第6話 この世界には化粧品の概念がないそうです

「ふわぁー。この世界にもお風呂があって良かったぁ」


 陽葵ひまりはバスタブに浸かりながらしみじみと呟く。あったかいお風呂で身体を温めると、全身の疲れが吹き飛んだ。


 夕食を終えた後、陽葵はティナからお風呂に入るように促された。ティナの案内のもと一階にあるバスルームに向かうと、そこには猫足の可愛らしいバスタブがあった。


 お風呂があることに驚いていたのも束の間、さらに驚くべき現象に遭遇する。ティナが呪文を唱えると、あっという間にバスタブに湯が溜まった。


「凄い! 一瞬でお湯が出てくるなんて……」


 信じられない現象を目の当たりにして目を見開いていると、ティナはいたって冷静に説明する。


「井戸の水を移動させて温度を変えただけだ。大したことはない」

「いやいや、大したことあるでしょ!」


 どうやらティナの魔法があればお風呂を沸かすのも2秒で済むらしい。陽葵はあらためてティナの能力に感心した。


「魔法って便利だなぁ。私も使えるようにならないかなぁ……」


 バスタブに浸かりながらしみじみと呟く。


 魔法が使えれば人生イージーモードだろう。家事も仕事もパパっと片付くに決まっている。


 陽葵はバスタブの脇に置かれた桶に注目する。そして人指し指を立てながらティナの真似をした。


「パラドゥンドロン」


 当然のことながら何も起きない。異世界に転移したからって魔法が使えるようになったわけではないらしい。


「ちぇっ、ざーんねん」


 陽葵はがっかりしながら、両足をバスタブに投げ出した。


 そろそろ髪と身体を洗おう。そう思って、バスタブの周囲を見渡したが、いつもバスルームにあるものは存在していなかった。


 ラックに置かれているのは、固形石鹸ただひとつ。シャンプーやコンディショナーは見当たらない。


「まさか髪も身体も固形石鹸で洗えってこと?」


 流石にそれは無頓着過ぎるだろう。いくら魔女でも、一人暮らしの女の子だったらもっと色々揃えているのが普通だ。


 現に陽葵のアパートでは、いろいろなグッズがバスルームのラックを占拠している。シャンプー、コンディショナー、ボディーソープはもちろん、クレンジングに洗顔フォーム、ボディスクラブ、ヘアトリートメントが常備されていた。


