第10話 証明される記憶 前

 村松は取り調べ室にいた。強制されるものではなく任意だったが、村松は警察の申し出をすんなりと受け入れた。取り調べるのは山本と林だった。


「態々お時間取らせてすみませんね」

「心にもない事を言わないで、それともすぐに帰してくれるのかしら?」

「それはあなた次第でしょうな」


 山本がそう言ってニヤリと笑うと、村松も余裕の表情で微笑み返した。林は二人の腹の探り合いを邪魔しないように、事実だけを記した資料を用意して見せた。


「まあ、一先ずはこの男の事ですよ。清水湊、この事件の一番の謎です」

「コウ君がですか?」


 村松は訝しみ聞いた。山本はそれに大きく頷いた。


「彼はですね、秋月が殺された後に血塗れで発見されました」

「…そんなっ!!あの子は無事なの!?」

「落ち着いてください村松さん。彼にはなんの怪我もありませんでした。体は健康体そのものです」


 立ち上がった村松は安心して胸を撫で下ろすと再び椅子に座った。しかしキッと山本を睨みつけた。


「どうしてコウ君の事を黙っていたんですか?私に彼の事を聞きに来ましたよね?私と彼の関係はその時お話したでしょう、無事ならそう伝えるべきでは?」

「それがそうもいきません。彼が無事かと言われればそうではない、我々が彼を保護した時に、彼はすっかり記憶を失っていたからです」

「は?」


 驚いた村松はぽかんと口を開けた。


「そのせいで彼について調べるのは苦労しました。何せ手がかりが殆ど何もない、それに彼自身が手がかりをあまり残さないように生きていた。それは時間がかかる訳ですよ」

「それはそうでしょうね、あの子はあなた達を恐れていたから」

「地獄に引き戻す鬼として?」

「役に立たない木偶の坊としてもね」


 山本は村松の言葉に肩をすくめて見せた。きつい物言いではあったが、過去の清水を救ったのは村松だ、彼を保障するべき人々が無能であった事は否めなかった。


「話が逸れました。結局ね、彼についていた大量の血は自分の物ではなかった」

「じゃあ誰のですか?」

「誰のものでもありません、偽物でした。ちなみに彼は血のついたナイフも持っていましたが、これも偽物でした。しかしある持ち物だけは本物だった」


 林は村松の目の前に証拠品を置いた。


「これは…、あの人の免許証?」

「そう秋月の物です。現場から持ち去られていました。偽物の血塗れだった彼は最初人騒がせな謎の人物でした。しかしその後秋月殺害の報告が上がってきて、彼は被害者の免許証を持っていた。一気に最重要人物へと様変わりですよ」

「でもコウ君の血は偽物だったんでしょう?なら疑っても仕方がないのでは?」

「そうもいきませんよ。あなたが通報者だから見たでしょう?あの血塗れの現場、そしてナイフで滅多刺しにされていた遺体、偽物だとしても状況が清水と被り過ぎるんですよ。現場から持ち出された免許証もそれに拍車をかけた」


 林は次に清水の診断書を村松の目の前に置いた。そこには全般性健忘と限局性健忘と書かれていた。


「何ですかこれは?」


 問われた林が答える。


「一口に記憶喪失と言ってもその種類は多岐に渡ります。原因や症状もです。清水の症状は全般性健忘、自分が何者だったのかや自分にまつわるすべての記憶がなくなっていた」

「だから捜査には時間がかかったんですよ村松さん。あなたの名前が清水から出てくるまでも難儀だった。それでも彼は頑張ってくれましたよ、自分が罪人かもしれないという恐怖と向き合ってね」


 山本はとんとんと指で机を叩き始めた。ゆっくりと叩く音でリズムを刻みながら話し始める。


「結局ね、彼を追い続けた所で犯人にはたどり着かないんですよ。彼はよく作られた時間稼ぎの道具です。犯人によって仕立て上げられた道具。彼の記憶を辿っていく内に気が付きましたよ」

