第10話 魚

夜明け間の、一番暗い時間帯。志津は行為を終えた疲れから、水底の泥に沈むように眠っていた。青い光に包まれて、上下左右の感覚がない。ただ、魚のように静かに呼吸ができた。

「…ー、」

甘い歌声が聞こえる。その声に誘われるように、夢の狭間を泳いでいく。徐々に意識が酸素を得たように透明になっていった。

「…。」

すう、と息を吸い込んで、ゆっくりと瞼を持ち上げるとそこに月路がいた。薄めに見る彼の耳元のピアスが月光を反射する。月路は志津を優しく見守り、髪の毛を梳くように撫でながら歌を口ずさんでいた。

今夜は月がきれいだと、歌う。こんなにも美しいのに、何故と紡ぐ。

志津の目の淵に涙が浮かぶ。月路に気づかれないように、再び瞼を閉じた。


チチチ、とアパートの前の電線にいるすずめが囀る。白い太陽が目を覚まして町を照らしていた。

朝だ。

スマートホンのアラーム音が鳴る前に、目覚めたようだ。低血圧の志津はしばらくぼんやりと天井を見上げて、そしてゆっくりと横を見る。そこには誰もいない。

「月、路。」

寝起きでかすれた声で彼の名前を呼ぶ。静かにその声が部屋に響き渡り、そして。

「呼んだ?」

月路がひょこっと壁から顔を出した。志津は目をぱちぱちと瞬かせる。

「いる!?」

思わず飛び起きて、叫んでしまった。

「まだいまーす。」

月路は困ったように笑いながら、人差し指で頬をかいた。ベッドから這い出して、志津は彼の下へと駆け、その存在を確かめるように月路の頬に触れる。相変わらず冷たい肌だったが、確かに感触は指の腹に伝わった。

「…っ。」

「ごめんね?」

月路は猫のように志津の手のひらに、スリ、と頬を寄せた。

「せっかく俺とセックスしてくれたのに、成仏には至らなかったみたい。」

そのまま志津の手にちゅっとキスをする。

「痛ててて。」

無言のまま、志津は月路の頬を引っ張った。

「謝るな、バカ。」

「…うん。ありがと。」

はにかむ月路を見て、志津はぎゅっと胸が締め付けられるようだった。月路に成仏してほしいと願った思いに反比例するように、まだ現世にいればいいのにという想いが存在していた。その気持ちがもしかして彼の成仏を邪魔してしまったのだろうかと考えてしまうが、それでも月路がまだ、今、ここにいることが嬉しい。思わず泣きそうになってしまうが、志津は堪える。

「それで、月路は何してたの?」

「ああ、えーと。志津ちゃんに朝ごはんを作れたらいいなあと思って、努力してた。」

曖昧な言葉選びに志津が首を傾げると、月路は台所を指差した。

「?」

台所を見ると、鍋やらフライパンやらが散らかっていた。

「ずっと気合を入れ続けるって難しくて、触れ続けることができなかった。」

両手を合わせて謝る月路に、志津はくすりと笑ってしまう。

「いいよ。その気持ちが嬉しいから。」

志津は散らかったキッチン用品を片付けた。

「なんか、早く起きちゃったから散歩にでも行く?」

気を取りなすように月路に尋ねると、しょげていた顔がぱっと輝く様に笑顔になった。

「うん、行く!」


近所にある大きな公園をゴールに定めて、二人は歩いていく。早朝、出歩いている人は少なくのんびりとした時間だった。

「眩しいー。朝日って久しぶり。」

月路は子どものように先を駆けていく。葉を揃えるように剪定された木を見つけては見上げ、道路を横切る飼い主に連れられた散歩中の犬に手を振っていた。無邪気な様子の月路を見守りながら、志津は後をついていく。

ふと、志津の視線を受け止めた月路が振り返って、大きく手を振った。

「志津ちゃん!」

月路に追いついて、肩を並べて歩く。

「楽しそうだね。」

「うん。俺、いつも朝になったら寝る生活してたから、新鮮。」

そう言いながら月路は頭上を仰ぎ、太陽の光を目いっぱいに浴びた。月路の前髪の毛先が金色に透ける。

「不健康だなー。」

「そうだね。今思えば、俺、毎日を無駄に過ごしていたかも。」

他愛のないことを喋る。本当にこの人は死んでいるのだろうかと思う瞬間もあったが、地面を見ると縫い付けられた影が自分の一人分しかなくて、彼の死を実感する。

やがてゴールの公園に辿り着き、広場では老人たちが健康を意識してラジオ体操に励んでいた。ジョギングをする人が外周を走り、存外に活気づいていた。

「今日から普通に私、出勤だけど。月路はどうしてる?」

「俺はー…、まあ、のんびりしてるよ。」

小首を傾げつつ、月路は答える。

「そうだね。せっかくだから、休めばいいよ。」

志津の言葉に月路は、うん、と頷くのだった。

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