第56話 世界に一つだけの口紅を作りましょう
朝日を浴びながら、
柔らかな風に乗って、薔薇の香りが漂ってくる。庭を見下ろすと、とんがり帽子を被ったティナが花の手入れをしていた。
今日もこの世界はいたって平和だ。魔王に襲撃されることも、モンスターに襲われることもない。怖い先輩に怒られることも、深夜まで残業を強いられることもない。のんびりゆったりした時間が流れていた。
だけどそんなスローライフも今日でおしまいだ。今夜、陽葵はもとの世界に帰る。
自分から帰ると決めたけど、いざ帰るとなると寂しさが押し寄せてくる。長い長いバカンスが終わろうとして、部屋で粛々とパッキングをしているような気分だ。
子どもの頃だったら、帰りたくないと駄々をこねていたかもしれないが、もうそんなみっともない真似はしない。帰ると決めたのだから、潔くこの世界に別れを告げよう。
光のゲートが現われるのは月が昇ってからだ。つまり日が昇っているうちは、この世界に留まっていられる。
日が落ちたらみんながラバンダ畑に集まって、お見送りをしてくれるらしい。最後にちゃんとお別れができるのは有難かった。
それまでの時間はティナと二人だけで過ごせる。みんなが気遣って、二人でゆっくり過ごす時間を作ってくれたからだ。
店も休みにしたことだし、日中はティナを独占しようと企んでいた。
(何しようかなぁ。またのんびりお風呂に入るのでもいいけど)
今日の予定を考えながら、陽葵は階段を降りた。
~*~*~
「ティナちゃん、おはよう」
庭で花の手入れをしているティナに声をかける。
「ああ、おはよう」
いつもと変わらない挨拶が返ってくる。素っ気ないように思えるが、変にしんみりしない方がやりやすい。陽葵もいつもと変わらない口調でティナに尋ねた。
「今日はどうしよっかぁ」
「それなんだけど、やりたいことがある」
「やりたいこと?」
ティナから何かを提案されるのは意外だった。何を提案されるのかと待ち構えていると、ティナはあっさり計画内容を明かした。
~*~*~
「私の口紅を作る!?」
「ああ、前にみんなで作った時は、ヒマリの分は作らなかっただろう? 餞別として渡したいから一緒に作ろう」
それは素敵だ。口紅をプレゼントしてくれるのも嬉しいし、一緒に作るのもワクワクする。最後の最後に特別な思い出ができそうだ。
「いいね! 一緒に作ろう!」
その気になった陽葵を見て、ティナは安堵したように頬を緩める。
「ああ、それじゃあさっそくアトリエで作ろう」
予定が決まると、二人はアトリエに向かった。
テーブルの上には色とりどりのカラーサンドが並べられている。ティナは小瓶を手に取りながら、陽葵に尋ねた。
「ヒマリは何色の口紅を作りたいんだ?」
「そうだねぇ」
自分に似合う色を思い浮かべる。ナチュラルで愛らしいピーチピンク、活発なイメージのオレンジ、女性らしさが際立つアプリコット……。どれも捨てがたいけど、ひとつ選ぶならやっぱりこの色だ。
「コーラルピンク」
ピンクにほんの少しだけオレンジが混ざった色。幸せを象徴するような温かみのある色。陽葵の一番好きな色だ。
「コーラルピンクか。分かった、それにしよう」
色が決まったところで、さっそく口紅作りが始まった。
まずはビーカーの中に、ミツロウ、キャンデリラワックス、シアバター、ホホバオイルを天秤で計りながら入れていく。全部入れ終わったら、湯せんにかけながらクルクルと混ぜ合わせた。
化粧品作りの工程の中でも、材料を混ぜ合わせている時が一番好きだ。まるで魔女が魔法薬を調合しているような高揚感がある。
まさか本当に魔女と出会って、魔法薬ではなく化粧品の作り方を伝授することになるとは思わなかったけど。
