隣の姫花には内緒だけど、渡り廊下を歩く足がすごく重いです。

 連休明けだから身体がだるいのではありません。今わたしたちが向かってる先が原因です。

 久しぶりの学校でも元気な姫花と共に、その部屋に近づきます。昔のこの学校の児童が作ったらしい、歌う子どもと音符が書かれた看板のある扉をくぐりました。

『音楽室』

 陽気な明るい文字とは対照的に、わたしの気分はどこまでも沈めそうです。

 姫花は、わたしが音楽の授業が苦手なことを知りません。もちろん、歌えないから音楽の授業自体をあまり好きじゃないだろうな、くらいには思われているでしょう。

 でも、もっと、決定的な理由があってわたしはこの音楽が嫌いなのです。

 これ以上迷惑をかけたくないので、伝えていないけれど。

 同じクラスになったので、伝えなくてもばれてしまうかもしれないな、ともぼんやり思いました。

 決まっている席に座り、いすの横に音楽バックを下ろします。女子はピンク、男子は水色。その2色が音楽室内で、無機質に交互に置かれているようすは、前から見て気持ちがいいものなのでしょうか。

 聞きなれたチャイムが鳴って、目を閉じます。

 早く終わってよ、45分。

 鳴り終わりと同時に目を開けると、わたしが音楽を嫌いになった元凶が立っていました。

「みなさんこんにちは。ゴールデンウィークは楽しめましたか?」

 興味がないくせに訊かないでほしい。

 そう、この人こそ、わたしが音楽の授業が嫌になってしまった原因。

 もちろん、歌えないわたしがなんにも工夫しないせいでつまらないのだということもわかっています。

 でも、この先生と一緒にいると、つまらないとか、孤独感を超えた何かがわたしのお腹の中に居座ってつむじ風のようにぐるぐるするし、気持ち悪くてたまらないので、わたしは音楽の授業を受けたくないのです。

 わたしの苦手な笑顔をいつも浮かべている音楽の先生は、誰にとってもどうでもいいのであろう自分の休暇話をして、それから号令をかけて授業が始まりました。

「そういえば。4月にも言った通り、今年もひとりずつ歌のテストをしますからね。1学期と2学期にそれぞれ。ですので、1回1回の歌を大切に歌って、テストのときに後悔しないようにしてくださいね。たまにいるんですけど、恥ずかしいから歌えない、とかはだめですよ」

「…………!」

 今…………

 わたしのほう、見た?

 ……考えすぎかな。

 思わず膝の上のファイルに目を落として、でも人の話を目を見てちゃんと聞かないと怒られると焦って、また先生のほうに視線を戻しました。

 授業についての話が終わると、先生がピアノの前に立って、歌の練習が始まります。みんなはいつも朝の会で歌っている『5月の歌』を歌います。

 わたしは歌えません。

「………………」

 音楽室の席順は出席番号順であり教室と違うので夕灯さんとは席が遠く、上手く話せない彼は歌の時間をどのように過ごしているのか、気になったけどわかりませんでした。

 そもそも、彼は歌を歌えないのでしょうか。伴奏をしていることから勝手に歌うのも難しいと考えていましたが、「話す」ことだけに困難を抱えている人もいると聞きます。

「そこ!」

 鋭い視線を向けられて、びくっ、と肩をはね上げました。

「ちゃんと口を開けなさい」

「………………………………………」

 さすがに見かねたのか、隣の女の子が助け船を出そうとしてくれます。

「せんせ……」

「じゃあ次は2番からいきますよ」

 先生はその子の声なんてまるで聞こえていないみたいにさえぎって、ピアノに向かいなおりました。歌のピアノ間奏が始まって、その子も口をつぐみます。

 30人くらいのわたしたちの中に、冷たくて濁った何かが漂いました。

 だらだらとした歌声の真ん中で、わたしは、本当に、本当に情けなくて申し訳ない気持ちになりました。

 なにも悪いことはしていないのに、わたしのせいであの子は先生に無視されて、嫌な思いをしたんじゃないか、って。

 それに、授業中に誰かが注意されるとみんなのやる気も一瞬でそいでしまうし、あと、これは考え過ぎかもしれないけど、わたしがいるせいでこの先生の機嫌がすぐ悪くなっているんじゃないかとか、そんなことも考えてしまって。