 それと比べたら、ここのバスルームはあまりに簡素だ。百歩譲って身体と顔は固形石鹸でいいけど、髪は抵抗がある。


 もしかしたら脱衣所に置きっぱなしなのかもと思って一度バスルームから出てみたが、シャンプーらしきボトルは存在しなかった。


「えー、石鹸で洗ったら髪がキシキシになりそう……」


 だけど石鹸しか用意されていない以上、これで洗うしかなさそうだ。

 仕方ないと諦めて、固形石鹸をしっかり泡立ててから髪を洗った。


~*~*~


 お風呂から上がると、ティナから借りたルームウェアを着る。真っ黒なロングワンピースはいかにも魔女といった服装だった。


 まるで自分も魔女になったかのような気分になり、自然と頬が緩んだ。


 とはいえ、いつまでも服に見惚れているわけにはいかない。お風呂から出たら、真っ先にすることがある。


「化粧水で保湿しないとー……」


 お風呂上がりの肌は乾燥しやすい。肌を乾燥から守る皮脂や天然の保湿成分が流れ落ちてしまっているから、放置したらあっという間に肌がつっぱってしまう。


 お風呂上がりは即保湿。これは陽葵のルーティンだった。どんなに疲れて帰ってきても、そのステップを省くことはない。


 しかし、脱衣所に置かれたラックには化粧水らしきボトルはない。タオルが置かれているだけだった。


 もしかしたら別の場所に保管しているのかもしれない。そう考えた陽葵は、2階にいるティナに声をかけた。


「ティナちゃーん! 化粧水借りていいー?」


 しばらくすると、ティナは面倒くさそうな顔をしながら階段から降りてきた。


「なんだ? 何が借りたいって?」

「ごめんね、呼びつけちゃって。化粧水を貸してほしくて」

「化粧水? なんだそれ?」


 ティナは怪訝そうに顔をしかめる。その反応は、単に出し渋っているようには見えなかった。


「もしかして化粧水をご存知ない?」

「ああ、聞いたことがない」


 きっぱり肯定されてしまう。まさかな、と思いつつも陽葵は別の理由を考えた。


「この世界では別の言い方をするのかな? 肌を保湿する液体を貸してほしいの」

「肌を保湿する? 言っている意味が分からない……」


 ティナはわけが分からないと言いたげに首を傾げる。

 その反応を見て、陽葵はある可能性に気付いた。


「もしかして、この世界って化粧水の概念がない?」


 そんな馬鹿な……と思いつつも、目の前のティナは本当に化粧水の存在を知らないようだった。


 怖くなった陽葵は、ティナに詰め寄る。


「じゃ、じゃあさ、肌に塗るクリームはある?」


「クリームってお菓子で使うアレか? あんなのを肌に塗ったらベタベタになるぞ?」


「お菓子のクリームじゃなくてさー……。じゃあさ、シャンプーとトリートメントは? お風呂場になかったけど、まさか……」


「なんだそれ? 新手の呪文か?」


「やっぱりご存知ない! じゃあ口紅や白粉は? 流石にそれはあるよね?」


「それも知らん」


「メイク用品もないの!?」


 あまりに衝撃的な事実を目の当たりにして、陽葵はその場で崩れ落ちる。


「まさかこの世界って、化粧品の概念がない?」


 勘違いであってくれと願っていたが、陽葵の期待はあっさり打ち砕かれれた。


「化粧品ってなんだ? さっきからお前は何を言っているんだ?」


 確定してしまった。この世界は化粧品の概念がない。

 陽葵はこの世界に来て初めて絶望した。


「化粧品のない世界なんてあんまりだよ。化粧水がないってことは保湿もできないってこと? それじゃあ肌がカッサカサになっちゃうよ。ただでさえ、この森は乾燥しているのに……」


 絶望する陽葵を引き気味で見下ろすティナ。


「保湿とやらができないことが、そんなに大変ななのか?」


 事の重大さをまるで理解していないティナに、陽葵は勢いよく詰め寄った。


「保湿は美肌の基本だよ! 保湿を怠ったら乾燥に肌荒れ、皮脂トラブルとかあらゆる肌不調を起こすんだから! 肌を綺麗に保つなら保湿はマストなの!」


「お、おぉ……そうなのか……」


 陽葵の勢いに圧倒され、ヒクヒクと表情を引き攣らせるティナ。

 温度差を感じつつもティナの顔を覗き込むと、陽葵はあることに気付く。


「んん?」


 陽葵は立ち上がり、ティナの頬に手を添えた。


「おい、近い! なんだ急に?」


 至近距離で見つめられたことで、ティナはギョッとした顔をする。

 対する陽葵は距離感なんかお構いなしに、ティナの肌を観察していた。


「やっぱり……ティナちゃんのお肌も乾燥している……」


 頬は水分を失ってカサカサしていた。頬をチェックした流れで手の甲にも触れてみる。案の定、手もゴワゴワと乾燥していた。


 乾燥している森で保湿もせずに過ごしていたら、こうなるのも当然なのかもしれない。


 本人はまるで気にしていないようだけど、このまま放置していいわけがない。


 いまは若さでカバーできているが、年を重ねたら簡単にはリカバリーできない事態に陥るだろう。


「このまま保湿もせずに過ごしていたら、あっという間にシワくちゃの魔女さんになっちゃうよ?」


「シワくちゃの魔女……」


 ティナは眉を顰めながら陽葵の言葉を繰り返した。


 いまは可愛い魔女さんだけど、この先も肌を労わらずに過ごしていたら白雪姫に出てくるようなシワくちゃの魔女になってしまうかもしれない。そんな姿は絶対に見たくない。


「シワくちゃは嫌だなぁ……」


 ティナも陽葵と似たような想像をしたのか、ゾッとするように両腕を抱えた。


 容姿が衰えることに関しては抵抗があるらしい。とりあえずは「見た目なんて気にしないぜ」というワイルドな感性ではなかったことには安堵した。


 そうは言っても化粧水が存在しないのであれば、対処のしようがない。どうしたものかと頭を悩ませていると、ふと昼間に店で見た光景を思い出した。


「アロマウォーター……」


 店の棚には、瓶詰めにされたアロマウォーターが並んでいた。そこで陽葵は解決の糸口を掴む。


「そうだよ! ないなら作ればいいんだよ!」


 陽葵が突然大声を出したことで、ティナは驚いたように目を丸くする。


「どうした急に?」

「ティナちゃん、お店にあったアロマウォーター、少し貰ってもいいかな?」

「別に構わないけど……何に使うんだ?」


 怪訝そうな顔をするティナに、陽葵はとびっきりの笑顔で伝えた。


「化粧水を作るんだよ!」

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