全部溶けきったところで、色の調合をしていく。ティナはピンク色のカラーサンドを匙ですくって慎重にビーカーへ加えていった。
クルクルと混ぜ合わせると全体がピンクに染まっていく。これでも十分可愛い色だけど、陽葵の肌に似合うようにオレンジをほんのひと匙加えていった。
さらに混ぜ合わせると、ピンクとオレンジが混ざり合って温かみのあるカラーに変化していく。唇に乗せたら自然な血色感を引き出せそうだ。
「色はこんな感じでどうだ?」
「うん! いい感じだね」
ダマにならないように混ぜ合わせたら、手元で色を確かめてみる。手の甲にちょこんと乗せてから広げると、淡いコーラルピンクに発色した。
「私の好みのど真ん中!」
手元に塗っただけでも気分が上がる。唇に塗ったら絶対可愛い。
ベースが出来上がったところで、型に流し込んでいく。零さないように慎重に筒の中に流し込んでから、冷却スイッチを入れた。
「ここから1時間ほど置けば完成だね!」
ティナは魔法で時間を進めたがっていたが、ここは科学の力に任せてもらうようにお願いした。
待ち時間はノートを広げて化粧品のレシピを綴る。レシピがあれば、ティナ一人でも化粧品を作れるからだ。引継ぎノートとして役立ててもらうつもりだ。
これさえあればきっと大丈夫。お店を離れることには不安があったが、化粧品の作り方がきちんと伝わっていれば、これまで通り営業していけるだろう。
化粧品ブームは、そう簡単に消えることはない。美しさを探求する心は、一時のブームでは消え失せたりしないからだ。化粧品を愛用してくれるお客さんも、今後もリピートして買いに来てくれるはずだ。
そんなことを考えていると、ふとあることを思い出す。
「お店の看板、もう『ヒマリ』はいらないかもね」
看板には『ティナとヒマリのコスメ工房』と記されているが、これからは変えなければならない。『ヒマリ』はもういなくなるのだから。
するとティナから意外な言葉が返ってきた。
「いや、看板は変えないつもりだ」
「え? なんで?」
「コスメ工房を始めたのはヒマリだ。もとの世界に帰ったとしても、その事実は変わらない。だから看板にもヒマリの名前は残すつもりだ」
じーんと胸の中が温かくなる。この世界に留まっていた印を残してもらえるようで嬉しかった。
「ありがとう、ティナちゃん」
~*~*~
1時間ほど経過すると、口紅が固まった。型からそーっと取り出して、ゴールドの繰り出し容器に差し込めば完成だ。
「完成だね!」
「ああ、無事にできてよかった」
ピンクにほんの少しのオレンジを混ぜたコーラルピンクの口紅。陽葵が初めて口紅を塗ったのもこの色だった。
「さっそく塗ってみていいかな?」
「どうぞ」
ティナから許可を貰ったところで、鏡の前に移動してさっそく口紅を塗ってみる。
斜めになった面を唇の中央に乗せて、ゆっくり滑らせていく。輪郭の部分はエッジの部分を使って、はみ出さないように丁寧に塗っていった。
鏡を見ると、パッと顔色が明るくなったのが分かる。唇に幸せを象徴するようなコーラルピンクをのせて、華やかさがアップしていた。この色はやっぱり好きだ。
「綺麗だな」
ティナからも褒められる。それは口紅の色に対していっているのか、はたまた陽葵に対して言っているのかは不明だったけど。
どちらにしても嬉しい。最後の最後で特別な思い出ができた。
「ティナちゃん。一緒に作ってくれてありがとう」
「ああ、だけどまだ終わりじゃないぞ」
「え? どういうこと?」
「口紅を貸してみろ」
素直に口紅を手渡すと、ティナは口紅を手のひらに乗せて呪文を唱えた。
「パラドゥンドロン」
