幸福虫
屑木 夢平
第1話
1
今年のクリスマスは中止だよ、と母親は言った。
朝の静寂に包まれたアーケード商店街を親子が歩いている。幼稚園の制服を着た少年は、「サンタさん、来てくれないの?」と顔を俯かせた。よっぽど不満なのか、母親のスカートの裾を握る手に力がこめられている。
ネズミはその小さな手を見つめながら、最後にクリスマスを祝ったのはいつだったか思い返していた。
乾いた冷たい風がアーケードを吹き抜けていく。十二月半ばの町並みは色彩に欠けてうら寂しいから嫌いだった。ひとむかし前には、この時期になるとどこもかしこもクリスマスムード一色で、通りの街路樹もきらびやかにライトアップされていたというが、少なくともネズミは生まれてこのかた、そんなに輝いた十二月というものに出会ったためしがない。
「今年の夏は旅行に行って楽しかったでしょう。だから、幸せになりすぎないようにクリスマスは我慢しようってサンタさんから連絡があったのよ。もしも幸せになりすぎると、幸福虫が頭の中に入ってたいへんなことになっちゃうから」
「じゃあ、僕は不幸せになればいいの?」
少年の問いに、母親は首を横に振った。
「不幸せにもなってはいけないの。もしも不幸せな人間になったら」
母親の視線がこちらに向けられるのにネズミは気づいた。母親はハッとして口を噤み、ネズミもまたバツが悪そうに親子から目を逸らす。
「早く行きましょう。幼稚園のバスが来ちゃう」
母親は少年の手を強く引き、足早にその場を後にした。プレゼント、欲しかったのになあ。少年の恨めしそうな声がアーケードの古い屋根に反響した。
ネズミはシャッターに貼られた紙を剥がしていた。クリスマスツリー特売。年末セール開催中。人形劇『クリスマスキャロル』。『シアワセあげマス連絡チョーダイ』。古いスチールシャッターには大量のポスターやチラシが乱雑に貼られ、たくさんの色やデザインが複雑に継ぎ接ぎされた光景はコラージュアートのようにも見える。だが、この一枚いちまいが人の命を脅かす凶器になるのだ。芸術的と呼ぶにはあまりに危険だし笑えない。
ほんの少しの紙片も残らないよう、一枚ずつ丁寧に剥がそうとするものの、糊でしっかり貼りつけられているためになかなか上手くいかなかった。段々と苛立ちが募って、ネズミは思わず舌打ちする。
「イライラしてると幸福度が下がるよ、兄さん」
隣で同じようにポスターを剥がしていたネコが笑う。見れば彼女はすでに十枚ほど剥がしていたが、どれも角の部分が残っていたり、途中で破れていたりして、仕事がいいとはいえない。
「そっちこそ、きれいに剥がさないと、幸福が残るぞ」
「どうせ誰も見ないって」
ネコは投げやりな態度で残りのポスターを剥がし続けた。
早朝の商店街にはネズミたちのような幸福回収人の姿しかない。たまに先ほどの親子のような通行人があるが、ほとんどの人たちは回収人が仕事を終えて引き揚げたあとに外を出歩くようにしている。でなければ、幸福誘発物に出会ってしまうおそれがあるからだ。人々に幸福を想起させ、幸福度を過剰に上昇させうるおそれのあるチラシ、ポスター、手紙、映像、音声、その他媒体。それらは幸福誘発物と呼ばれて規制対象になっており、なるべく見たり触れたりしないよう気をつけなければならない。
国民の幸福度をみだりに上昇させる幸福誘発物の発見、回収、処分。それが幸福回収人に与えられた役割であり、義務である。
幸福虫と呼ばれる寄生虫がいる。四十年ほど前に発見され、瞬く間に世界中に蔓延したそれは、人の幸福を喰い荒らすという。幸福虫は知らず知らずのうちに人の脳に入りこみ、幸福を餌に増殖し、やがて脳を侵蝕する。脳を侵蝕された人間は幸福に対して異常なほど敏感になり、たいていの場合は耐えきれずに自ら死を選ぶのだが、なかには他人に危害を加えようとする者もある。そのため幸福虫への感染が確認された場合、保健所が即時対象者を確保し、専用施設にて隔離することが義務づけられている。
