〝5年、夏〟

〝5年、夏〟



 こんな毎日を、変えたい。

 そう願うわたしは、今日も音楽室でおびえています。

「ほらそこ! 話聞いてるの!?」

 先生の冷たい声に、わたしのことを言われたのかと思ってびっくりしましたが、近くの席でリコーダーで遊んでいた男子のことでした。

 先生は彼が分解していたリコーダーを取り上げて続けます。

「今言った通りですね、秋に向けて今年も合唱の練習が始まります。まずは伴奏者を決めないと、ということでね。今年は7日にオーディションをするので、楽譜が欲しい人は授業のあとに来てくださいね」

 伴奏か。

 秋。音楽発表会の合奏と合唱の練習があるせいで、わたしにとって世界一息苦しい季節です。

 もし伴奏ができるのなら、あの季節だけでも邪魔者になんてならずに済むのに。

 でも、できないんです。

 わたしは、オーディションに参加することすらも怖い。


 だって……。


 わたしの小学校では、音楽発表会ですべての学年がなにかの演奏をします。

 低学年はCDに合わせた歌だけ。音楽室でのちゃんとした音楽の授業がある3年生から上の学年は、合唱と合奏をどっちもします。そして、3年生からは歌の伴奏はピアノで、それも児童伴奏。

 3年生のときの音楽発表会、わたしは合奏だけまともに参加して、合唱はただ突っ立っているだけでした。

 1年生でも2年生でも、そうしていたので。

 でも、3年生になったらそういうわけにはいきませんでした。初めて関わる音楽の先生。クラス担任が音楽の授業もしていた低学年の頃と違って、音楽の先生はわたしを放ってはおきませんでした。

 発表会が終わったあと。わたしは呼び出されて、こう言われます。

 ――『あのね。歌えないのは仕方ないんだから、あなたにもできることを考えなさい』

 わたしにも、できること。

 歌以外なら、当たり前だけど、もうピアノしか残された役割はありません。指揮は全学年音楽の先生がするって決まってるし、そもそもわたしに指揮なんてできないし。

 だからそのあと、わたしはお母さんに頼みこんでピアノを習い始めました。ちょうどおばあちゃんちに使わないピアノがあって、置き場に困っていたようだから、快く了解してもらえました。

 そのときは、わたしが珍しく何かをしたがっていたこと、家族も喜んでいました。そのときは。

 慣れれば日常の風景になって、雑音と思われるだけだけど。

 そして、習い始めて半年と少し、今から言うとちょうど1年前。

 4年生の伴奏オーディションにわたしは参加しました。

 合格できないのは初めからわかっていました。初心者のわたしに、あの曲の伴奏はあまりにも難しいので。

 でも、なんとか途中まで頑張って弾いて。

 「わたしにもできること」をできるだけ頑張ったつもりでした。

 しかし先生は、困ったように、呆れたようにくすっと笑いました。

 ――『弾けないならどうして参加したんですか?』


 どうせ今年も、参加したところで全部は弾けない。

 うちの学校の伴奏オーディションは、楽譜をもらった1週間後に行われます。

 1週間で、完璧じゃなくても曲の全部を弾きあげた人が合格、というルールです。弾けた人が何人もいたときはいちばん上手い人が選ばれるらしいですが、たった1週間で全部弾ける人なんて、ふつう1学年にひとりくらいしかいません。

 例えばわたしの学年なら、夕灯さん。

 音楽の授業が無事に終わってちらっと見てみると、夕灯さんはもちろん楽譜をもらいに先生のもとへ行っていました。さすがです。

 授業中に聴いた今年の合唱曲は、みんな知っているとても有名な曲でした。去年の5年生も歌っていて、なんなら伝統的に5年生が毎年歌っている曲です。

 聴いてみて、わたしは『星空の歌』だなと思いました。

 とても綺麗な曲です。歌も、ピアノも。

 もし歌えたら、は想像できないけど、もし弾けたらきっと楽しいだろうな、とは思います。

 ずっとピアノを習っていれば、いつか弾けるようになるのかな。

 今のままじゃあ到底無理なのはわかっているけれど。

 だって夕灯さんは、小さい頃からずっと頑張っているから上手いのでしょう。

 3年生の終わりに始めた、それもとても熱心なわけではないわたしなんかが追いつけるわけがありません。

 それに、もう来年しかチャンスは残っていないし。

 無理、だろうな。きっと。

 早くも諦めたくなったわたしは、思わずうつむきました。

 楽譜をもらいには、行きません。

 頭の中では、さっき聴いた『星空の歌』の旋律が流れ続けています。


 

