<3>


 窓の外では梅雨らしく雨がしとしと降っています。

 わたしは、小さめなアップライトピアノの前に座って、そっと蓋を持ち上げました。

 あさってのピアノ教室までに練習する曲は、今目の前に楽譜を置いているこの曲です。隣の席の夕灯さんとかにとってはすごく簡単な曲なんだろうけど、わたしにとっては何もかもが難しいので、たくさん練習するしかありません。

 真面目そうに並ぶ白と黒の鍵盤の上に両手を乗せて。最初の音は、えっと。

 ここは右手よりも左手をはっきり、次は音の粒をきちんと揃える。

 そうだ、この音は黒鍵だから。

「うるさい!」

「………………」

 ……あんなのに構っている余裕はわたしにはないんです。だから、無視して続けます。

「でね! ママあのね、えっと、そしてね……」

 3拍子の曲だから1拍目を強く、指遣いはこうして回して……。

「……え? ごめんあーちゃん、なんて言った?」

「あのね、あのね、あーちゃんがあのえっと、みいちゃんとね……」

 ここも黒い鍵盤だ。あ、左手はこうじゃないんだった。リズムがよくわからない……。

「そうなの。あ、そうだ。……ちゃんは……だったの?」

「なに? 聞こえんし! おねえちゃんピアノうるせーってば!!」

 ……ここで練習を止めるだけばかばかしい。

 わたしは無反応で弾き続けます。

「ねーえ! うるせーよ!!」

 足をダンダン鳴らしながらそう訴える妹は、まだ小学2年生です。

「うるさい! 死ねっ」

 早くも半泣きのわがままな妹になんて、構うだけ無駄どころか損なのです。

 無視を決め込んで弾き続けていると、ソファーの上に置きっぱなしになっていたわたしのホワイトボードが飛んできました。

 かわしたらピアノを傷つけてしまうのでわざとよけずに、肩にぶつかって落ちたそれを拾い上げます。

「はいはい、喧嘩しないの」

「おねえちゃんがうるせーから!」

「…………………………………………」

「でもねあーちゃん、物は投げちゃだめよー。まあ夏俐もちょっとは考えなさいね」

 料理をしながらこっちも見ずにそう言ったお母さんは、「で、休んでたあの子は元気だったの?」と妹への質問を再開しました。

 わたしたちは喧嘩なんて1回もしたことがありません。

 正しくは、今までのいさかいのすべては『喧嘩』じゃありません。

 必ず、一方的だからです。

 何を言われても、わたしは、言い返すことができないからです。それに、さすがに暴力でやり返すことはしません。面倒だし、後でどっちがより重い罪に問われるかなんて目に見えているし。

 わたしは、さっき妹に投げられたノートサイズのホワイトボードを見つめました。

 学校では小さなメモ帳だけれど、家の中ではこのホワイトボードがわたしの『声』になっています。

 だから、もしあの怪獣に言い返す術があるとしたら、ここに言葉を書くしかない。

 でも、わたしにはそんなこと怖くてできないし、したくない。

 親に怒られるから怖いわけでも、強気でわがままな妹に屈しているわけでもありません。わたしは言葉のそのものが怖いのです。

 声だったら、見えない。一瞬で言葉になって、意識する前にはもう消えていて、形にも残りません。

 でも、わたしの声、文字は、目に見えるのです。形として残るのです。

 声よりも文字のほうが、ずっとずっと言葉が重いような気がするのはわたしだけでしょうか。

 本当は、言葉の重みってどんな形であろうと一緒なのだろうけど。

 妹たちに見えないように、わたしが妹に言われた2文字の言葉をそのまま書いてみました。

「……………………」

 ペンのキャップについたクリーナーですぐに消してしまいました。

 汚い言葉やひどい言葉を、目に見える文字にして伝える勇気も気力も、わたしにはないんです。わたしがこの白いボードに書くことは、決まって当たり障りのない言葉だけ。

 妹がもうお母さんと話し終わったのを見計らって、わたしはまたピアノの練習を始めました。

 あのおしゃべり怪獣も今はテレビに夢中で黙りこくっているから、少しくらいなら文句も言われないでしょう。

 ……なんて、そんなわけないか。

「うるせーんだよっ、やめろ!」

 あと2小節。

「耳障りなんだよ!」

 耳障り。

 …………嫌いだ!