「清水は過去の経験から人目につきにくい生活を好んでいた。そして警察等公的機関への不信感を抱いていた。頼れる人は少なく、何か問題に対処する時には自分しかいないと思い込む要素があった」


 林の言葉に山本が続いた。


「村松さん。清水の事をそこまで詳しく知る人物はあなた以外にいないんですよ。あなただけが、清水が最高の時間稼ぎに使えると知っていた。秋月殺しの犯人の一人はあなただ」




 山本の言葉を聞いて村松は鼻で笑った。そして見下すような目で山本達を見ると言った。


「何を馬鹿な事を言い出すかと思えば。私が犯人?私には…」

「ちゃんと話を聞かないといけませんな、犯人の一人だと言ったのです。あなたのアリバイは完璧だ、崩れる事はない。だから秋月殺害には実行犯が別にいる」

「馬鹿馬鹿しい、何を言って…」

「あなたは清水の事もよく知っていたが、秋月についてもよく知っていた。そりゃそうですよね、秋月と深い仲だったのだから。当然秋月の生活習慣もよく把握していたし、秋月の部屋に入る方法も知っていた」


 林の追求に村松は黙った。スンと無表情になってただ押し黙った。


「秋月は睡眠薬を危険な飲み方をしていた。意識障害を起こすような危険な飲み方だ。殺害される日、誰かに侵入されても気がつく事も出来ず、抵抗する力がない程だった」

「その日処方されている薬がほぼなくなるくらいに消費されていた。秋月が自発的に飲んだのか、それともあなたが酒に混ぜたのか、どちらにせよ原因はあなただ」

「何故私が?」

「消去法ですが他の候補がいないんですよ。秋月はよろしくないお付き合いがあったものの、その中でも煙たがれる存在だった。そういう奴はね、遠ざけられるんですよ。興味も持たれなくなる。秋月の関係者を当たってもね、大体嫌々答えるか、もう話を持ってくるなって奴ばかりでしたよ」


 秋月は迷惑なチンピラだった。昔はそうでもなかったが、死ぬ前はそうだった。過去の栄華にすがり、自分が大物だと思い込むだけの人物だった。暴力団とは距離を置いたのではなく、見捨てられただけだった。


「秋月に迷惑を被った奴はいても、関わりたいと思う奴はいなかった。面倒だったのだと思います。だから秋月の関係からは犯人らしき人物が上がらなかった」

「だから調べました。あなたと関係のある男についてです。随分とまあ多くの愛を持っていらっしゃる。その中の一人にね、こんな奴を見つけたんですよ」


 山本は写真を取り出すと村松に見せた。それを見て村松の体は一瞬だけ固まった。


茅野栄太かやのえいた。秋月と違ってこっちは本物の暴力団員だ、主に薬物を扱っているそうです。別に権力者という訳でもありませんがね。しかしこいつは聞く所によると過去に秋月を舎弟のように扱っていた。繋がりがあったんですよ」


 写真を置いて山本は話を続けた。


「茅野の舎弟だった秋月は薬物に関するある仕事を仕損じて捕まった。茅野は秋月を飼いならせなかった事が原因で責任を取らされた。悪目立ちが過ぎたんですよ、出る杭は打たれる。当然秋月にも責任を取らせようとしたが出来なかった。何故か。それは奴がまだ未成年だったからです。一人迷惑を被った茅野は秋月に恨みを抱いた。しかし奴に手を出せないまま秋月は茅野の前から消えた」


 秋月は守られた。どうしようもない人間ではあったが、社会に守られたのだった。報復によって命の危険があるとされ、秋月は茅野から離された。


 秋月にとってもそれは好都合だった。自分が舎弟で収まる器ではないと自負していたからだった。そしてその前科が彼を増長させ、結果として周囲の人間から煙たがられる要因となった。


 茅野は責任と始末をすべて背負わされ、秋月への恨みを募らせた。常軌を逸する怨恨は、長年蓄積されていたものであった。

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