 1週間後のお昼。夏らしく晴れてとても眩しい日です。

 給食準備中で忙しい時間ですが、今月は当番でないわたしはすることもなく自分の席に座って窓の外を眺めていました。真っ白い給食着を来た当番の子たちが、せわしなく席の間を縫って歩いています。

 そのとき、なにかひんやりとしたかたまりがお盆の上に置かれました。

 ――あ、ゼリーだ。

 カラフルな蓋には織姫と彦星の絵。そして、黄色と青の文字で『たなばたゼリー』と書かれていました。

 そうか、今日は七夕、7月7日です。

 ということは、合唱伴奏のオーディションも今日……。

 隣の席、いえ、今は班の形に変形しているから向かいの席の夕灯さんをちらっと盗み見ます。昼休みにはオーディションだというのに、特に緊張しているようには見えません。いつも通り、少しだけおびえたような感じのまま。この感じはわたしとちょっと似ています。

 でも彼がうつむき気味なのは、今はおびえてるからでも緊張のせいでもないでしょう。きっと先程お盆に置かれたあのお汁のせいです。

 透明な黒色の汁に輪切りのオクラ、魚のすり身そうめん。毎年恒例の夜空のお吸い物です。通称ドクスープ。

 夜空っていうのはこんなものじゃありません。深い紺の空に無数の星粒が散りばめられ、その下を悠々と風が泳いでいく。星は冬のほうが綺麗に見えるとは言いますが、わたしは夏の夜空がとても大好きなんです。

 そういえば、ドクスープを見つめている夕灯さんが弾くのは『星空の歌』。七夕の今日にはぴったりな雰囲気の曲です。

 聴いてみたいな、夕灯さんのピアノ。

「配膳が終わりました。なにか足りないものはありませんか」

 給食当番のリーダーが声を張り上げて、みんなは「ありません」と声をそろえて返します。わたしは代わりに大きくうなずきました。

 いただきますの号令も終わると、みんなは恐る恐るあのお汁に手を付け始めました。

 そんな教室に、夏の少し湿った風がさあっと吹き抜けます。

 あ、風。

 この前、先生を捜して音楽室に行ったときに聴いたあのピアノ。そういえばあの旋律から、こんな風を感じたっけ。

 いや、あれは今よりももっと柔らかい風だった。透明さは似ていたけれど。

 ――あのピアノの正体は結局誰だったんだろう?

 再びちらっと夕灯さんを見ます。わたしよりも食べるのがずっと速い彼は、ゼリーに紙スプーンが刺さらなくて苦戦していました。

 あんな風を吹かせる音を、もう一度聴いていみたいな。

 そうだ、もし、弾いていたのが夕灯さんだったなら……?

