第57話 佐倉陽葵はもとの世界に帰還します

 日が落ちて、夜空に満月が浮かんだ頃、陽葵ひまりはティナと共にラバンダ畑に向かった。


 華奢な身体には、この世界に来た時と同じ紺色のジャケットを羽織っている。ポケットの中には、ティナと一緒に作ったコーラルピンクの口紅を忍ばせていた。


 ラバンダ畑に到着すると、見知った顔が揃っていることに気付く。大きく手を振る彼女達のもとに陽葵は駆けだした。


「みんな! お見送りに来てくれてありがとう!」

「ヒマリしゃーん! 今日でお別れなんてロミは寂しいです!」

「ロミちゃん、泣かないで」


 泣きじゃくるロミの肩に触れる。ふわふわの尻尾はシュンとしていた。そこで陽葵は重大なことを果たしていないことに気付いた。


「ロミちゃん、最後にひとつだけお願いしてもいいかな?」

「はい、何でしょう?」


 陽葵はキラキラした眼差しで訴える。


「尻尾をもふもふさせてください!」


 唐突なお願いにも関わらず、ロミはクスっと笑いながら許可してくれた。


「どうぞ、お好きなだけもふもふしてください」


 これまでずっとタイミングを逃していたが、ようやく叶う。陽葵はごくりと生唾を飲みながら、尻尾に触れた。


 ふわふわとした柔らかな感触が伝わる。滑らかな手触りで、触れているだけで癒された。きっと毎日手入れをしているに違いない。いつまでも触っていたい気分になった。


「はわあああ、幸せ~」

「尻尾ごときで大袈裟な」


 ティナから冷静に突っ込まれる。もふもふの素晴らしさが分からないとは、人生損している。もふもふの素晴らしさを解き明かしたい勢いだったが、時間がないのでやめておいた。


 気の済むままもふさせてもらってから、陽葵は尻尾から手を離す。


「ありがとう、ロミちゃん。満たされたよ」

「それは良かったです」


 ロミはいつもと変わらない明るい笑顔で微笑んだ。それでいい。最後は笑ってお別れがしたかった。


 そんな中、くいっと陽葵のジャケットの裾が引っ張られる。視線を向けると、可愛いエルフちゃんがこちらを窺っていた。


「ヒマリさん、私からも改めてお礼を言わせてください」

「リリーちゃん!」


 リリーと向き合うと、恥ずかしそうに頬を染めながら話を始めた。


「コスメ工房に誘っていただき、本当にありがとうございます。私、人と関わるのが苦手だったのですか、ヒマリさん達と働くようになってから変わりました。いまはお客さんとお話するのがとても楽しいんです。植物の知識で誰かの役に立てたのも嬉しかったです」


「こちらこそありがとうだよ! これからもティナちゃんを助けてあげてね」


「はいっ。これからも頑張ります」


 リリーは意気込みを露わにするように、ぎゅっと拳を握った。


「ヒマリさんと出会えたことも忘れません。2000年くらい」

「2000年は長いなぁ。流石エルフちゃん」


 2000年も覚えていてくれるなんてありがたい。エルフの寿命の長さにあらためて感心させられた陽葵だった。


「ヒマリ、私からも挨拶させて頂戴」


 次に声をかけてきたのは、王女アリアだ。アリアは両腕を組みながら、陽葵の前に立った。


 アリアと初めて会った時は、こんなに堂々とした佇まいはしていなかった。その変化に驚かされている。


「私、あなたのおかげで自信が持てたの。これまではお姉さまの後ろに隠れているだけの第三王女だったけど、いまは堂々と前に立っていられるの。お父様譲りのこの肌にも、誇りを持っているのよ。そう思わせてくれたのは、ヒマリ、あなたよ」


 ドパーズのような黄色い瞳に真っすぐ見つめられる。アリアからの感謝の気持ちも、陽葵の胸に深く刺さった。


「自信を取り戻していただけたようで何よりです。アリア様は可愛い。そのことが伝わって良かったです」


「それ、まだ言うのね。まあでも、可愛いって思っていた方が前向きになれるから、そう思うようにしているわ。あなたのそういう考え方も、私は好きよ」


「もったいないお言葉です!」


 嬉しさを噛み締めていると、隣に控えていた王国騎士のセラからも声をかけられた。


「私からもよろしいでしょうか?」


「セラさん! どうぞどうぞ」


「アリア様のためにご尽力いただき、ありがとうございました。私一人ではアリア様を勇気づけることはできませんでした。ヒマリ様と出会って、化粧品を知って、アリア様は少しずつ本来の強さを取り戻しました。本当に感謝しています」


