第7話 依存症
それを聞いた三浦刑事は、少し落胆したが、逆に、この事件は今のところ曖昧な感じで推移しているが、それがすべて逆に作用していると考えると、
「一つ何かが判明すれば、事件は意外とスムーズに進むかも知れない」
と考えた。
「なるほど、これは逆に停滞しているだけで、堰を切って事件が解決する可能性もあるということか?」
と、今度は楽天的に考えたのだ。
三浦刑事は、気を遣いすぎて。胃が痛くなることもあるのだが、逆に、一つ突破口が開けると、そこからは、極端に楽天的にものを考えるようになり、えてしてそれがいい方に作用するのか、本当に事件が、電光石火で解決するということになることも往々にしてあったのだ。
ただ、今は相変わらずの、
「五里霧中」
と言った状況だった。
「とりあえず、被害者の様子だけ見させてもらってもいいですか?」
と三浦刑事は、医者に話し、医者も、無言でうなずいた。
「一目瞭然です」
と言いたげであったのだ。
三浦刑事は、医者にしたがって、進んでいくと、病室は集中治療室から、個室に移されていた。
そこは、さほどは広くはないが、一人部屋で、他の人と関わるのは、まだ早いとでもいっているように思うと、
「まるで独房だ」
と、刑務所の独房を想像すると、どこかやるせない気持ちになる三浦刑事であった。
「三浦刑事は、記憶喪失の人を相手されたことはありますか?」
と医者に言われ、
「ええ、交通事故に遭って、少しの間記憶が飛んでしまった被害者を見たことがありました。私は交番勤務だったので、その人のことを絶えず気にかけていたのを覚えています」
と言った。
その時の被害者は、高校生の女の子で、ひき逃げだった。しばらくしてから、容疑者が名乗り出てきたのだが、容疑者も未成年で、無免許の上に、酒気帯び運転だったという。
最初は、
「無免許だったので」
と、ひき逃げをしてしまったことを言い訳にしていたが、裏付け捜査をすると、事件が起こる1時間前まで、近くの居酒屋で酒を呑んでいたことが判明した。
三浦巡査は、
「そんなに簡単にバレるようなウソを、よくもぬけぬけと言えたものだ」
ということで、自分の中にある、
「勧善懲悪」
というものが顔を出したのであった。
「お前、よくそんなウソがつけたものだな」
といって、刑事が怒りという名の憤りを、隠すことなく容疑者にぶつけている。
この容疑者の身元は、どこかの会社社長の息子で、いわゆる、
「御曹司」
といってもいいやつだった。
しかも、顔が端正に作られているので、女にもモテたようだ。
それはそうだろう。金もあって、いい男というような容姿をしていれば、女が勝手に寄ってくるというのも、太古の昔から変わっていないことであろう。
しかし、表の顔とは裏腹に、その実態は、悪魔の形相を裏に隠し持った。文字通りの悪魔だといってもいいだろう。
警察の捜査をいいことに、さっさと金を積んで示談にしようという動きがあったようだが、それも、彼女の意識が戻ってから、親が面会すると、彼女は完全に記憶を失っていて、親のことも分からなければ、自分の名前も分からない。ずっと夢遊病のように、
「どこを見ているのか分からない」
という様子に、家族は、
「お前一体、どうしちまったんだよ」
と泣いてすがっていたのだ。
それを見たまわりの人たちも、貰い泣きの状態で、三浦巡査も、目頭が熱くなるのを感じていた。
「こんな犯人は、決して許してはいけないんだ」
ということで、親の方も、娘の変わり果てた姿を見ることで、最初は示談で、
「何とか娘に速く立ち直ってもらおう」
と思っていたのだが、
「もう、そんなことを言ってはいられない」
と思ったのだ。
もし、これが即死でもしていれば、また違った感覚なのだろうが、
「せっかく意識が戻ったというのに、いつまで記憶を失ったままでいるのか、分からないというのは、これほど辛いことはない。我々は記憶が戻るまで、ずっと記憶のない娘と向き合っていかなければいけないんだ」
と思ったことで、
「示談はしない。断固裁判を起こす」
ということで、刑事と民事の両方で裁判を起こしたのだった。
刑事の方は、基本的に警察と検察の方で行うので、
「示談」