 わたしはもう、弾くのをやめました。

 なんでそんな言葉知ってるんだろう。なんでお母さんは何にも注意しないんだろう。

 どっちもの理由を知っていながらわたしは不満に思って、もうピアノはどうでもよくなってしまって、蓋をそっと閉めました。

 妹はそれで満足したようにテレビへ向き直りました。

 これも、日常です。

 自分の部屋に戻るために階段を上がりながら考えます。

 なんで2年生のくせにあんな言葉知ってるんだろう。

 ――お父さんとお母さんが使う言葉だからです。

 なんでお母さんは何にも注意しないんだろう。

 ――妹のことが可愛くてしかたないからです。

 会話ができない長女と違って、おしゃべりで明るくて笑顔が眩しい次女のことが可愛くて、つい甘くしちゃうからです。

 片方の娘は声が出せないのにも関わらず、うちの両親の耳はいつもいつも大忙しです。妹がずっとずーっと喋ってるから。

 きっと、わたしのぶんの声も持ってるんでしょう。

 それと愛想も。

 だから、仕方ない。仕方ないとはわかっていても。

 わたしは妹が大嫌いです。

 勉強机とベッドと本棚だけがあるシンプルなわたしの部屋に入って、机に置いていた黄色い子供ケータイを手に取ります。

 予想通り、姫花からメールが来ていました。

『やほ! ねえそういえば今日の席がえでもなつりってゆうひさんの隣だった?』

『そうだよ。2連続だね』

 返信すると、さすが彼女というべきかすぐさまあちらからも返ってきました。

『先生が考えた席なのにすごいね! 偶然』

 隣の席の夕灯さん。ピアノが得意で毎年伴奏者を務める、「話す」ことに難しさを抱えるクラスメイト。

 そういえば、彼にも下に妹がいると聞いたことを思い出しました。

 夕灯さんたち兄妹は似ていて仲良しなんでしょうか。それとも、彼が話すのが苦手な分、下の子はうちの妹みたいにおしゃべりなんじゃ。うちの妹は飽き性でピアノをわたしと同時に習い始めたものの1ヶ月で辞めたけれど、彼の妹はどうでしょう。もし妹さんもピアノをしていたら兄妹連弾とかできそうだな。

 気になります。でも、学校で、ましてや夕灯さんの前でまで妹の話なんてしたくないので、明日訊いてみようかなと思ったけれどすぐに取り消しました。メモに書いてまでして訊くような大事なことじゃないからというのもあります。