 これだから、音楽の授業は嫌いなんです。

 思わず手をぎゅっと握りしめてしまい、持っていた音楽のファイルが少し曲がりました。



「夏俐さん、ちょっといい?」

 音楽が終わって、次の国語が終わったあと。廊下にいたわたしは、急に担任の先生に声をかけられました。

 素直についていくと、先生はどんどんと歩いていって、誰もいない奥の教室の前でやっと止まりました。

「あのね。音楽の先生がね、夏俐さんにお話したいことがあるみたいなの。今日の昼休みに捜して、先生のところに行ってくれる?」

「…………………………」

「……行って、くれる?」

 慌てて、こくこくとうなずきました。

 黙ったままじゃ意思は伝わらないんだと、4年生のときの担任の先生も言っていました。

 わたしは、給食が終わった瞬間この世界の時間が全部止まってしまえばいいのにと、本当に思いました。

 でもそんなことあるわけなくて、1秒は1秒の長さのまま過ぎていきます。

 昼休み、姫花が友だちに絡まれていてこっちを見ていない隙に教室を出て、まずは音楽室へ向かいました。音楽室よりも職員室に先生がいる可能性のほうが高いと思ったからです。わざわざ先生がいなさそうなほうへ先に行く理由なんて、説明しなくてもいいでしょう。

 音楽室の引き戸をガラガラと音を立てて開け、まず鍵がかかっていないことに落胆しました。開いているなら、ほとんどの場合先生がいるからです。

 実は、音楽の先生に「お話がある」と呼び出されたのは、これが初めてじゃありません。

 またか、またか、と心の中のわたしがうつうつと唱えています。

 薄暗い音楽室に入ると、香水っぽいいつもの匂いとベニヤ板の匂いがしました。

 そして、わたしはとび上がりました。

 突然、ピアノの音がしたからです。

 とーん、と、ひとつ鳴って、その音は止まりました。しかし、わたしはどれだけびっくりしても声は出ないので、わたしに気づいて止めたわけではなさそうです。そもそも、扉が開けられたことにも気づいていないみたいですし。

 わたしが、ちょうどピアノの前に座った人からは死角になる位置で固まっていると、もう1音、とーんと音が鳴りました。さっきより少しだけ高い音です。

 そして、その次の瞬間、わたしは柔らかいそよ風を感じました。

 これまたびっくりして、音楽室じゅうを見回したけど窓はひとつも開いていなくて、でも、でもわたしは確実に絶対、あの透明な風の匂いを感じたのです。

 なにが起きたのか全くわかんなくて、この数十秒で現実に起こったことを頭の中で整理してみました。

 そして、何が起こったかに気が付きました。

 とーんと弾かれたあの音のすぐあと、なにかの曲がワンフレーズだけ弾かれて、それで。

 わたしはそのときそよ風を感じて。

「あら、林田さん」

「…………」

 わたしはさっきよりももっととび上がりそうになったけど、今度はぐっとこらえました。

 だって、化粧品のような香りで何重にも本音が隠されたこの声の主は、あの人しかいないから。

 振り返ると、入口で固まったわたしの背後、廊下には、音楽の先生が立っています。

「ちゃんと来てくれてよかった。行きましょう」

 逆らうという思考にすらなれない相手にそう言われたので、わたしはあのピアノを誰が弾いていたのかすごくすごく気になっても知ることはできず、音楽室をあとにするしかありませんでした。