というものを受け入れなければ、自動的に検察の判断に委ねられる。
「今回の事件は、起訴するに十分な内容なので、示談でなければ、我々は、ひき逃げ事案として告訴します」
ということであった。
問題は、
「被害者が死んでいない」
ということと、
「死んではいないが、記憶喪失である」
ということがいかに影響してくるかということであった。
ただ、一番悪質なこととして、
「飲酒運転を隠すために、ひき逃げをした」
ということであった。
そこを裁判がいかに判断するかということであったが、実際に出た判決は、執行猶予付きのものであり、何とか、被害者側も容認できるものであった。
ただ、それよりも被害者側がホッと胸を撫で下ろしたのは、判決が、検察の求刑に対して、
「それほどの差がなかった」
ということであった。
つまりは、裁判官や、裁判員が、
「犯人に対して、情状酌量の余地はない」
と考えたからだろう。
主文としても、
「非道なる身勝手な犯行」
という、最大限の罵倒を被告に示していることでもよく分かる。
民事の方でも、弁護士が優秀だったこともあり、しかも相手が金持ちで、向こうも、
「執行猶予がついたことで、早く事件のことを忘れたい」
と思っていたのか、さしたる問題もなく、被害者側の要求が、ほぼ全面的に認められたことだった。
ただ、被害者側の家族が言っていたことが印象的だったのだが、
「今回はあいつは、あまり重い罪に問われず、執行猶予がついたことで、表面上は反省しているように見えるけど、ああいうやつは、また同じような事件を繰り返すんですよ。被害者は我々だけにしてもらいたいものだ」
と吐き捨てるように言っていたのを思いだした。
三浦刑事は、この時の事件で、その時の父親の表情と、尋問している時の、犯人のふてぶてしい表情だけは忘れられないように思えたのだった。
実際に、この時の父親が予言したように、本当にあの時の犯人は、またしても犯罪を犯して取り調べを受けることになった。
その時は、すでに三浦は刑事になっていたので、自分が取り調べを行うことになったのだが、昔のあのふてぶてしい表情を思い出すと、取調室で取り調べをしている状況は、
「まるでデジャブのようだった」
と思えてならなかったのだ。
その時の犯行は、
「傷害事件」
であった。
場末のスナックから、
「喧嘩している人がいる」
ということで行ってみると、見覚えのある男が、これまた見覚えのある、ある意味、
「思いだしたくもない表情」
を浮かべて、手にはナイフが握られていた。
ところどころ赤いものが飛び散っていたので、すでに、そのナイフは使用済みであることは明らかだった。
刑事としては、
「もうこれ以上の惨劇を大きくしないようにする」
というのが急務であり、暴れている男を取り押さえて、警察に連行してきたのだ。
被害者の方は、普通のサラリーマンであり、
「僕は女友達と普通に呑んでいたんですが、あいつが急に絡んできたんですよ。女友達に向かって、癪をしろとでもいっているような感じで、完全に酔っぱらっているのが分かりました。私は彼女を連れて急いで店を後にしたんですが、すぐに追いかけてくるじゃないですか。しかも手にはナイフが握られている。それまでは恐怖からか、ほとんど口を開いていなかった彼女は、キャーっと悲鳴を挙げたんです。そこで男は急に我に返ったように、酔いが冷めたかと思うと、いきなり、僕の方にナイフを向けて襲ってきたんですよね。普通の人だったら、いきなりそんなことはしないので、僕もこの人は気が狂ってしまったのか、それとも、最初からよっぽどヤバい奴だったのかなってしか思わなかったんですよね。店の人が男が急に飛び出したので、ヤバいと思ったんでしょうね。表に出てきて、すぐに中に入りました。きっとそこで警察に電話してくれたんでしょうね」
と話をしてくれた。
この男の言い分は、的を得ているし、辻褄は合っている。どこにも矛盾は考えられないので、おおむね話は間違っておらず、ほぼ間違いのないことであろう。
それを聴いていたので、この男の前の様子からは、かなり凶暴化しているのだろうが、想定外ということはなかった。
「この男なら、これくらいのことは普通にあるだろう」
ということであった。
