第8話 取り戻した記憶

 清水はぱちりと目を開いた。見えた天井は自分がよく知っているものだった。何度も何度もここで朝を迎えた天井だった。目を覚ましたのはまだ薄暗い早朝だった。体を起こす事はなくそのままただ天井を見つめた。


 記憶はすっかり元に戻っていた。それがはっきり自覚出来たのは、村松優香に関する話を聞いた時だった。


 清水は村松の事をユウカと呼んでいた。清水はそれを偽名だと思っていた。だから本名もそうだと知った時には驚いた。




 ユウカに拾われた時に、清水が名乗ったコウという偽名は港から取った。自分の湊という名前と同じ読みの港、その音読みだった。その偽名は、自分で必死で地獄から這い出た時から使っていたものだった。


 清水はどうしても本名を教えたくはなかった。それはユウカが恩人であってもだった。どんなに恩ある人であっても同じ事だった。清水は、自分が地獄に引き戻される事を何よりも恐れていた。


 コウとだけ名乗った時に、それが偽名であるとユウカはすぐに分かった。事情を察したユウカは、自分も偽名を名乗るからそう呼んでと清水に言った。そうすればお互い秘密を抱えた同士で繋がりが持てるとユウカは言った。


 清水は拾ってくれた恩を感じながらも、いつそこから立ち去り消えようかとずっと機会を伺っていた。長居すれば怪しまれる、清水の生活は常に疑念から逃げ続けるものだった。


 しかしユウカはそんな清水を敢えて放っておいた。何処かに行きたければ行けばいい、帰りたくなければ帰ってこなくてもいい、だけど私はあなたを待っているよと清水は告げられた。


 共に暮らしていく内に清水はユウカとの生活に安心感を覚え始めていた。安心出来る帰る場所があるというのは、荒んで凍り付いた清水の心を、ゆっくりゆっくりと溶かしてくれた。


 ユウカは決して無理に清水の事情を聞き出したりしなかった。ただ清水が帰る場所となった。清水は自分の過去について少しずつユウカに語った。それほどまでに気を許せる関係になっていた。


 常に清水の心に寄り添い、衣食住から仕事の面倒までユウカが世話をした。清水にとってユウカはかけがえのない恩人だった。自分を人間社会に戻してくれた人だった。




 清水は起き上がりボーっと虚空を見つめた。清水が大切な約束をしていたのは村松優香だ、ならば彼女が事件に何らかの関わりを持っているのは明らかだった。清水はそれを伝えるべきかどうかで悩んでいた。


 自分の証言がもしかしたら村松を追い詰める事になるかもしれない。そう思うと清水は決断が出来なかった。村松の為に自分がありもしない罪を被ってもいいと思えるくらいに、清水が感じている恩は大きかった。


 このまま事件の事について閉口してしまおうかと清水は考えた。村松が清水と会う約束をしていたかを証明出来るのは記憶を取り戻した今の自分しかいない。携帯電話もないし、村松とのやり取りも警察が未だに掴んでいないという事は、村松も携帯電話の破棄か、データの消去をしたという事になる。つまり清水との約束は知られたくないという事だった。


 村松が知られたくないと願うのなら、それを叶えるのが恩返しになるのではないかと清水は考えた。覚悟を決めるべきかと悩んでいた時、寝室の扉が開かれて坂本が入ってきた。


「おはようございます清水さん。よく眠れましたか?」

「はい。それはもうぐっすりと」

「それは何よりです。やはり自宅は安心感がありますか?」

「そう、ですね。そうだと思います」


 清水は思い切り言い淀んでしまった。記憶喪失だった事実を上手く利用すれば、もっと上手に村松の事を隠せたのではないかと思ったからだった。しかし記憶が戻った今、それを上手く演じる事が出来るのか清水には自信がなかった。


「どうかしましたか?」

「え?」

「随分返答の歯切れが悪くなったので、また記憶に何らかの影響が出たのかと」


 坂本医師の言葉に清水はここだと思った。


「そうですね。何かやはりぼんやりとしています。自分が今まで話してきた事も本当かどうか怪しく思えてきました。全部嘘か辻褄を合わせる為に記憶を捻じ曲げたんじゃないかって」

「確かにそれは懸念される事態です。人の記憶というのはその時その時の状況で簡単に左右される事もあります。嘘の記憶を作りだしたり、別の印象強い事に引っ張られたりと、特に今の清水さんにはそういった傾向が見られるでしょう」


 清水は心の中でしめたと思った。坂本の感情は自分に同情する方へと傾いている、このまま情に訴えかけ続ければ何か突破口が見えてくる筈だと思った。


「でもあなたの取り戻した記憶は本物です。嘘じゃあない。思い出した事実について話したくない理由は分かりませんが、あなたは記憶を取り戻している。違いますか清水湊さん?」


 坂本にはすべてバレている。清水の頬に冷や汗が伝った。




「どうしてそんな事が分かるんですか?」

「清水さん。その質問は認めているも同じ事ですよ。まあ答えてあげますが」


 清水はベッドから起き上がり床に座った。その対面に坂本が座る。見張りは外で待つように指示された。聞くはずがない、そう思っていた清水だったがあっさりと部屋から出ていった。


「何で…」

「予めお願いしておいたんです。記憶を取り戻した時には私にすべて任せてくださいと。そんなに時間はありませんがね」


 坂本は手をパンパンと2回叩くと清水に言った。


「清水さん、あなたが記憶を取り戻す時にいつも一緒にいたのは私です。そして私は精神科医、あなたの状態を観察して症状の推移を見守ってきました。今まであなたが記憶を取り戻してきた時、あなたが真っ先に感じてきたのは違和感でした」

「違和感?」

「記憶がない自分と記憶がある自分の差を、他人事のように眺める事によって平静を保とうとしたんです。最初に過呼吸になった時に、自分を守る為にそうコントロールし始めたんでしょう」


 清水は指摘されてもまったく自覚がなかった。それは当たり前の事で、坂本の知識と経験でしか判断出来ない事だったからだ。


「しかし自分にまつわる話や場所、人物が明らかになるにつれそのギャップは自然と埋まっていった。記憶を失った自分と折り合いを付け始めたんです。だから今回、いままでのあなたにはなかった行動が見られました」

「一体それは何ですか?」

「他の事を思考する余裕ですよ。思い出す事で精一杯だったあなたが、理論的に私を諭そうとし嘘をついた。それは今までのあなたと大きく矛盾する行動だ。人が変わったとしか思えない程にね」


 まさしく自分が考えていた事を当てられて清水は黙る他なかった。坂本はうなだれる清水の肩を優しく叩いた。


「さ、もういいでしょう。お話聞きますよ。これも私の仕事だ」


 清水は観念し、自分と村松についての話をぽつぽつと坂本に語り始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る