく見るとフィルタがない。幼い頃、祖父が庭でたき火をしていたのを思い出す。のどがいがいがした。
思い切り吸い込んだからだろうか。コンクリートの割れ目から水が染み出すように、じんわりと何かが頭の中に染み出した。決して不快ではないが、快楽というわけでもない。何だろう……安心感?
「大丈夫なんだろうな」
めがねの男が恐る恐る尋ねる。彼らはすでに火を消していた。俺はもう一口吸い込んだ。
「これから死のうって言うのに、大丈夫も何もないでしょう。むしろ駄目な方が、あなた方には好都合じゃありませんか?」
少年があざけるように言う。俺は吹き出した。少年以外が一斉にこちらを睨む。俺は気まずくなり、たばこをくわえたまま外に視線を移した。
彼らは何でこんなくだらないことで、いちいち怒っているのだろうか。これが本当に死ぬ腹づもりで来た人間なのか。それとも俺がおかしいのか。
四口目を吸い終わった後、携帯灰皿にたばこを入れた。それと同時に車は止まった。
こんなところで——?
行楽にきたんじゃないのだから、駐車場に車を入れる必要が無いのはわかっている。それにしても何もないこんなのところで決行するのか。俺の人生の終点がこんなところなのか。そう思うと空しくなった。
少年が運転席から降りた。
「おい、どこへ行く」
独り言の男が叫ぶように言った。少年は俺たちの座席の後ろのドアを開けて、七輪と炭を取り出した。
今まで、七輪による一酸化炭素中毒自殺というのは都市伝説だと思っていた。それをこんな大まじめにやる集団があり、自分がその一員になるとは夢にも思っていなかった。
少年が準備するのに誰一人手伝おうとするものはいなかった。自分を殺す準備を、自分の手でするのが恐ろしいのだろうか。手伝うとは言っても、七輪に火をおこすだけだ。ボーイスカウトの小学生でさえ、こんなことは簡単にできる。
少年はすぐに準備を終え、七輪を車中に持ち込んだ。そして、ガムテープを投げて寄越し、目張りするように指示した。俺は一つ取って目張りし始めた。他には誰も手伝おうとしなかった。
俺が手の届く範囲の目張りを終えたとき、車中ですすり泣く声が聞こえた。独り言の男だった。彼はしきりに「死ぬ前にセックスしたかった」と繰り返していた。
彼に触発されるように、女性も、臭い男も泣き出した。
勘弁してくれ——。
臭い男の向こう側にいた男が目張りをしようとしたとき、独り言の男が車から飛び出した。
「お、俺はまだ死にたくねえ」
狂ったように甲高い声で言うと、闇の中に走り去って行った。少年は彼を一瞥すると、また作業に戻った。
そして目張りが終わる。
「不完全燃焼ってこれで良いんでしょうか」
少年の声が震えた。彼も怖いのだろうか。彼が顔を上げたとき、目が合ってしまった。
「さあ」
答えて下を向く。
女性の震えが大きくなっていた。
「もし不安な方がいたら睡眠薬も持ってきてます」
少年が抑揚のない声で言う。俺以外の全員が手を上げた。俺は必要なかった。すでに、睡眠薬は飲んでいたが、抵抗力がついたのか、眠れなくなっていた。
社内はすぐに静まった。俺はぼんやりと星空を見上げる。
「どんな感じでしょうね」
運転席から少年が言った。他の全員は薬が効いて眠っているようだ。
「何が?」
ルームミラーの中の彼と、サングラスの奥で目が合っていた。彼は俺に対して問うているのだ。
「練炭で死ぬ感じですよ。どんな気分で死ぬんでしょう」
「さあな。俺は死んだことがないからわからん」
「はははっ」
少年は甲高い声で笑った。俺は冗談なんて言っていない。ぎゅっと目をつぶった。
何か違和感を覚えた——そう思った数秒後、俺は意識を失った。それは永遠に目覚めるはずのない眠りだった。
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