 そのあとも、姫花とメールで色々と話していると、1階から「いただきまぁす!」と大きすぎる妹の声が響いてきました。

 またご飯の時間なのに呼んでくれなかった、と思ったけれどすぐ、ご飯の時間にリビングにいなかったわたしが悪い、と考え直します。

 メールのやり取りを切り上げて階段を降りると、デミグラスソースのいい匂いがしました。今日はハンバーグです。

 普通に考えてみんなの好きそうなメニューだからといって、油断してはいけません。

「ほら、チーズだけ取って食べないの。お肉と一緒に食べないと」

「なんでだめなの……いいじゃん!」

「ご飯とおかずを交互に食べなさい! ご飯だけ先になくなるでしょ」

「……………………」

 イライラ気味の声になりだしたお母さんと妹の会話を聞き流しながらわたしは、できるだけ早く、でも周りから見て違和感のない速さで黙々とご飯を食べていました。

 家の中では基本、ホワイトボードなどのわたしの『声』が常にそばにあるわけではありません。今は投げられたあとのままピアノのそばに置いてあります。

 手の届くところに『声』がないなんて、もしこれが学校だったら不安でたまらなくなるけど、家では全然大丈夫。

 別に、家族は手話が通じるからとかではありません。

「手を動かさないならテレビ切るよ! さっさと食べなさい」

 そもそも、話す必要がないんです。みんな忙しいから。

「なんでスープのソーセージだけ残すの。ハンバーグも全然食べてない。お肉嫌いなの?」

「ハンバーグのお肉とウィンナーはおいしくない!」

「なんでなの? 前は食べてたじゃない」

「ただいまー」

「あ、おかえり。ほら、パパ帰ってきたのにまだ半分も食べてないよ」

「………………」

「ほら、なんで『ばっかり食べ』するの! ご飯ばっかりじゃなくてお肉もお野菜も食べなさい!」

「……いぃやあ……」

「嫌じゃない。ほらさっさと食べなさい」

「……………………」

「まったく昨日はおかずだけ先に全部食べて、ご飯だけじゃ美味しくないとか言って残したのに……」

「知らんし」

「はぁ……ほらほら、スープ早く飲まないと、また冷たくなったら美味しくないって言うでしょ!」

「今ハンバーグ食べてるじゃん見てわかんねーの!?」

 機嫌の悪い妹の近くにいて良いことなんて本当にゼロなので、わたしはとにかく急いで食べ終わろうとがんばります。

 やがて妹が泣き出したのも、着替えてきたお父さんが食卓についたのも気にせずに。

「…………………………だろう」

「だって………………だし」

「……、でも………………」

「…………………………」

「……なあ、夏俐はどうだ?」

「………………」

 しまった、早く食べることに集中しすぎて、お父さんの話をまったく聞いていませんでした。

 妹のせいでお母さんがイライラしてるときなんかは特に、お父さんがどうでもいいようなことをよく喋ります。必ずどうでもいいようなことだから、いつも聞き逃すのです。

 わたしが黙ったまま動かないでいると、お父さんは微妙に笑って、話を繰り返してくれました。

「あーちゃん、前よりも背が伸びたと思わないか? きっとママの美味しいご飯をたくさん食べてきたからだろうなぁ」

 妹の身長なんて別にわたしはどうでもいいのだけれど、彼女は普通よりとても小さい体で産まれた子なので、両親にとっては重要なのでしょう。

 適当にこくこくとうなずいていると、お父さんは安心したように笑いました。

 そんなふうに、あまりにいつも通りの食卓だったので、わたしは食べながら眠くなってきました。

 ちゃっちゃと食べ終えてまだ妹がぐずっているのを横目にお風呂に入り、上がって髪を乾かしたら歯磨きをして、そのあとは2階の小さな自室にこもります。

 いつもだったらこれから本を読み始めるのだけれど、やっぱり眠たかったので、日記を書いて明日の準備をしたらすぐに寝てしまいました。

 今日家に帰ってからあのホワイトボードに書いたのは、たったの2文字でした。



 翌日の朝、パンの耳だけ残す妹とお母さんがまた言い合いをして、今度は癇癪を起こした妹がわたしの牛乳のコップをわざと倒してきました。

 汚れたせいでもう一度着替えてから家を出たけれど、登校班の集合時刻にはちゃんと間に合ったので何も問題ありません。

 今日も雨が降っていました。長靴を履きたくない妹は家を出るときに大泣きして、いまだに泣きながらも登校班の6年生に手を引かれてやっと歩いています。

 こんなとき、実のお姉ちゃんであるわたしがついてあげるのが当たり前なのでしょうか。

 わたしにはわかりません。手を差し伸べれば噛みつかれるので。

 泣いていてもぼーっとしていても、誰だって歩いていれば学校にはちゃんと到着します。門のところには何人かの先生が立っていて、班の子たちは先頭の6年生に続いてあいさつをします。いつのまにか泣きやんだ妹もみんなも、大きな声で。

 列のいちばん後ろにいるわたしは、あいさつはできなくても、ちゃんと会釈をして通り過ぎます。

 大丈夫、横断歩道にいるボランティアの人ににらまれることは多いけど、学校の先生ならきっと大丈夫。

「おい」

 びくっとした拍子に木の枝に傘が当たって、水滴がたくさん落ちてきました。

 振り返ると、4年生の担任をしている怖い先生が、腕組みをしてわたしを見ていました。

「おはようございます」

「……………………………………」

 圧たっぷりのあいさつをされて、数秒間固まったあとどうしたらいいか考えたけど、やっぱりわたしは頭を下げるしかありませんでした。

 すると、顔をしかめた怖い先生の横にいた、5年生のわたしとは違うクラスの担任をしている先生が、何かに気づいたようにはっとしました。彼が怖い先生に、何かをそっと耳打ちします。何か、というか、まあ。