 考えながらも食べすすめて、夕灯さんよりもかなり遅れてゼリーの蓋をべりっと剥がします。

 透き通る青とレモン色を一緒にすくって口に入れると、ひんやりしゅわっとした爽やかな味でした。



 そして、昼休み。わたしはひとり、忍び足で音楽室へ向かいました。

 引き戸の窓に貼られた紙の隙間から、そろっと中をのぞきます。照明の消えた音楽室の中には、夕灯さんと数人の女の子。

 確認したらすぐに見るのをやめて、ばれないように扉の陰に隠れます。

 わたしがどきどきしながらもこんなことをしている理由。やっぱり夕灯さんのピアノを聴いてみたくて、オーディションを盗み聴きしようと思ったのです。

 この前に音楽室で聴いたピアノの正体が夕灯さんなら、きっとまたあの風を感じることができるから。

 あの、一瞬だけどそよ風を吹かせたピアノ。透明な風の匂いがする音。

 扉のかげにしゃがんで待っていると、たどたどしい旋律が聴こえてきました。

 これは絶対に夕灯さんではありません。彼はもっと上手だろうし、それに、今の人は右手だけしか弾いていない。

 次の人も、違いました。だってペダルを使っていなくて全然なめらかじゃないから。

 その次の人も、たぶん夕灯さんほど上手じゃない。

 もちろん、わたしに比べればみんなとても上手だけれど。

 だからでしょうか。今のところ、ちゃんと弾ける人は誰もいなかったけれど、先生に鼻で笑われている人は誰もいませんでした。

 ――『弾けないならどうして参加したんですか?』

 そんなことを言われている人は、いません。

 わたしはじっと待ちます。そろそろでしょうか。

 ……あ。

 来た。

 ゆっくりでも一定のテンポ、なめらかで音が濁らないペダル遣い、途中で転んだり止まったりもせず、少し淡白できらきらしすぎていない、『伴奏』の弾き方。

 これが夕灯さんのピアノでしょうか。

 他の人より上手さが格別です。

 綺麗で安定していて、ちゃんと『星空の歌』だってわかる演奏。

 ……すごいなぁ。

 でも、扉越しで音が遠いからでしょうか。あのときみたいな風を感じることはありませんでした。

 ……それか、やっぱりあのピアノを弾いていたのは夕灯さんじゃなかったのかも。

 1曲が終わって拍手の音を感じながら、わたしはそっと階段を降りてその場を離れました。これから結果発表でしょうが、別に気になっていません。もうわかりきっていることですから。



 そして一度は教室に戻ったわたし。しかし、また音楽室の前に立っています。

 もしかしたら、あの風を吹かせたピアニストが今日も来ているかもしれないと思ったからです。

 あれも昼休みの出来事でした。それに、施錠されていることが多い音楽室ですが、オーディションがあった今日は開けたままになっているでしょう。それならきっとあのピアノの人も忍びこめる。

 音楽の先生とはさっきすれ違ったから、もう中にはいないはず。うん、大丈夫。

 そう自分を安心させて思い切って入ったのですが、室内に人がいて、わたしは当然とびあがりました。

「……………………」

 そこにいたのは、夕灯さんでした。

「あっ…………」

 目を丸くした彼は、すぐにうつむいてしまいました。

 いつも隣の席にいる人なのに、さっきの演奏を思い出すとなんだか緊張しちゃいます。だって、さっきのあの格別だった上手なピアノを弾いていたのは、もしかしなくても彼でしょうから。

 この人は、あの、同級生と一線を画した伴奏をたった1週間で完成させた人だ。

 ピアノを聴くと、少しだけ親しくなったつもりの彼も、雲の上の上にいるすごい人になってしまいます。

 わたしは緊張してどうしていいかわからず、とりあえずぺこっと頭を下げました。ピアノの前に立っていた彼は困ったように頭を触ります。

 そして、確認するようにちらちらとこちらを見ると、背もたれのないピアノ椅子にすとんと座りました。

 あ、練習するのかな。

 それなら、わたしなんかがいたら気が散って邪魔かもしれません。音楽室の外でも音は聴こえます。まだあの正体が夕灯さんだという可能性も捨てきれないので、ちょっとだけ盗み聴きさせてもらいましょう。

 そう思って扉のそばで回れ右をしたわたし。その後ろで、夕灯さんの指が鍵盤に触れ、上靴の足がペダルに触れます。


 瞬間、風が吹きました。


 わたしはなにが起きたのか全くわからなくて、多分ものすんごい勢いで振り返ったと思います。

 しかし、3秒待って現実に戻ると、窓は開いていないし、風なんて吹いていないし。

 それに、この暑い昼休みに、今感じた夜空の匂いはひと粒もありません。

 なんとか自分を現実世界に繋ぎ止めている間の世界では、ただ、ただピアノが鳴っているだけでした。

 驚いたわたしは固まっていました。身体が固まったままなんとか動かした思考で、この曲はあの『星空の歌』で、夕灯さんが弾いているんだ。と、謎の確認を行っていました。

 前奏がきっちり終わるまで、わたしは天敵に睨まれたリスのようにぴくりとも動けず固まっていました。はっと我にかえってから、とにかくいちばん近くの椅子に座ります。外に出る余裕はありません。それに、夕灯さんはこちらなんて気にせずに弾いているので良いでしょう。