 先生と一緒に誰もいない空き教室へ向かう前、音楽室の中を振り向くと、ピアノの蓋が閉められる音がかすかに聞こえました。



「白状しなさい夏俐。昼休み音楽の先生のとこ行ってたって、いったい何をされたの!?」

 ちゃんと説明すると3年生のときまでさかのぼらないといけなくなるので長くなるけれど、まとめて簡単に言うとこうです。

〝今年も、音楽のじゅ業がんばってねってお話〟

「はん?」

〝まい年されるの〟

「ほー? んじゃあれだ、あの先生のことだからこうでしょ。それを言いたいだけなのにどーでもいい遠回りな話とか自分の思い出とか話し出すでしょ」

〝ほんっとにそう〟

「なんなのあの人!」

 ぷんぷん怒る姫花には内緒だけど、毎年じゃなくて学期に一度くらいは呼び出されてこんな話をされるのです。

『歌えなくてもできることはあるでしょう? 今はまだ難しくてもね、先生はあなたに成長していってほしいと願っているの』

 思い出してため息をつきそうになったけど、すんでのところで飲み込みました。姫花の前ですし。

「んもー、あの音楽の先生のせいで昼休み夏俐と遊べなかったーっ!!」

〝じゃあ今日の放かごあそぶ?〟

「え! いーの!?」

 急にキラッキラな笑顔になった姫花のおかげで、わたしの気持ちも少し明るくなりました。実はしたいことがあったんだ、と、姫花はにこにこのまま話してくれました。

 すると、彼女がふと思い出したというふうに言いました。

「あ、そういえば、昼休みに廊下歩いてるときとか夕灯さん見かけなかった? 放送委員の6年生が捜しに来たんだけどいなくてさ」

〝みてないよ〟

「そーだよねー。靴はあったから外じゃないらしいけど。図書室かな、あの人って本好きだっけ?」

 どうでしょう、わたしはほぼ毎日のように学校図書館に通っているけれど、夕灯さんとはち合わせたことはあまりありません。

 ……あれ?

 昼休み、夕灯さん、いない、外じゃない、図書室でもない。

 もしかして。

「ん? どした?」

〝音楽室で、だれかがピアノひいてた〟

「あー! それ夕灯さんかもね」

〝だれだったかは見れなかったけど〟

「そういうことならおっけー、訊いてみとく」

 姫花がぱっと明るい声で言います。もしわたしが声を持っていたとしても、本当かどうかわからない情報を頼りに人に話しかける勇気なんてありません。

 それにしても。夕灯さん、か。

 音楽室の、あのくぐもるような空気の色を一気に変えた、柔らかいそよ風を吹かせた音の持ち主。

 すごかった、すごく。わたしには、すごいとしか言えなくて、たった数秒しか聴いてないのに、あのそよ風の柔らかさや温度がまだ肌に残っていて。

「夏俐ぃ? ぼーっとしてるけど大丈夫?」

 姫花の心配にはっとして、すぐさま親指で大丈夫サインをして見せました。姫花は「それならよしっ!」と、わたしのこぶしに同じグッドサインを乾杯するみたいにぶつけてきました。

「でもよく考えたら音楽室ってさ、あの先生が絶対立ち入り禁止にするよね? 生徒がピアノに指1本でも触れたら窓から投げとばしそうな感じだし」

〝なげとばされたら死ぬよ!〟

「わははっ、3階だもんね!」

 確かに、姫花の言うことはもっともです。実際、お遊び半分でピアノに触れた男子がヒステリックにぶっ叩かれているのを見たことがあります。手の甲を竹定規で。

 でも、あの夕灯さんなら特権的に許されそうな気もしなくもなくも……。

 そんな不思議を抱えながらも、音楽の先生のべたついてくる声とあのピアノの爽やかな音を交互に思い出して、そんなこんなしていればあっという間に学校は終わりました。

 放課後、6年生の2人組が廊下から教室内へ手招きしているのを横目に見ました。きっと夕灯さんを捜していたとかいう人たちでしょう。

 わたしは特に学校での用事はないので居残ることはせず、姫花を待ってすみやか教室を出ます。ですが校門を出ればその瞬間に別れました。残念なことに、通学路の進む方向が反対なんです。

 まあ、どうせすぐ会うけどね。

 家にランドセルを置いて宿題をぱぱっと終わらせてすぐ、わたしはまた靴を履いて家を出ます。

 向かう先は、姫花の家。今日は姫花の家のお庭で遊ぶ予定です。

 学校からだと反対方向の山﨑やまさき家ですが、わたしの家からまっすぐ行けば、歩いてでもそんなに遠いことはありません。

 大きなワゴン車が止まっていて綺麗な花の咲くプランターが置かれているのが姫花の家で、その隣、駐車場に並ぶ自転車のカゴにいつもサッカーボールが入ってるのが怜歩さんの住む家です。

 ドアチャイムを押そうとしたらその瞬間に向こうから玄関が開いて、初めてのことじゃないのにやっぱりわたしはとび上がりました。

「びっくりしすぎー!」

 笑う姫花と一緒に庭へ出て、わたしが先生に呼びつけられたせいで昼休みにし損ねたことをすることにします。

 姫花がしたかったのはどうやら、昨日手に入れた心理テストの本からわたしに問題を出すこと。もちろんそんな本は学校には持って来られないのでメモしていたらしいですが、せっかく家にいるのでと彼女は現物を持ってきました。

 キラキラしたピンクの表紙は、他にも姫花の部屋で似たようなものを数冊見た覚えがあります。理由はよく知らないけど、彼女は心理テストが好きなのです。

 途中まではわたしはメモに書く方式で言葉を伝えていたけれど、面倒になってきてからは首に掛けたこどもケータイを使っていました。もう使い慣れたこの黄色いケータイで打つほうが書くよりもよっぽど速いのです。ちなみに姫花のこどもケータイは可愛いピンク。

