第9話 判明の記憶

 清水はどれだけ自分が村松に世話になったかを懇懇と坂本に語った。彼女がいなければ今の自分がいないという事実は特に強調された。清水にとってそこは譲れない一線だった。


 話を聞く坂本は、清水の言葉に何一つ嘘がない事を理解出来た。心の底から清水は村松に恩義を感じている、だから嘘をついてまで約束の相手が彼女だったという事実を隠そうとした。そのせいで自分がどんな被害を被っても構わないと本気で思っていた。


「僕はあの日ユウカさんに呼び出されました。その声はとても深刻そうで、大切な相談があると言われました。そんな相談をユウカさんがするのは初めてで、頼られた僕は嬉しかった」


 恩ある相手の相談には応えたくなって当然だろうと坂本も思った。特に清水が生きて独り立ちできたのは村松の存在なくしてはありえない、それだけの大恩人だった。


「清水さん。気持ちは本当に痛いほど分かります。分かりますが、本当にそれが恩人の為になる事だと思いますか?」

「え?」

「村松さんはあなたに人の道を教えた。生活の術を教えた。あなたが一人でも生きていけるように立ち上がらせてくれた。立派な事です。他の誰にも出来なかったかもしれない。そんな恩人が、もしかしたら人の道に外れるような事に加担しているかもしれない。それを黙って見過ごす事が本当に為になる事だと思いますか?」


 坂本の言葉に清水は俯いた。変えず言葉がなかったからだった。もし本当に村松が殺人事件の何かに関わっていたとしたら、それを止める事や潔白を証明する事が本当の恩返しになると清水は分かっていた。


「確かに先生の言う通りです。僕の知りうる限りを話します」

「賢明です。正しい判断だ」


 坂本はスマホを操作すると音声の録音を始めた。


「村松さんからの相談事は事前に聞いていたんですか?」

「いえ、会って直接話したいと言われたので聞いていません」

「では内容はまったく知らない?」

「ええそうです。ただ、とても深刻そうであった事は伝わってきました」

「約束の場所はあの喫茶店で間違いないんですね?」

「はい。そこで会う約束でした。場所を指定したのはユウカさんです」


 ふむと頷いて坂本は一拍置いた。


「その後の行動の意図は?」

「もしかしたら何かトラブルがあって来れなかったのかなと思ったんです。連絡もつかなかったし、その場で少し待つことにしました」

「連絡がつかなかった?その後連絡を取っていた姿を目撃されていますよね?」

「ええ実はその事なんですが、僕にもよく分からないんです。記憶がないという訳ではありません、その内容が妙だったんです」

「妙?」


 それから清水が語った事は確かに妙だと坂本は思った。


 清水は約束をすっぽかされた事にまったく怒りを感じていなかった。寧ろ感じていたのは心配、心からの心配だった。


 恩人に何かあったのではないか、清水の頭の中ではその事で一杯だった。何度連絡しても村松からは返事がない、事故にでも遭ってはいなかとその場でウロウロ右往左往するしかなかった。


 そんな時携帯電話にやっと着信があった。清水はその電話にすぐに出た。画面を確認などしなかった。


「もしもし!ユウカさん!?」


 電話の向こうの人物は何も答えなかった。おかしい、すぐにそう思うと画面を確認した。相手は村松ではなかった。非通知でかかってきていた。


 清水は何も答えない電話の相手に向かって声を上げた。それが口論しているように見えていた。いくら清水が問いかけても電話先の謎の人物は答えない、清水の語気はどんどん強くなった。


「…コウ君…た…助け…」

「ユウカさんっ!?」


 村松の途切れそうな声が聞こえてきて電話は切れた。ただごとではない事はすぐに理解した。すぐに警察へ連絡しようと手は伸びた。


 だが清水の手はそこで止まった。警察は駄目だ、清水は常に警察から逃げ続ける生活を送っていた。その考えが頭の中に染み付いていた清水は連絡する事を躊躇った。


 その後すぐにショートメッセージが送られてきた。それはある住所が書かれていて、指定された時間にそこに来なければユウカがどうなるか分かるかという文言が添えられていた。


 清水はすっかり混乱してしまった。そこから正常な判断を取る事はできなくなった。誰にも頼れないと思い込み、悩んだ。自分がそこに行くしか無い、その考えが頭の中を支配した。


 しかし恐怖はあった。思い込みではあったが清水は警察に頼る事は出来ないという考えがあった。公園のベンチで思い悩んだが、やはり自分がそこへ行くしかない、結局その方法しか思いつかなかった。


「…どうしました?」


 話が途切れたので坂本はそう清水に声をかけた。清水はそれに困ったような表情をして言った。


「実は僕、ここから先の記憶は本当にないんです。そこから先の行動についてはまったく覚えていない。目を覚ました時には、血塗れでゴミ捨て場にいました」




 坂本からすべてを聞いた山本と林は、すぐさま各方面に協力を仰いで捜査を急がせた。必要な情報は清水から聞いた事で分かった。捜査は一気に前進を見せた。


 山本はまず村松の交友関係を洗った。村松のアリバイは崩せない、だが山本達にはある推理が手元にあった。それは正体不明のBの存在だった。


 ただの推理に過ぎなかったBの存在に一気に現実味が出てきた。そしてそれは、秋月との繋がりというよりも村松との繋がりを疑うべきだと考えた。


 林はまた別の方向から捜査を進めていた。それは坂本医師からの提案だった。それは清水が記憶を失う事になった切っ掛けについての話だった。


 薬物の類いは使われていないと検査では出たが、清水の行動の空白期間がどうにも気になると坂本は伝えた。そこで林は調査機関に赴き、もう一度清水の検査を願い出ていた。


 清水の空白の時間は犯行時間と重なる。だからまだ清水は容疑者から外れる事は出来なかった。清水が秋月を殺し、そのショックに耐えかねて記憶に封をしてしまった可能性はある。


 だから清水は自分から願い出た。自らを逮捕し拘束しておいてほしいと。清水には逃げるつもりは毛頭なかった。何か罪を犯したのであれば、それをすべて受け入れて罪を償う気でいた。それが判明するまでは、自分を目の届く場所に置いておいてほしいと自ら願ったのだった。


 清水が勾留されながらも思いを馳せるのは村松、つまりユウカについてだった。どんな事実が待っているのか重要な記憶が欠けている清水に先の事は分からなかった。しかし、彼女の幸福を願う気持ちに一切の陰りはなく、その心は純粋そのものだった。

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