幸福虫が蔓延してから、人々は幸福を自粛するようになった。誕生日を大っぴらに祝わなくなり、夏休みの旅行とクリスマスは隔年で、しかも重複しないようにしなければならなくなった。テレビやラジオをつけても流れてくるのはバッドエンドの物語とマイナー調の音楽ばかり。インターネットは危険性が最も高いという理由で厳しく制限され、いまでは最寄り駅までの道のりすら調べることができない。
だからこそ、抑圧された幸福への衝動を紙という最も物理的かつ古典的な媒体に書き起こし、夜な夜な慎ましやかな拡散を目論む輩が後を絶たなかった。もちろん、幸福陳列罪を取り締まる自警団があるにはあるが、彼らにもはや何かを取り締まるほどの力などないことを、この街の人間はみな知っている。それに、アーケードのあちこちに設置された監視カメラがダミーだということも。
ただ、ネズミたちのような幸福回収人からすれば、そうした破廉恥な印刷物がばら撒かれるのはかえってありがたいことだった。そのぶん回収人の需要が高まるし、もともと幸福度が低いネズミたちであれば、幸福誘発物に触れても幸せになりすぎるということがない。
「おい、モグラ。おまえ、まだこれだけしか回収できてねえのか」
遠くで怒号が響く。現場監督の猿田がまたモグラをいびっているらしい。
「すみません、猿田さん。僕、これでも一生懸命やってるんだけど、今日のノルマはあんまりにも多すぎて」
「うるせえ。喋ってないで手を動かせ」
モグラの弁明を遮って、猿田が再び怒鳴り声を上げる。すでに紙を剥がし終えて、隣のシャッターに落書きされたサンタクロースの顔を塗り潰していたネズミは、手を止めてモグラのもとへと向かう。
「猿田さん、おれがモグラのぶんまで回収します」
しかし、猿田は首を縦に振らなかった。
「駄目だ。コイツのぶんはコイツにやらせる。おまえはとっとと持ち場に戻れ」
猿田の大柄な体躯がネズミの前に立ちはだかる。幸福回収人の監督者である猿田は、富の象徴のようなでっぷりとした腹を突き出し、ネズミを威圧した。
「いいんだ、ネズミ。僕ひとりで何とかするから」
猿田の背後でモグラがぎこちない笑みを取り繕った。モグラは大丈夫でないときほど大丈夫だと笑うことをネズミはよく知っていたが、それを助けてあげられないのがむなしい。ネズミは渋々引き下がると、憤りを溶いたペンキでサンタクロースの顔を乱暴に塗り潰した。
「待って、兄さん」
ネコが言うのとほぼ同時に、ガシャンという音が隣から聞こえてきた。音のしたほうを振り向くと、スーツ姿の男が先ほどきれいにしたばかりのシャッターの前に立っていた。男はお辞儀をするような動きでシャッターに頭突きを繰り返す。ガシャン。ガシャン。ガシャン。ガシャン。シャッターは次第に変形していき、男の額が切れて血が流れ落ちた。赤ではなく、真っ白いペンキみたいな色の血だった。
「幸福虫にやられてる」
ネズミは男をシャッターから引き剥がそうとしたが、ネコが制止する。
「構うことないよ。その人、もう助からないし。じきに保健所が回収に来るって」
ネコの言ったとおり、ほどなくして白い防護服に身を包んだ保健所の職員数名が大
慌てでやって来て、男を連行していった。男は両腕を掴まれ、引きずられている間も頭を動かし続けていた。幸福な色をした血をあたりに飛び散らせながら。
「ロクでもないな、何もかも」
白い血の跡を見つめ、ネズミは溜め息をつく。
「こんな世界、食い尽くされてしまえばいいのにね」
本気なのか冗談なのかわからない声色でネコが呟いた。
そうだね、とネズミは答える。
こんな世界、食い尽くされてしまえばいい。
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