しかも、数年前の被害者の女の子の父親が言っていた。
「この男、どうせまた何かをやらかすに違いない」
と断言していたのを思い出し、
「本当に、あのお父さんの言っていたとおりになったではないか」
と思えてならなかったのだ。
あの時の女の子の記憶であるが、半年もした頃に、無事に戻ったということであった。逆に、交通事故に遭った時のことは忘れてしまったようで、
「これでよかったんですよ」
とあのお父さんが、安心したかのように言った言葉が印象的で、
「これでやっと、あの事件が、俺の中でも終わったんだな」
と、三浦刑事は感じたのだ。
ただ、あの時の犯人が、また自分の前にあらわれる可能性は、かなり高いということを感じながらであった。
それが、実際のことになるのだから、世の中というのは面白い。
「人間、落ち始めると、どこまでも落ちていくものなんだろうな」
と、三浦刑事は思ったのだった。
ただ、
「改心する人間は、ちゃんと改心して、立ち直るという例は山ほどある」
というのが本当なのだろう。
だから、立ち直れない人間には、それなりの何かの理由があるに違いない。
最近、よく聞く(といっても、言葉自体はかなり前からあるものだが)、いわゆる、
「依存症」
のようなものを考えたりしていた。
例えば、パチンコ、競馬などと言った、
「ギャンブル依存症」
女性によくあると言われる、
「買い物依存症」
などといろいろあるが、中には、
「風俗依存症」
などというのも、特にそうで、お金が絡むものは、一度入り込むと、なかなか抜けられない。
なぜなら、
「お金さえ払えば、その金額に似合うものを得ることができる」
からである。
普通なら、
「お金がもったいない」
あるいは、
「借金に嵌るのが怖い」
ということで、依存症になる前に抑えが利くのであろうが、一度嵌ってしまうと、
「得られるものは癒しだ」
と考えるようになり、
「癒しを得るのに、自分のお金なんだから、何に使おうがいいではないか?」
という考えに至れば、お金に対しての感覚がマヒしてくるのではないだろうか?
だから、お金を使うことも後ろめたさもなくなり、借金も、
「少しくらいなら」
と思うようになるだろう。
特に風俗依存症の場合は、元々は、
「自分が癒されたいから」
という気持ちだったものが、次第に、
「相手が喜ぶから」
と感じるようになると、お金の使い方が自分なりに分かったような気がすることで、さらに、金銭感覚がマヒしてくるのだった。
しかも、お金の使い方に、
「人のため」
という思いがつくと、自分が依存症であるだけに、与えてもらうことだけしかできない自分に、嫌悪を感じていたとすれば、その思いを払拭できた気がして、余計に、
「俺は誰かのためになっているんだ」
ということが、お金の使い道だと思うと、もう歯止めが利かなくなってしまう。
そうなってくると、特に風俗依存症の場合は、感情を相手に見透かされ、洗脳されてしまうと、もうどうしようもなくなってくる。
男の場合は、風俗嬢に、
「マジ恋」
という形になり、女性の場合では、
「ホストクラブに通い詰める」
ということにもなるだろう。
中には、女の子の中には、
「ホストクラブ代を稼ぐのに、風俗をやっている」
という人もいるだろう。
これは、Vシネマなどの影響なのかも知れないが、ホストのノルマというのは非常に強く、ドラマのホストなどは、ナンバーワンになるために、
「女性の純情を踏みにじる」
というようなものも見たりする。
「ドラマだけであってほしい」
と思うのは、見るに堪えないという思いがあるからだろう。
そういういろいろな欲求があったり、それを利用する、
「甘い罠」
などもある。
依存症とは無縁の人から見れば、
「金の使い方も分からないなんて」
と、自分はそんなことはないと思う人もいるだろうが、意外とそういう人が依存症になったりするだろう。
中には、自分が依存症になっていることを気づかないまま、逆に気が付いた時には、すでに依存症を抜けていたことで、
「自分は、依存症になんかならないぞ」
と、思う人もいることだろう。
そもそも、依存症ということを意識していない人の方が多いのではないだろうか?