 わたしは登校班のみんなに置いていかれていたので、その隙に追いつこうと思って小走りで進みます。門から靴箱までにだいぶ距離があるので、校内に入ったとはいえ班行動をすぐに崩してはいけないのです。

 走りながら、なんだか急に泣きそうになりました。雨だからでしょうか。

 でも、そのとき。

 梅雨じゃないみたいな爽やかな風がどこかからか一瞬だけ吹いて、わたしの前髪をまきあげました。

 ふと立ち止まります。

 班にはまだ追いつけていません。それでも、進む気がなくなっちゃったんです。

 さっきの風で、ふいに、この前に音楽室でちょっとだけ聴いたあのピアノの旋律を思い出しました。

 わたしの毎日も、あんなふうに綺麗な風の匂いがすればいいのに。

 思わず、うつむきます。濡れた真っ黒のアスファルトと汚れた長靴しか見えません。

 ………………。

 わかっています。

 わたしだって、わかっているんです。

 こんな毎日を変えないといけないって。

 「仕方ない」で片付けちゃだめだって。

 それに、変わってほしいって思い続けるだけじゃだめだって。

 自分で変えなきゃだめだって。

 家族への親近感がまるでクラスメイトと変わらないのも、何をするのにも声を出さないから失礼な子だって思われるのも、いろんな人がわたしを呼んでくれなかったり置いていったりして忘れることも、日常になっちゃだめだとはわかっているんです。日常にしちゃ、だめだって。

 すべてが声のせいじゃないのもわかっています。それでもやっぱり、音ほど人の注意を簡単に引けるものはないでしょう。

 だから、それを持たないわたしは個性を作り出してアピールしないと、誰もわたしを見てはくれない。

 しかし現実は、わたしにはなんの取り柄もない。

 苦手なことがあっても別の方向から立ち向かう夕灯さんとはまるで違って。

 どうしたら、いいんだろう。

 立ち止まったまま動かないでいると、後ろから来た知らない登校班の人たちが、邪魔そうに物珍しそうに横を通りすぎていきました。

 わたしは変に目立ちたくなんてないので、無理して右足を1歩前へ出します。

 それをしばらく繰り返してようやく、ごった返す靴箱につきました。わたしの登校班の人たちはすでにわたし抜きで短い反省会をして解散していました。

「あ、おはよう」

「……………………」

 クラスの中で姫花以外にひとりだけ、わたしによくあいさつをしてくれる女の子がいます。いつもはちょっと嬉しくなるのだけれど、今日はちゃんと返事のできない自分に嫌気が差してしまって、無理やりに笑顔を作り出しました。

 ふと、夕灯さんは上手く喋れなくても「またね」って自分から言おうとしていたのを思い出して、改めてすごいなぁとため息が出ました。

 さっきの女の子にでも、あっちから声をかけてくれないと、わたしは手を振ることすらしない。朝や帰りのあいさつラッシュの時間帯は、なるべく空気になろうとしてしまうのです。

 ほら、こんなんだからなんにも日常が変わらない。

 時間もわたしを置いていって進みます。もう朝の会、歌の時間。だらだらとした『6月の歌』の渦の中でもわたしは口を閉じたままです。

 隣の夕灯さんはどうしているかというと、唇は動いていないけれど指先がひらひらしています。無意識にピアノを弾く動きをしているようにも見えます。

 もしかしたら、彼には音感があるのかもしれません。音源を聞いただけで楽譜を見なくてもピアノを弾ける人の話は、よくいろんなところで聞きます。

 そんなことを考えて気を紛らわしていても、朝に沈んでしまった心はなかなか浮かんでくれませんでした。

 今年度は新学期に希望を持っていました。でもこの現状はなんでしょう。助けてくれる親友や、お手本にしたいような人が身近にいるのに、わたしはわたしを変えることができていません。

 夕灯さんみたいになりたくても、工夫とか言われても、結局はなにもできないままでいます。

 なにも。なんにも。



〝こんな毎日を、変えたいんです。〟

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