「いまあなたが心の奥で意識してる人、だってー! 夏俐はハト選んだから、えっと、隣の席の人! あたしウサギ選んだら幼なじみって出てきたんだけどっ!!」

 チョコレイトのやろう意識にまで入り込んでくんな! と文句を言った姫花だけど、さすが彼女、切り替え速度がすさまじい。

「って、え!? 隣の席!? 夕灯さんじゃん!」

〝心の奥じゃなくても意識してるよ〟

「えっ!?」

 瞳をキラキラさせて両手で口を覆った彼女に、わたしは慌ててつけ足します。

〝変な意味じゃないよ、今日のピアノがすごかったから〟

「へぇー、そんなにすごかったんだ。何の曲弾いてたの?」

〝わかんない〟

「そっかー。でもさー、夕灯さんすごいよね。勝手に放送委員にされて文句も言わせてもらえないのに、それでも頑張ってるし。しかも、話すの得意じゃないのにね。んー、ちょっと無理してるようにも見えるけど」

〝本当にすごいよね〟

「夕灯さんもそうだけど、夏俐も話すこと関係で困ることあったらいつでもすぐ伝えるんだよ? もちろん声に関係ないことでもね。なにもあたし相手に隠さないでもいいのに夏俐ってひとりで溜めることあるから」

〝ありがとう〟

 姫花は優しい。けれど、わたしだって姫花に迷惑はかけ過ぎたくないのです。

 あなたもいつかは自立しなきゃいけないんだよ、って、いろんな人に言われるし。

「あたしも耳がまた悪くなることあったら夏俐に頼っちゃうかも。あ、お互い筆談になったら逆にちょうどいいかも?」

〝そうなったらもうがんばって手話覚えよう〟

「わははっ! だねぇ、あたしちっちゃい頃に手話あきらめちゃった派だもんね」

〝難しいもんね〟

「もーっとちっちゃい頃からやってれば慣れてたかもしれないらしいけどね、無理無理」

 姫花は、今は手術をして治っているけれど、小さい頃から耳が悪かったのです。全く聞こえないわけではなかったらしいけど、姫花自身もよく覚えていないのでそこはわからないんだとか。

 もう悪くならないのがいちばんだろうけど、姫花が手話を覚えてくれると会話が速くなるのでいいな、とは思います。

 そのとき、不意に隣の家の玄関が開く音がして、ビビットイエローの靴下を履いた怜歩さんが出てきました。姫花の家の庭と向こうの玄関は至近距離なので、お互いに目が合って、姫花と怜歩さんが同時に「うげっ」と声を上げました。

「何ぃ? 女子会邪魔しないでよ!」

「サッカー行くんだよっ」

「あーっそ! そうだ、てかあんた、あたしの意識まで入り込んでくるな!!」

「は、はぁ!? なんだよそれ!?」

「もういいですぅ、早く行け!」

「まじでなんなんだよ!」

 こんな感じだけれど怜歩さんは、姫花の耳がちゃんと聞こえていない、聞こえていないともよくわかっていない時期からの幼なじみです。だから、わたしよりも姫花のことがよっぽどわかっているんだろうなぁと羨ましくなることもありました。そりゃあ、もしかするとお互いに心の奥で意識しあっていたりして。本人たちは絶対になにがあっても認めないだろうけど。

 姫花がべーっと舌を出す横で、わたしが心の奥で意識しているという人のことを考えていました。

 隣の席の夕灯さんは、今頃ピアノを弾いてたりでもするのかな。小学生なのにあれだけ上手なのだから、きっと毎日何時間も練習してきているのでしょう。

 上手く話せなくても、そうやって自分の個性を磨いて、人の役に立つ。

「………………」

 工夫か、と急にため息をつきたいような気持ちになりました。

 音楽の先生に今日言われたことです。

 ――歌えないなりの工夫を、音楽の一部になるための工夫を。

 この前、朝の会で集中して耳を澄ませて、夕灯さんが歌っているのか確かめてみました。夕灯さんは歌うのも難しいんだろうと決めつけていたけれど、そうじゃないかもという疑念がわいたからです。世の中には、話すことは難しくても、歌となるとスムーズに声が出る人もいます。わたしのように根本から声を持たない人は別ですが。

