第5話 解れる記憶

 ヤマダは目の前に広げられた材料をボーっと眺めていた。これが自分だと言われても今はピンと来ていないからだった。


 自分だと分かっているのに自分だと感じられないのは不思議な気分だった。記憶がないというのは不思議なんだという感想を持った。こんな経験をする事はないと得難い気持ちを持ったのだが、自分の現状を思うと呑気が過ぎると思った。


 自分は本当に犯罪に関わっているのだろうか、血塗れで見つかった時から今の今までその疑問が頭の中を巡っていた。記憶の中に答えがある、それがただもどかしかった。


 約束をしていたという事実を思い出した時には頭が混乱した。色々な情報が頭の中で暴れまわるようで、思い出すべきではないと感じもした。


 しかし必死になって捜査をしている刑事の事や、記憶を取り戻す手伝いをしてくれている坂本医師の事を思うと、記憶を取り戻す事は自分の使命とも思えた。それが残酷な事実だったとしても受け入れるべきだと覚悟をしていた。


 映像の中でうろうろとする自分の姿を見て、記憶を失った今の自分でその行動を真似てみた。部屋の中でうろうろとするだけであったが、その最中に何か鼻の奥で匂いがした。


 苦い匂いと甘い匂い、コーヒーとパフェの匂い、ヤマダはその匂いを嗅いだ時に何故か悲しみや不安な気持ちを思い出した。


 約束をすっぽかされた事への感情なのか、それとも違う事なのか、判断のつかないヤマダは坂本にそれを相談した。


「悲しみと不安ですか?」

「ええ、どうしてそう思ったのかまでは分かりませんが」


 ヤマダは何も前進していないと思った。しかし坂本はそうは言わなかった。


「いい調子ですよ。匂いと記憶は深く結びついています。そしてその時の感情を思い出した事もいいですね、どうしてそう感じたのでしょうか?」

「やっぱり約束をすっぽかされたからですかね」

「それならば先に怒りを感じてもいいのではありませんか?事実その後ヤマダさんは電話で口論している姿を目撃されている。でも怒りは感じていなかった」


 指摘されたヤマダは確かにそうだと飲み込んだ。何故自分は怒るよりも前に悲しみと不安を感じたのか、それを意識した時にまた少し頭が痛んだ。


「来てもらえないかもしれない…」

「え?」

「少し思い出したんです。僕はそう、約束した人がそこに来てもらえないかもしれないと思っていたんです。まだ断片的ですが、確かにそう思っていました」


 来てもらえない可能性を考え悲しみと不安を覚える。それは後の口論していた事実とはかけ離れていると坂本は思った。


 もしかしたらヤマダの口論の相手はAではないかもしれない。坂本は早速山本へ連絡を取った。




 山本と林はAについて調べていた。しかし全く進展がなく、行き詰まっていた。そもそもAについては手がかりが零に等しい、ヤマダとの関係を見出さねば話は進まなかった。


 そんな時山本に連絡が入った。


「坂本先生から新情報だ、ヤマダが連絡を取った相手がAではないかもしれないそうだ」


 山本は林に届いた情報を掻い摘んで説明した。林は人物Bをメモに書き込みボードへ貼り付けた。


「ここに来て新しい人物ですか…」

「俺達にとって悩ましくもあるが、同時に話の補強にもなる。ヤマダはAと何らかの特別な関係にあった。そしてBとトラブルか諍いを抱えていた。そうなるとAとBは繋がりがあると考えていいんじゃないか?」

「確かにそうですね、例えばAに対する脅迫をBが行い。Aを人質に取る形で強要した行動が秋月の殺人だったとか」

「集めた行動から見るとありえそうじゃないか?」


 秋月とヤマダが結びつかなくとも、AかBが秋月と結びつくかもしれない。それは捜査を進める山本と林にとって大きな手がかりになった。


 そんな推理を広げる二人の元にある情報が届いた。それは他ならぬヤマダの情報だった。


「やっと身元が割れたか」

「時間かかりましたね」


 資料に目を通すと、時間がかかった理由が分かった。ヤマダもとい本名清水湊しみずみなとは家出人だった。


 家庭環境の悪化と父親との確執から家を飛び出し、家族は清水を探してもいなかった。家出して勘当された息子が清水という事だった。


「ヤマ…、ああもう違いますね。清水は家出してからどう生活していたのでしょうか?」

「ホームレスか?いや、それにしては身なりがいい。それに携帯電話を所持していた。しかも映像を見るに最新型だった。いい値段するぞ」

「誰かから貸し与えれらた物だったとか?」

「勿論誰かに面倒を見てもらっていた可能性はあるが、それなら探されていない事がおかしいと思わないか?」


 山本の指摘に林はそれもそうだと頷いた。いい服と最新機種のスマホを買い与える待遇は明らかに特別だ、清水がいないとなったら探さない方が不自然だ。


「しかしこれは大きい。本名が分かればまた更に清水の情報が集まるぞ。ありったけ情報を集めよう、清水の交友関係も洗い出せ」

「はい!」


 刑事達はAの捜査を中断し、本名が判明した清水湊の調査を再開した。顔と名前、情報を集める時に重要な要素が揃った。清水の情報はすぐに集まりだした。




「…そうですか。はい、分かりました。では」


 山本から連絡を受けた坂本は、仮の名前が取れた清水に言った。


「あなたの本名は清水湊です。どうですか?何か思い出しませんか?」

「清水湊…」


 清水は自分の名前を繰り返し呟いた。しかし記憶がなければ馴染みもなかった。


「すみません。何も思い出せません…」

「いえ大丈夫ですよ。そんな事より名前が分かってよかった。いつまでも仮名のままよりよほどいいです」

「そうでしょうか?」

「勿論ですよ。清水さんと呼ばれる事は、あなたにとって日常への回帰です。記憶の回復に役立つ筈です」


 清水はそれなら何よりだと心から思った。自分の記憶が大きな手がかりになる、それを取り戻せる可能性は今の清水にとっても救いになるからだった。


「では清水さん。今までヤマダと称してきた事実を清水さん本人としてもう一度辿ってみましょう。もっと自分の事として考えられるようになる筈です」

「はい。お願いします先生」


 名前を取り戻した清水は坂本の導きによって自分の行動を辿り始めた。徐々にではあるが、絡まった記憶の結び目が綻び始めているのを清水は感じていた。

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