第2話 仮名の記憶
事件が発覚したのは被害者秋月英雄の内縁の妻からの通報だった。スナックで朝まで働いてから帰宅した
自宅マンションの扉を開けると変な匂いがした。秋月が居ると思っていた村松は声をかけるも返事がない、不穏な空気を感じながら寝室に行くと、部屋中が血塗れでその真ん中のベッドには無惨にも殺された秋月の姿があった。
村松はすぐに通報し、警察が駆けつけた。そして丁度時同じくして、秋月を探していたのが刑事の山本と林だった。連絡を受けた二人は現場に急行し、すぐに捜査に加わった。
真っ先に行ったことは秋月の免許証の確認だった。秋月は車のキーケースの中に免許証を入れていたと村松から聞き、それを調べるとやはり免許証はなくなっていた。
事前に盗難被害に遭っていないかと村松に確認をするも、そのような事実はなかったと言う。更に掘り下げると村松を仕事場に送り届けたのは秋月だった。
一度キーケースを開かないと車の鍵は取り出せない。そして開く時に免許証は絶対に目に入る場所にあった。盗まれたとしたら犯行直前か後という事になる。
ますます記憶喪失の男が怪しくなった。だが男から血液の反応はまったく出ず、ナイフでさえ玩具である。犯行を誤魔化す為に血糊を被ったのかと考えもいったが、血糊では誤魔化せない上そんな事をするのなら血を洗い流すだろうとすぐに思い直した。
何か繋がりがあるのは確かである筈だと山本も林も考えていた。しかし現場からあの男が関与していそうなものは免許証以外には見つからなかった。
二人は一度男の存在を頭から消して現場を見た。犯行に使われたナイフは現場に残されていて、証拠品として押さえられている。
被害者の秋月は首や胸から腹を何度も何度もそのナイフで刺されていた。詳しい検視報告はまだだったが、現場写真を見る限り躊躇ったような様子はなく、すべて深く突き刺されていた。
それが30箇所以上となると相当の体力と気力が必要となる。そしてそれを実行させるだけの動機もなければ出来ない。怨恨が一番妥当だろうと考えられた。
何故か秋月には抵抗した後がなかった。その理由は机の上に置かれていたもので察しがついた。睡眠薬と酒が置いてあった。秋月は不眠症を患っていて、睡眠薬を処方されていた。それを酒と一緒に飲むのが秋月の就寝方法だった。
危険な行為だ、しかしそんな事を守るような人物ではなかった。
秋月を調べていく内に怨恨の裏付けと取れるような情報が入ってきた。秋月は暴力団との繋がりを疑われていた半グレで、前科があった。過去に秋月の被害に遭った誰かがいたとしてもおかしくはなかったのだ。
しかし最近では秋月はすっかり鳴りを潜めていて、半グレの集団とのやり取りこそあるものの、目立った動きは見せなかった。暴力団とは距離を置き、精々いい年した男性が粋がっているだけのチンピラ程度の存在だった。
素行の悪さからトラブルは絶えないものの、ここまでの事件に繋がりそうな出来事はなく、生活も村松に頼り切りだった。離婚歴があり子供もいるが、親権は当然元妻にあり、養育費も払っていなかった。
秋月を殺害したいという動機を抱えていそうな人は多くいた。だが、ここまでの事をしそうな程恨みを抱えている人は見当がつかなかった。手がかりらしい手がかりを掴む事が出来ず、山本と林は頭を悩ませた。
事件の捜査にあたり、やはり何かしらの関与があると疑われたのは、あの記憶喪失の男だった。
殺された被害者の免許証を持っていた事や、偽物ながら血塗れで見つかった事、そして玩具ではあるが凶器のナイフを持っていた事。偶然にしては繋がりすぎていた。
しかし記憶喪失のせいで肝心の証言は取れそうになかった。男は自分の名前も家も何をしていたのかも忘れていて、身元もはっきりとしない。調べようにも取っ掛かりすらない。
そこで山本と林は、記憶喪失の治療と男の身元調査を並行して行う事を決めた。そうして捜査協力を頼まれた精神科医が男の元を訪れた。
「こんにちは。私は精神科医の
坂本は男ににこやかに笑いかけ握手を求めた。男は少々怯えながらもその握手に応じた。