ポンっとシャンパンの蓋を開けたような音が響く。パッと見た限りだと、何が起こったのか分からない。
「何の魔法をかけたの?」
「見てみろ」
口紅が返却される。手渡された口紅をまじまじ見ると、ある変化が起きていることに気付いた。
「容器の表面に何か彫ってある!」
口紅の蓋の部分にこの世界の文字が彫られている。そこに記されていたのは『ヒマリ』。
「私の名前を彫ってくれたの!?」
「ああ、これで世界に一つだけの口紅になったな」
目を細めながら微笑むティナを見て、胸の奥が一気に温かくなった。
「改めてお礼を言わせてもらう。ヒマリ、私と一緒にコスメ工房を開いてくれてありがとう。お前のおかげで貧困生活から脱出できたし、たくさんの繋がりができた。これからはもう、昔ほどは退屈しないだろう。全部お前のおかげだ」
目頭が熱くなる。泣くつもりなんてなかったのに、これじゃあ我慢できそうにない。溢れ返った感情をぶつけるように、陽葵のティナの胸に飛び込んだ。
勢いよく飛び込んだせいで、ティナは1歩、2歩と後ろによろける。後ろに倒れるのを踏みとどまったところで、華奢な肩をぎゅっと抱きしめた。
「お礼を言いたいのはこっちの方だよ。ティナちゃんと出会って、一緒にコスメ工房を開いたことで私は変われたの。もとの世界にいた時は、仕事をこなすのに精一杯で、化粧品作りが好きって気持ちも忘れていた。だけど、この世界で化粧品作りをして、楽しいって感覚を思い出したの」
みんなで口紅作りをした時に、忘れていた『楽しい』という感情を思い出した。口紅を塗って楽しそうに笑っている彼女達の姿がかつての自分と重なった。そのおかげで、陽葵はもう一度化粧品を好きになれたのだ。
「それだけじゃないよ。私の作った化粧品でみんなが笑顔になるのを見て、こんな自分でも役に立てるんだって勇気が湧いたの。だからもとの世界でも、もう一度頑張ってみようって思えたんだよ」
現実に打ちのめされて転んでしまった陽葵に、立ち上がるチャンスを与えてくれたのはティナだ。コスメ工房という活躍の場を与えてもらえたことで、陽葵は再起できた。
「全部ティナちゃんのおかげだよ。ありがとう。大好きだよ」
泣きじゃくりながら、ティナの肩をぎゅっと抱きしめる。相変わらずティナは細くて華奢だった。小さな魔女さんと今日限りでお別れだと思うと、余計に涙が溢れ出した。
だけどちゃんとお別れをしなければ。やり残したことを果たすためにも、もとの世界に帰らないと。
正直、不安もたくさんある。もとの世界に帰ったからって、劇的に仕事ができるようになるわけではない。また企画部のお姉さんに怒られてしまうかもしれない。残業だって急には減らないだろう。
不安はたくさんあるけど、「ヒマリならなんでもできる」というティナの言葉を信じてみたかった。
一方的に抱きしめていた陽葵だったが、ティナからもおずおずと手を回される。そのまま緩い力で陽葵の背中に手を添えた。
「応援してるぞ。ヒマリならなんでもできる」
それは魔法の言葉のように陽葵を奮い立たせた。その言葉があれば、たとえ転んでもまた立ち上がれるような気がした。
「うん。私、頑張るよ」
小さなアトリエには二人分の涙が零れ落ちた。それは別れを惜しむだけの悲しい涙ではない。精一杯の感謝の気持ちと、前に進む勇気を含んだ涙だった。
◇◇◇
ここまでお読みいただきありがとうございます。
「続きが気になる」「陽葵ちゃん頑張って!」と思っていただけたら、★で応援いただけると嬉しいです!
次回、もとの世界に帰還します。
完結までもう少し! 最後まで見届けていただけると嬉しいです。
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