 すごい。

 すごい、このピアノ。

 この、音。

 さっきと同じ曲なのに、まるで別人のよう。驚きの波が何度も何度も押し寄せます。

 もう我慢できません。

 自分を現実からそっと放すと、情景が、ぶわっと目の前に浮かびました。

 深い紺の空、無数の星粒。そして、風。

 夜空の匂いをたっぷりと運ぶ風。

 風の上でせめぎ合いギラギラと輝く星粒たち。

 曲が盛り上がるところは、星がより一層強く瞬くように、夏夜の涼しく湿った風が吹き抜けるように。

 そしてその向こうに、やわらかで丸い火花が目に見えるようでした。

 ゆらゆらと淡く輝く、レモン色をした大きなひかりが。

 さっきの『伴奏』とは全然、まるっきり違うものでした。

 これが本当の、夕灯さんの音なのか。

 そう強く思いました。

 彼の目に、見たことのない強い光が宿っています。

 まるで彼もこの景色が見えているかのような光です。笑ってないけど、楽しそう。

 星のひかり、瞳の光、風の冷たさ、匂い。ひとかけらの切なさ。そして、どこか深くのあたたかく大切なもの。

 しばらくわたしは、そのすべてを本物のように感じながらぼんやりとしていました。

 はっと気がついたときには、ピアノは止まっていました。

 ――ガタタッ

「わあっ、ああ……」

 こちらを見た夕灯さんが驚いて立ち上がります。

「いい、たんだだっ」

「も、もう」

「いなあ、いっ、のかと……」

 興奮が冷めないわたしは頬を紅潮させたまま、彼に歩み寄りました。

 すごい、すごい、あなたはすごい。こんな音を、こんなピアノを、こんな景色を。

 たくさんたくさん言いたいことがあるのに、ひとっつも音になりません。

 だから、残念ながらわたしは文字にするしかありませんでした。

 グランドピアノの上にとんとメモ帳を起きます。書きなぐるわたしを、夕灯さんはさっきと打って変わっておびえた目で見ていました。

〝どうしたら、こんなきれいなピアノがひけるようになるの〟

 それは、疑問というよりは、感嘆と呼べるものでした。

「………………」

 文字を見た夕灯さんは、唇をぎゅっと結んで恥ずかしそうにしています。

 もうひとつ。これは疑問です。

〝なんでさっきと音が全ぜんちがうの?〟

 さっき、というのがオーディションのときのことを指しているのは、彼にはすぐ伝わったでしょう。なんでわたしがそのときの演奏を聴いていたのか? という疑問は彼に浮かばなかったみたいだし、わたしもそんなこと考えてはいませんでした。つまりはふたりとも余裕がなかったのです。

 黙りこくった彼に、ペンを渡します。

 心なしか彼はほっとしたような顔をしました。わたしが夕灯さんに無理やり喋らせるとでも思っていたのでしょうか。

 夕灯さんはちょっと考えてから、ペンを動かしました。

〝もう、だれもいないと思ってたから〟

 控えめにそう書くと彼はぱっと赤くなって、急いだ様子でわたしにペンを返します。

 わたしは、彼の言葉の意味を考えました。

 誰もいない。誰もいない?

 わたしが一度背を向けたので、そのまま外に出てしまってもう誰もいないと思ったのでしょう。

 ……誰かに見られていなければ緊張しないからあの音が出せた、ということでしょうか。

 首をかしげて考えこんでいると、とてもとても恥ずかしそうな夕灯さんが震えた唇を動かしました。

「きょ、き、今日のは」

「………………」

「き、き、気にしない、で、でね。ほん、とうに」

 まだなにか言いたげだったのでペンを渡そうとしたら、小さく首を振って断られました。

「だあ、誰もいない、と、ときしか、上手く」

「……?」

「う、上手く……」

 そこで言葉が途切れてしまって、じっと待っていると小さな小さな「ごめんっ」が聞こえてきました。

 そして、彼は楽譜をつかんで音楽室を出ていってしまいました。

 誰もいないときしか上手く弾けない、って言いたかったのでしょうか。

 そんな。みんなが見ている前でだって相当上手いのに。まあ、彼の言う「だれもいないと思ってた」ときのピアノは、風の匂いや景色が広がるほどにすごいから、その差のことを言っているのかな……。

 昼休みの終わりが迫っています。考えてもやっぱりわからないわたしは、確かな星空の匂いが身体の奥に残っているのを感じながら、音楽室をあとにしました。

 いつか、夕灯さんと仲良くなれたら、ちゃんとあのピアノの謎を教えてもらえるかな。

 夕灯さんとピアノのことが頭から離れなくて、午後はずっと、なんだかピアノを弾きたくてたまりませんでした。こんなのは初めてです。

 家に帰ってすぐ、どきどきしながらピアノに触れました。

 夕灯さんのを見たあとだと、まるで違う楽器みたいに思えます。

 つややかな本体、整然と並ぶ鍵盤。木と埃の独特な匂い。

 ただ触ると音が鳴るってだけのカラクリ道具ではない。あんなに素晴らしい景色や風を作り出せる、とてもとても特別な存在。

 それがわかると、あのどっしりとした身体のなかに、わたしの触れたことがない風や空や美しいなにかをたくさん飲みこんで秘めているように見えて、わたしはその綺麗なすべてのものを知りたくてたまらなくなりました。

 あの夕灯さんの演奏を聴いてからというもの、わたしは急に、ピアノを弾くのがとても楽しくなりました。



〝夕灯さんのピアノの中には、星空が広がっていました。わたしは、いつか、〟

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