 騎士らしく胸に手を添えて頭を下げるセラ。その姿に陽葵は恐縮してしまう。


「セラさん! 頭を上げてください。お気持ちは十分伝わっていますから」


「それなら良かったです」


「心残りなのは、セラさんにメイクをして美女に変身させたかったということですね。セラさんお化粧したら絶対綺麗なのに」


 凛々しくてカッコいいセラにメイクを施して、綺麗な美女にしてみたいというのが陽葵の密かな試みだった。それを果たすことなくもとの世界に帰るのは、ちょっと残念だ。


「何を仰っているんですか!? 私に化粧は不要ですよ」


 セラは珍しく取り乱していた。頬を染めながら両手を振る姿は可愛らしい。隣にいるアリアもニヤニヤしていた。


 それからまたしても別の人物に声をかけられる。


「ヒマリさん、ブライダルメイクの際はお世話になりました」

「ルナさん!」


 聖女ルナが神々しいほどの笑顔を浮かべてこちらを見つめていた。光に吸い寄せられるように、陽葵はルナに近付く。


「結婚式では私の願いを叶えていただきありがとうございました。おかげ様で、順調に新婚生活を送っています」


「それは何よりです!」


 ルナの隣には、勇者ネロがいる。これだけ美人が集まっているにも関わらず、ネロは他の女性にうつつを抜かすことなく、ルナだけを見ていた。


「ネロさん、私の言ったことを忘れないでくださいね」


 一応、ネロにも忠告しておく。すると穏やかに微笑みながら頷いた。


「ああ、肝に銘じておくよ」


 そのやりとりをルナが不思議そうに見つめる。


「どういうことでしょうか?」

「お気になさらず。お二人とも末永くお幸せに」


 祝福の言葉を伝えると、二人はどこか恥ずかしそうに顔を見合わせて微笑み合った。


 ブライダルメイクという大役を果たしたことは、陽葵の自信に繋がっている。その機会を与えてくれたルナにも感謝していた。


 その後もこの世界で出会った人々に別れを告げる。


「ヒマリさーん、もとの世界に戻ってもお元気で」


 ジュエルソープ店のカリンもゆったりとした口調で別れを告げる。


「ふぉっふぉっふぉっ」


 ロラン爺さんも、陽葵を鼓舞するように笑っていた。


 最後の最後にみんなとお別れができてよかった。残るは一番お世話になったティナだ。陽葵は地面を蹴ってティナのもとに走った。


「ティナちゃん!」


 目の前までやって来ると、とんがり帽子を被った魔女さんは、ふっと小さく笑った。


「最後までお前は騒がしいな」


 呆れられているのが伝わってくる。でもそれでいい。騒がしくて周りを振り回すのが陽葵なのだから。


 陽葵はティナの手を取って、両手でそっと包み込む。その瞬間、これまでの記憶が一気に蘇った。


 森で初めてティナに出会ったこと、アトリエで化粧水作りをしたこと、町の中央広場で化粧品を売ったこと、異世界の女の子達のお悩みを解決したこと、星空の下で箒に乗せてもらったこと、最後にアトリエで口紅を作ったこと……。


 全部が全部特別な思い出で、忘れることなんてできそうにない。この先もずっと心の一番深いところに刻まれていく。


 陽葵はティナの手を握り直す。


「ティナちゃん、元気でね」

「ああ、ヒマリもな」


 ティナとお別れをするのは寂しいけど、もう泣かない。最後は笑顔でお別れするって決めたから。


 陽葵は精一杯の笑顔を浮かべる。その笑顔につられるように、ティナも笑った。




 紫色の大地に金色の球が現われる。この世界に来る前に公園で見たものと同じだ。月の光よりもずっと眩しい光の球がそこにあった。


 これが、光のゲート。二つの世界を繋ぐ扉――。


 バレーボールサイズだった球は次第に大きくなり、あっという間に人が通れるサイズに広がった。どうやらお別れの時がやって来たらしい。


 陽葵は振り返りざまに別れの言葉を伝える。


「みんな、ありがとう。さようなら」


 みんなは笑顔を浮かべながら大きく手を振っていた。その姿を脳裏に焼き付けながら、陽葵は光の中に飛び込んだ。





~*~*~





 目を覚ますと見慣れた風景が広がっていた。アパートの近くの公園だ。どうやらもとの世界に帰ってきたらしい。


 陽葵は砂場の中心で横たわっている。その近くには鞄が転がっていた。


 向こうの世界に行った時は夜だったはずなのに、もうすっかり日が昇っている。雲一つない澄んだ青空が陽葵を見下ろしていた。


 急に現実に戻って来たもんだから心が追い付いていかない。なんだか長い夢を見ていたようだ。


 もしかしたら全部陽葵の夢だったんじゃないかと疑う。疲れ切った会社員が疲労のあまり公園で昏倒して、夢を見ていたなんてオチもあり得る。


 ふとジャケットのポケットに手を忍ばせると、ヒヤッとした何かに触れた。取り出してみると口紅だった。ゴールドの容器の蓋には、日本語ではない文字で『ヒマリ』と書かれていた。


「夢じゃなかったんだ……」


 コスメ工房のみんなはちゃんと存在している。そのことが分かってホッとした。


 それから別の問題が浮上する。いまは何月何日の何時なのだろう。状況によってはとても面倒なことになる。


 陽葵は身体を起こし、鞄に手を伸ばす。鞄の中からスマホを取り出して、恐る恐る触れた。


 画面を開いて日付を確認すると、陽葵が異世界に転移した翌日であることに気付く。ひとまず浦島太郎状態になっていないことに安堵した。


 しかし安心するのはまだ早い。いまの時刻を確認して、陽葵はサッと青ざめた。


「7時15分!?」


 今日はど平日、つまり会社に出勤しなければならない。陽葵の会社の始業時間は9時。自宅から会社まで3駅しか離れていないとはいえ、悠長に過ごしている時間はなかった。


「えーっと、いまから家に帰ってシャワー浴びて、パンか何か食べて、メイクして……って仮眠を取る時間もないよ~」


 陽葵は鞄を掴んでアパートまで走る。異世界から帰還した余韻に浸る間もなく、慌ただしい日常が始まった。

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