「まずはあなたの仮の名前を決めましょうか」
「え、仮の名前ですか?」
男は思ってもみない提案に驚いてそう返した。
「名前で呼び合うのは重要なコミュニケーションの一つです。日常的に行われる行動ですよね。さっきの挨拶だってそう、握手はそんなにしないと思いますけど、人との触れ合いが記憶を取り戻す切っ掛けになることもあります」
「は、はあ…」
「今あなたは非日常の過剰なストレス下に置かれていて、心が大分疲弊しています。疲れ切ったまま何か別の事を頑張ろうとしても無理があるでしょう?だからまずは非日常から日常へ、ゆっくりと戻っていく作業をしましょう」
坂本の提案を男はあまり深くは理解出来なかった。それに何の意味があるのかという考えはつきまとっていたが、現状精神科医である坂本に頼る他ないのも事実だった。
「じゃあどんな名前がいいですかね?」
「うーんそうだなあ。名無しの権兵衛なんて古臭い、権兵衛さんに思う所はありませんけどね。ああ知っていますか?英語版名無しの権兵衛はジョン・ドゥと言うんですよ」
「海外にもそういうのがあるんですね」
「面白いですよね。どんなに離れた場所にいたとしても同じ人間なんだと思えると思いませんか?言語は違ってもね」
「確かにそうですね」
男の顔が少しだけ緩んだのを坂本は見逃さなかった。
「ほら、今少しだけど笑顔になれました。緊張が解けてきた証拠です。こうやって少しずつ日常に戻ってみましょう。ここでは少し狭苦しいですが、事情が事情ですからね我慢してください」
「あ、そ、それは勿論です。もしかしたら僕が何か関わっているこもしれないですから」
「それでもまずは思い出さなければ話になりません。おっと話が逸れましたね、そうですね、仮名はそうですねジョン・ドゥに倣って日本流のヤマダタロウでいきましょうか」
記憶喪失の男は仮の名前としてヤマダタロウという事になった。自分の名前すら定かでなかった男にとって、ヤマダという名前をつけられた事で、自分が少しだけ現実に近づいた気がした。
とても些細ではあるがヤマダには大きな前進だった。自分が実社会と関わりを持った人間だったと意識出来るからである。
「ではヤマダさん、直近の記憶から辿ってみましょう。あなたは何処にいましたか?」
「はい。ゴミ捨て場です」
「そこで目覚めた?」
「そうですね、そこで目を覚ましました」
「まず何を感じましたか?」
「ええと…、とても臭くて嫌だと、あと頭が痛くて目眩で視界が定まりませんでした」
坂本は既知の事実でも敢えて確認を取った。話の整合性を確認する為だった。もしヤマダが嘘をついていたとして、それに何の意味があるのかまでは定かにはならないが、嘘をついているという事実が重要になる。
今のところヤマダの話に破綻はない、坂本は質問を続けた。
「頭に怪我を負っていたとか?」
「いえ、傷などはなかったと検査で言われました」
「…ああ、そのようですね。ここに書いてあります。薬物の類いも引っかかってませんね」
あらゆる検査がヤマダに対して行われたが、身体に異常らしい異常は見つからなかった。暴行の跡も薬物を使用された痕跡も見当たらなかった。
しかし坂本は薬物の使用に関してはどうも引っかかる所があった。それは記憶喪失になった原因ではないかと推察していたからであった。
まだ検知出来ないような成分を持つ薬物が使われて、その副作用で記憶障害が出た可能性がある。目立った怪我や内部へのダメージがないとすれば、後は精神を大きく揺さぶる何かがあったと考えられるからだ。
「今は何か不調がありますか?」
「今のところ特にありません」
「分かりました。何か変化があればすぐに教えてください、では次に…」
ヤマダと坂本の対話は続けられた。記憶の中に事件の手がかりがあるのか、それとも真実があるのか、どちらにせよ大きな鍵を握っている事は間違いないと思われた。
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