だから、それとは自覚がないので、病院に行ったり、カウンセラーを受けようなどとは思わない。それどころか依存症の話を聴いて、
「俺はそんな風にはならないぞ」
であったり、
「依存症だなんてかわいそう」
と、あくまでも、
「他人事だ」
と思うに決まっているのだった。
そんな依存症の人を、三浦刑事は、だいぶ見てきていた。もちろん、上司である桜井警部補ともなると、自分なんかよりも、さらに見てきているだろうから、どのような対応をすればいいのかということもわきまえていることだろう。
ただ、それは、人から教わるものというよりも、自分の身で持って感じるところでないといけないのだろうと、三浦刑事は思うのだった。
ただ、恐ろしいのは、そんな依存症の中に、
「殺人依存症」
のようなものがあれば恐ろしいだろう。
それこそ、
「殺人鬼」
と呼ばれるような、
「人の血を見ないと、我慢ができない」
というような人間である。
それこそ、
「吸血鬼ドラキュラ」
のようではないか。
吸血鬼というのが、本当にいるとして、それは、本当に化け物なのか、人間が何かの拍子に変異したものなのか、ただ、想像上のドラキュラは、伯爵として人間の形をしているのだろうから、創造主は、
「人間の変異」
を基本に考えたのだろう。
ただ、変異してしまったその先はすでに人間ではない。いわゆる、
「化け物」
なのだ。
吸血鬼も、ある意味、
「依存症」
である。
ただ、吸血鬼の場合は、
「人間の血を吸わないと、生きていけない」
という設定なのだとすれば、依存症というのは、気の毒であろう。
人間だって、生きるために、動物の肉を食らったり、植物を食したりする。それは、別に依存症とは言われない。いわゆる、
「生態系」
と言われる、
「自然の摂理だ」
といってもいいだろう。
依存症の人は、基本的に、
「自覚がない」
という人が多いだろうから、
「依存症ではない」
というだけの理屈をつけることはできると思う。しかし、問題は、
「その理屈を理解してもらえるかどうか?」
ということであろう。
そんなことを考えていると、
「依存症と呼ばれる人は、自分で依存症だという意識がない人がほとんどだ」
と言えるであろう。
依存症の人が、
「自分を依存症だ」
と思えば、その防ぎようは、自分で気づく人もいるだろう、
そういう意味でいえば、
「自覚のある人の方が、まだ、手の施しようがある」
というものだ。
ただ、こういう言い方をすれば、
「手の施しようって、まるで、末期の患者のようではないか?」
と、こちらが失礼なことを言っているように言われるが、そう思うと、少し違和感があるのだ。
というのも、
「ここで食って掛かるということは、本当に依存症だという意識がないのか?」
ということであった。
というのは、意識していないから、
「自分は違うんだ」
と思っているのかも知れないと思っていたが、実際には違うのかも知れない。
「自分は違う」
ということで、むきになるのは、
「何に自分が違うのかということを分かって言っているのだろうか?」
というのは、
「自分が、依存症ではない」
ということになのか、それとも、
「自分が依存症を意識していない」
ということになのかということが問題である。
依存症だということ自体にムキになるのは、
「依存症というものを知っているが、自分とは関係のない世界のことだ」
と考えている人だろう。
しかし、
「依存症を意識していない」
ということに関してムキになっているのは、
「自分は依存症ではない」
ということをまず最初に訴えたい、依存症を知っているか知らないかというのは、別問題だと考えている人が思うことではないだろうか。
依存症を意識しないという方が、直接的にかかわっているような気がして、怖い気がする。
「どちらが末期に近いか?」
と言われれば、
「意識していない」
という人の方ではないか?
と、三浦刑事は思うのだった。
今回の事件で、
「毒薬を盛られたかも知れない」
と言われ、さらに、通報者の話として、
「被害者は、よろよろよろめいて、倒れた」
というのを聞いた時、思わず、
「薬物依存症」
の人間を思い浮かべた。
ただ、同じ依存症でも、あの男は、タバコ依存症だったようだ。
「城址公園の、しかも、重要文化財の真下で、タバコに火をつけるなんて、何というやつなんだ」
と、依存症ではない人間だから思うことである。
しかし、依存症という意識がないからこそ、タバコを吸っているところを誰かに見られたとしても、それを意識することはないのだろう。
ある意味、三浦刑事が考えるところの、
「末期患者だ」
といってもいいだろう。
「依存症というのは、がんのようなもので、人に迷惑を掛けても気にならないものは、死ななきゃ治らないということになるのだろう」
と思うのだった。
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