嘘濡れと消失

ま行

第1話 血塗れの記憶

 まだ日も上がらぬ早朝、強烈に鼻をつく匂いにその男は目覚めた。頭がズキズキと痛み目眩がする。立ち上がることもままならぬ男は働かない頭で呆然としていた。


 兎に角臭い、その匂いが何処から来ているのか男には分からなかったが、臭くてたまらない事は分かった。目眩も相まって吐き気がした。


 ようやく視界が定まってきた男は辺りを見回した。そこはゴミ捨て場、自分はゴミの上にいたのだと気がついた。鼻をついたのはゴミの臭いだった。


 自分が何故そんな状況に陥っているのか、男にはさっぱり分からなかった。何よりもっと重要で致命的な事柄が存在していたからだ。


 記憶がない。男にはまったく記憶がなかった。


 自分がここにいる理由どころか、以前何をしていたのか、名前は何なのか、帰る家は、仕事は、家族は、友人は、どれもこれも記憶からすっかりとなくなっていた。今あるものは、自分がゴミ捨て場で目覚めたという事実のみだった。


 痛みで重かった頭も徐々に冴えてきた。しかし記憶が元に戻った訳ではない、現状を確認する程度には意識がハッキリとしてきただけだ。


 持ち物を確認してみよう、男はそう思った。何かきっかけさえあれば記憶の手がかりになる筈だとそう考えた。長袖のTシャツにスウェットのズボン、ポケットへ手を伸ばそうとした。


 しかしその前に男は気がつく、自分が左手に何かを握っている事に、それまで握っていた事に気が付かなかった事が不思議なくらい強く握っていた。猛烈に襲い来る嫌な予感は、最悪の現実をもって確実なものとなった。


 手に握られていたのはナイフ、そしてその刃には血がべっとりと付着していた。自分の服もズボンも、夥しい血がついている。ナイフが握られていない右手にも血で濡れていた。


 混乱する男はパニックに陥った。ナイフを置いて全身を手で探り、ズボンのポケットにも手を入れた。左のポケットには何もなかったが、右のポケットには何かカードのような物があった。取り出すとそれは免許証だった。


 見つけて取り出してからしまったと男は後悔した。血の付いた手で触ったので免許証を汚してしまった。写真の殆どは血で汚れてしまい顔が判別出来なかった。しかし名前は確認する事が出来た。


 秋月英雄、そう書かれている。あきつきだろうか、あきづきだろうか、正しい読み方は分からなかったが名前を見ても何も思い出せなかった。しかし他に自分の物らしき手がかりはもうない、男は自分がこの免許証の秋月英雄という人物なのかと思った。


 男は自分の頭の中で問いかけた。何をしていた秋月英雄、お前はこのゴミ捨て場に来る前に何をしていたんだと。しかし男の記憶はまったく戻らず、ますます頭が混乱するばかりだった。


 自分は一体何者なのか、そして何故血塗れなのか、手に持ったナイフが意味する事とは、そんな疑問だらけの男の元にパトカーのサイレンの音が近づいてきていた。




 男が身につけていたものとナイフに免許証は、警察に押収された。手についた血や指紋、何から何まで調べられる事となった。男は貸してもらえた服に着替えながらずっと考えていた。自分はやはり何か大事件を起こしたのではないかと思っていた。


 誰かを殺してしまったのだろうか、そう思うと男は震えた。記憶がまったくない今の自分には、誰かを殺すなんて考えがまったく想像も出来ないからだった。失った記憶の中の自分は平気で人を殺すような奴だったのか、そう思うと震えが止まらなかった。


 そもそも自分の名前すら分かっていない。結局免許証の通り、自分は秋月英雄なのだろうか、だがいくら考えても自分と秋月英雄という名前に何の繋がりも見いだせなかった。


 ここで待つようにと言われてからも、男は気が気でいられなかった。自分の体をギュッと抱き寄せ丸くなり、続く恐怖にひたすら耐える他なかった。もし自分が殺人犯だったとしたら、その記憶もないのに責任だけが自分に重くのしかかるのは耐えられないと思った。


 一方警察の方でも対処に苦慮していた。男が記憶喪失で身元も判明しないからであった。持っていた免許証は別人の物で男の物じゃない、この血塗れの男が誰なのかがさっぱり分からないのだ。


 しかしもっと珍妙な事があった。それを伝える為に刑事が二人、男の元を訪れた。


「どうも。私は山本、こっちは林です。大丈夫ですか?体調が優れない?」


 刑事の山本は男の真っ青な顔を見て言った。男は首を横に振って否定した。


「いえ、体調に問題はありません。あ、いや、記憶には問題ありますけど」

「本当に何も覚えていませんか?」


 林の方が身を乗り出して男に聞いた。山本はそんな林を手で制して落ち着かせる。


「あまり無理に詰め寄るな、無理やりで思い出せるってんならもうやってるだろうさ」

「本当にごめんなさい。何も覚えていないんです…」


 男が申し訳無さそうにうなだれると山本が言った。


「まあそれについては後にしましょう。それよりね、あなたの体や持っていた手についた血なんだけどね…」


 ついにきたと男はギュッと固く目を瞑った。


「全部偽物。所謂血糊だね。ナイフも玩具、これで人は殺せないだろう。一応調べてみたけれど血液は見つからなかったよ」

「は?」

「だから君は、偽物の血に濡れ玩具のナイフを握りしめ、ゴミ捨て場で気絶していた記憶喪失者ということになる。正直こっちも訳がわからないよ」


 男は告げられた事実にぽかんと口を開けるばかりであった。一体何がどうなればそんな状況に陥るのか、その場にいた誰も分からなかった。


「この免許証はあなたの物ではありません、別人の物です。あなたに記憶がない以上盗まれた物なのか、それとも落とし物を拾っただけなのか、定かではありませんが今秋月英雄あきづきひでお本人に確認の連絡をしています」


 林からそう告げられて男は力なくうなだれた。混乱を通り越してどっと疲労が全身に広がった。


「色々と確認とかあると思うけど、今の所君はただの記憶喪失者だから。それも人騒がせなね。まあまずは病院だね、こっちでも君の身元が分からないし」

「え?じゃあ僕は…」

「そのままぽいって放り出しはしないけど、兎に角殺人事件とかではないみたいだから。よかったね、少しは安心したんじゃない?」


 山本の物言いにちっとも安心なんて出来るかと男は言いたくなったが、それどころではないくらいの徒労感で何か言う気力も湧かなかった。自分で自分にお前は何していたんだと詰め寄って説教したい気分であった。


 そんな折、林の元へ連絡が入る。失礼と断ってから部屋の外へ出た。男は記憶喪失はどう回復すればいいのかと考えていると、林が血相を変えて部屋に飛び込んできた。


「どうした?」

「大変です!秋月英雄が遺体で発見されました!現場の状況や遺体の状態から見て殺人ではないかとのことです!」

「何っ!?」

「しかも凶器はナイフで、30箇所以上の刺し傷があるみたいです…」


 事態は更に一転した。血塗れの記憶喪失の男が持っていた免許証の人物が殺害されていた。ナイフで何回も刺されて死んだ。夥しい返り血を犯人は浴びたであろう。そのすべての状況が記憶喪失の男に当てはまっていく、しかし男についた血もナイフもすべて偽物、本物だったのは被害者の免許証だけ。


 様々な何故が浮かび上がるが、肝心の重要参考人は記憶喪失だ。しかも自分の名前すら思い出すことの出来ない有様で。記憶喪失の男が何を意味するのか、誰にもそれは分からなかった。

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