 彼は「話す」ことに難しさがあるのか、「声」に関する全てが苦手なのか。

 しかし結局のところ、正解は、わたしの観察ではおそらく後者です。

 彼は小さく口を開けているだけで、まったく歌ってはいませんでした。歌っていない、というよりは、わたしのように歌えないのだと今は考えています。

 そんな彼の工夫はやっぱり、ピアノを一生懸命頑張ることだったりするのでしょうか。

 歌が無理なら伴奏を、って。

 そういう彼なりの、工夫。

 100人近くの合唱の地面になる彼はかっこいい。だけど、わたしにはそんな工夫ができる気もしませんでした。

 3年生の夏、おととしくらいにピアノ教室に通い始めたわたしですが、少しくらいは楽しいと思ってものめり込むようなことはなくて、伴奏をできるようなレベルには程遠いのが現状です。

 というか、伴奏ができるようになったところで、この学年には夕灯さんがいるから他には誰も必要ない。

 それなのに、工夫なんて言われても。

 思わずうつむいてしまったそのとき、5月らしい柔らかい風がさあっと吹いて、姫花のポニーテールとわたしのスカートと向こうの怜歩さんのユニフォームをはためかせて行きました。

 ちょうど、昼休みにあのピアノを聴いたときに吹いたそよ風のようで、どこかの苦しさが和らぐのを感じました。



「ごっめぇん夏俐! 愛しのカメちゃんたちのお世話があるから今日は帰れない! え!? 待ってくれるの!? まじ天使!!!」

 放課後。こんなセリフとともに飼育小屋へ走り去っていく姫花を、軽く手を振って見送ります。

 一緒に帰ると言っても校門までですが、わたしは姫花の委員会の仕事が終わるのを大人しく待つことにしました。

 自分の席に座って、横にかけているブックバックから本を1冊取り出します。今読んでいるのは、学校の図書室で借りた外国の本。

 硬いカバーをめくると現れる題名。栞の位置に指を入れて一気に開くと、親しんだ活字の群れが目にとび込みます。

 わたしに少しでも人より優れていることがあるとしたら、それは読書量だけだでしょうか。

 小学校に入学して以来、毎休み時間が退屈なのでいつも本を読んでいたらすっかり習慣になっていました。それ以前の小さいころも絵本が大好きでした。

 今は挿絵がたまにあるような本をいつも読んでいます。あんまり機会がないけど、絵がまったく出てこない本だって実は最後まで読めるんですよ。

 じっとページをめくりながらファンタジーな世界へとんでいると、いつのまにか教室は空っぽになってしまっていて、蛍光灯すら消えてしまった教室にはわたしひとりになっていました。

 もちろんまだまだ明るいけれど、西日にほんのり赤みがついてきて、わたしは少し不安になります。

 姫花はまだ戻ってきそうにありません。どうしたのかな。

 本を読む手を止めてそわそわしていると、ざざざっとほんのかすかにノイズ音のようなものが聞こえました。

 5年生となれば誰でも正体は知っています。校内放送が入る前触れです。

 黒板上のスピーカーを見上げると、すぐに音楽が流れ始めました。曲名は知らないけど、この少し切なくて暗い感じの音楽は下校時間をお知らせするものです。

 もうそんな時間か、と思いながら、物悲しいゆったりしたメロディーを聴いていると、音が少しずつ小さくなっていきました。

 放送委員の決まりとして音楽をぷつっと途切れさせるのは禁止らしく、いきなり音量を下げたり音楽を止めたりなんてしたら担当である音楽の先生が放送室にとんでくる、なんてうわさも聞いたことがあります。

 たしかに、音楽の先生ならそんな細かいことにけちをつけそうな気もします。下手すれば委員会をクビになるとか言っている人がいたけど、いくらあの先生でもさすがにそれはデマでしょう。

 今日の担当者はそんな決まりを忠実に守る放送委員さんのようで、お手本のように徐々に音量が絞られてからアナウンスが始まりました。

 あ、放送委員と言えば……。

『げ、下校の、時間にな、なりました』

 ぎこちない男の子の声に、思わずまたスピーカーを見上げました。

 ――この声は、もしかして。

『きょう、教室や、中庭、に、に、の、残ってる人、は』

 途切れ途切れになりながらもアナウンスをやめないは、もしかしなくても夕灯さんです。

 すごい、な。

 彼が定型文を言い切ったのち、音楽は再びもとの音量で流れ始めます。それを聞き流しながら、わたしは少しぼーっとしていました。

 夕灯さんは。

 夕灯さんは、すごいな。

 自分の苦手なことにでも文句言わないで。

 いや、わたしみたいに、文句すらも言えなくて苦しいのかもしれないけれど。

 でも、それでもちゃんとちゃんと一生懸命で。

 歌えなくても伴奏をしたり、理不尽に押しつけられても委員会の仕事をまっとうしたり。

 わたしには、絶対にできないです。

 わたしはいつも逃げてしまいます。

 声が出ないから、出せないから、いろんなことから逃げています。

 よく、諦めるしかないんだよね、仕方ないよ、と励ましのようなことを言ってくれる人もいますが、違います。

 わたしは、諦めてるんじゃなくて、逃げてるんです。

 もっと頑張れば、頭を一生懸命使って考えれば、もっとできることがあるのかもしれないのに。それこそ夕灯さんみたいに、工夫すれば。

 それなのに逃げてしまうんです。まわりに「これは無理かな?」と聞かれると首を縦に振ってしまうんです。まわりがなにも言わないなら言わないで、わたしもなんにもできないまま棒立ちしてしまうんです。

 そんなわたしだから、夕灯さんにはもう、すごいとしか思いようがありません。

 そうぐるぐる考えていると、もう帰りの放送はすっかり終わっていました。

 本を読み進める気にもなれずなにもしないでいると、ふいに教室の後ろの扉が開きました。

「わっ」

 振り向くと、放送を終えて戻ってきた夕灯さんでした。彼はきょとんとしたまま扉のところに立っていて、わたしはタイミングのすごさにどきっとしました。

「な、なんだ。なつ、なつりさんか」

 彼はほっとしたようにそう言うと中へ入ってきました。普段自分から言葉を発することのない彼がひとりごとのようなことを言ったのと、わたしを見て安心したような顔をしたののどっちもが不思議で、わたしは誰にも見えないハテナを浮かべました。

「あっ」

 その声にびっくりして振り返ると、夕灯さんが申し訳なさそうな顔をしました。

 どうしたの? の意味を込めて首をかしげます。

「ひ、姫花さんが」

 困ったように苦笑いしながら、彼は数分前の出来事をゆっくりゆっくり教えてくれました。

 放送室から5年3組教室に戻る途中の、1階の渡り廊下。そこは飼育小屋と近く、なにやら悲鳴みたいなのが聞こえるからなんだろうと思いのぞいたら、ずぶ濡れになった飼育委員たちがいたようです。

「じゃ、あぐち、えっと、蛇口が、こわる、壊れた、み、みたい。まだ、……も、ど、どらないっ、かもね」

 その光景を想像するとちょっと面白いけど、大変そうだなぁ飼育委員ってすごいな、と思いました。大変と言えば放送委員もですが。どちらも放課後まで残らないといけないのは大変そうなのですごいです。

「そ、そういえば、ほう、そうさ」

 放送さ? なんでしょう。

「ろ、6年生が、こ、ここの、じ、じ、時間、専門にして、くれ、くれたんだ」

 そう聞いて、ピンと来ました。

〝きいてる人ほぼいないじかんだから?〟

 夕灯さんはうんうんとうなずきました。

 不思議なピアノを聴いたあの日、6年生の放送委員が夕灯さんを捜して話していたのを思い出しました。きっとあのときでしょう。

 わたしは委員会の人の優しさに、関係ないけれど思わず笑顔になります。

〝よかったね!〟

「うん……」

 ふたりの間が無言になります。これで気まずいなんて思っていたらわたしたちは生きづらすぎてさらに大変になっちゃうので、特に何も思うことなく、夕灯さんはランドセルの蓋を閉めて背負おうとしていました。

「ま、ま……」

 手を中途半端に上げた彼の仕草から「またね」と言おうとしていると汲んで、わたしは笑顔で手を振ります。

「ま、またね」

 夕灯さんが教室を出ていって、わたしはまたひとりになりました。

 ぱたんぱたんと階段を1段とばしで駆け下りる音が響いて教室まで聞こえてきました。

 その音も遠ざかったころに、わたしは立ち上がります。

 下まで持っていってあげようと思って姫花の桃色のランドセルを手に取り、もちろん自分の水色のランドセルも背負って教室を出ます。

 誰もいない、ただ自分の足音が反響するだけの階段を降りながら、ずっと考えていました。



〝ゆうひさんみたいなすごい人になるには、わたしはどうしたらいいんだろう。なにをどう、工夫したらいいんだろう。〟

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